――その二日後。
 僕が、誰かに引き渡される予定の日。

 前の晩からほとんど眠ることができなかった僕は、窓の縁にもたれかかり、夜明けと共に街へやってきたクレイダーが走るのを、ぼうっと眺めていた。

 母さんはなんでもない様子で、いつも通り仕事へ出かけて行った。
 母さんが不在の間、何度も家を出てみようかと考えたけれど、窓から通りを行き交う人々が見えると、どうしようもなく怖くなってやめた。

 そして何もできないまま午後八時になり、母さんがいつも通り食事を持って来た。
 僕の大好きな、ハンバーグだ。

「……いただきます」

 これが、母さんの作る最後のご飯になるのかな。
 そう思うと、なかなか手が付けられなかった。

「どうしたの? 食べないの?」

 母さんが、静かな声で尋ねる。
 その表情からは、何の感情も読み取れない。

 ……本当に、なんともないのかな。
 僕と離れることを、なんとも思っていないのかな。
 僕は、怖くて仕方ないのに。
 生まれてからずっと、この部屋と、母さんしか知らずに育ったのに。
 急に、引き離されるなんて。

 ……それとも。
 こんな厄介な悪魔の世話から解放されて、母さんは、清々するのだろうか……?


「……ねぇ、母さん」

 僕が呟いた、その時。
 一階で、電話が鳴った。

 母さんは心当たりがあるようで、すぐさま屋根裏部屋を出て、階段を駆け下りて行った。
 開け放たれたドアの向こうから、電話に応じる母さんの声が聞こえてくる。
 恐らく相手は……僕を引き渡す予定の人だ。

「…………」

 僕は、煩いくらいに鳴り響く心臓を抑え込み……
 そっと、ドアの外へ、足を踏み出した。

 母さんは、まだ電話をしている。
 その声を聞きながら、音を立てないように階段を降りる。

「……はい、眠っている間に……ええ。あれを口にしたらしばらくは起きないかと……」

 ドクン。
 心臓が、一際強く脈打った。

『口にしたらしばらくは起きない』

 ……そうか。つまり、あのハンバーグには……
 僕の大好物には、僕を眠らせるための"何か"が、混入されていたのだ。

「…………ッ」

 僕は一気に階段を駆け下り、玄関に掛けてあった母さんのコートを羽織ると、そのままドアを開けて外へ飛び出した。
 母さんの慌てた声が後ろから聞こえるけれど、構わずに走り出す。

 自分の靴なんてもちろんないから、裸足だった。
 走ること自体初めてで、何度も足がもつれたけれど、それでも無我夢中で足を動かし続けた。

 賑やかな昼間と違い、通りに人はいない。
 その代わり、周りの家から美味しそうなにおいと、楽しそうに食事をする声が聞こえてきた。

 それを別の世界のことのように感じながら、僕はひたすらに走って、走って――



「――ハァ……ハァ……」

 気がつくと僕は、開けた土地と、その奥に四角い建物がある、そんな場所に辿り着いていた。門の横には、『学校』の文字が見える。

 ……そうか。ここは、母さんが勤める学校だ。地図の上では何度も通ったことがある。

 門の横にある通用口のドアノブをひねると、鍵がかかっていないらしく、簡単に開いた。
 敷地に入り見回すと、外壁に沿うように木が植えられており、いくつかの遊具もある。
 その内の、テレビで見て以来乗りたいと思っていたブランコに、腰掛けてみた。

「………………」

 どうしていいかわからず、とりあえず座って、肩から羽織ったコートをぎゅっと握る。
 少しだけ、母さんの匂いがした。

「…………う……うっ……」

 堪えていた涙が、嗚咽と共に溢れ出す。

 昼間、きっとこのブランコにはたくさんの子どもたちが集まって、友だちと楽しく遊んでいるのだろう。
 その子たちと僕は、どうして違うのだろう?
 なんでこんな羽なんか生えているのだろう?
 自由に生きることも、逃げ出すことも許されないのなら……いっそ、殺してくれればよかったのに。
 それとも、今日僕を引き取るはずの誰かは、僕を殺すつもりだったのかな?

「……それでもいいや」

 空を見上げると、まん丸の月が、夜をくり抜いたように白く輝いていた。
 いつも窓越しに見つめていた月。こうして外で見る方が、ずっとずっと綺麗だった。

 人は死ぬと、星になれるらしい。
 僕みたいな悪魔でも……死んだら星になれるのだろうか?

「……側に行ったら、仲良くしてね」

 そう、月に語りかけて……
 そこで、僕の意識は途切れてしまった――