――五分ほど経ったでしょうか。
にこにこ笑顔だったリリアとキリクの表情は、だんだんと曇ってゆき……
「……ポックル、遅くない?」
痺れを切らしたリリアが、沈黙を破って言いました。
それに、クロルはため息をつき、こう答えます。
「たぶん思ったよりも深くて、戻れなくなっているんだよ」
「えぇぇええ?!」
リリアとキリクは絶叫し、「どうしよどうしよ」と狼狽えます。
「キリク、秘密基地にロープがあったよね。あれを借りてもいいかな? 僕が降りて、ポックルを引き上げるよ」
クロルの落ち着いた声に、キリクは「うん!」と頷き、秘密基地からすぐに一本のロープを取ってきました。
そのロープを、クロルは近くの樹の幹にしっかりと括り付け、余った部分を穴の中へと垂らします。
「いちおう、ロープが外れないか見ていて」
クロルは二人にそう告げると、ロープを掴みながら穴の壁面に足をかけ、ゆっくりと降下していきました。
その様子を、キリクが不安げな表情で見送ります。
「大丈夫かな……」
「大丈夫。クロルはすごいんだから!」
その横で、リリアが自慢げにそう言いました。
一方、穴の中を降りてゆくクロルは、空気の流れや音の反響から、この穴が想像以上に深いことを感じていました。
日の光は次第に届かなくなり、視界は真っ暗です。もしかすると、三階建ての建物くらいの深さがあるかもしれません。
「ポックル……無事に着地していればいいけど」
と、クロルが呟いた、その時。
「その声は……クロルか?! ニャァアッ、助かったニャ!!」
下の方から、そんな声がこだましました。その必死な声色に苦笑しながらクロルが慎重に降りてゆくと、程なくして穴の底へと降り立ちました。
瞬間、もふもふしたものが勢いよくクロルの顔面に貼り付きます。
「ウニャァァアアン! 怖かった! 怖かったニャァアァアッ!!」
「はいはい、わかったから。一度離れてね」
クロルは泣き噦るポックルの身体を顔から引き剝がします。そして、常に背負ったままだったリュックを背中から下ろすと、手探りで中から何かを取り出しました。
地面に降ろされたポックルが不思議そうに首を傾げていると……突然、目の前に眩い光がぱっと現れました。
「電池式のランタンだよ。早速、役に立ってよかった」
それを片手にぶら下げながら、笑みを浮かべるクロルを見上げ、
「……お前、こニャいだのウソをホントにしたな?」
「まぁね。ああ言っちゃったからには、ちゃんと入れておかなきゃと思って。非常グッズ」
「……つくづく、何を考えているかわからニャいヤツだ」
目を細めて言うポックルに返事をしないまま、クロルはリュックを背負い直すと、ランタンを掲げて穴の底を見回します。
直径三メートル程の、それほど広くない空間でした。土と石とが入り混じった地面は黒く湿っています。
クロルが壁面に沿ってぐるりと回ると、一冊の本が落ちていました。キリクの漫画本です。
「あった。それじゃあ……」
戻ろうか。そう言いかけて、クロルは言葉を止めます。
漫画本を拾い、顔を上げたその正面……壁面の一部分に、人ひとりが通れるような横穴が空いているのを見つけたのです。
「ん、どうしたニャ?」
「……これ」
尋ねるポックルに、クロルはランタンを掲げ、横穴を示します。
「……どこに繋がっているんだろう」
クロルが呟くと同時に、その横穴の向こうから、微かに風が吹いてきました。どこか別の出口へと繋がっているのかもしれません。
しかしポックルは、首を横に振って、
「どうでもいいニャ。早く地表へ戻るニャ」
真っ暗な穴の底にいたことがよっぽど怖かったのか、急かすように言いました。
クロルは「わかったよ」と笑い、ポックルを抱きかかえ、ロープに手をかけようとして……
ふと、そのロープが左右にゆらゆらと揺れていることに気が付きます。
それは、風で揺れているというよりは、明らかに人によって揺らされているような動きで……
「……まさか」
クロルが上を見遣ると、案の定、リリアとキリクがロープを伝って、穴の底を目指し降りてきているではありませんか。
「あっ、いたいた! おーいクロルー! ポックルー!!」
こちらを見下ろしながら、リリアが明るい声で呼びかけます。その少し上の位置では、キリクが必死な表情でロープを掴んでいました。
しかしクロルは、慌てて二人を見上げ、
「そのロープ、二人分の体重は支えられないかも! リリア! 受け止めるから飛び降りて!」
と、大きな声でいいました。
その言葉に示し合わせたかのように、ロープがギシッと嫌な音を立て……リリアとキリクの顔が一気に青ざめます。
「ど、どどど、どうしよう……! リリア、飛び降りるなんてできる……?」
額から汗を垂らしながら、キリクが尋ねます。
確かに、穴の底まではまだ五メートルはあります。飛び降りるには勇気のいる高さでした。
しかし、リリアは微笑んで、
「平気! だって、羽があるもん!」
そう、返しました。
そして彼女は、
「クロル、受け止めて!」
迷うことなく、ロープから手を離しました。
左右に広げた羽に風を受け、リリアはゆっくりと下降していきます。
キリクもポックルも、そしてクロルも、驚いたようにその姿を見つめました。
ランタンの光に照らされた白い羽と金色の髪が、きらきらと輝いています。
その、神々しさすら感じる美しい光景に……
――嗚呼、もしかしたら本当に、彼女は空から舞い降りた天使なのかもしれない、と……
クロルは無意識の内に、そんなことを考えていました。
静かに、壊れ物を扱うかのように優しく、クロルはリリアを抱きとめました。
その温かなぬくもりに、頭がぼうっとしそうになります。
が、リリアがすぐにパッと離れ、
「キリク! ロープが切れる前に急いで戻って!」
そう叫んだので、クロルも再びそちらを見上げます。キリクは「う、うん!」と返事をすると、慌ててロープを登り始めました。
……しかし。
キリクが掴んでいる手の、少し上の辺りで……
――ブツッ。
……と、ロープが切れました。
「……え。わ、うわぁぁああああっ!!」
キリクは、千切れたそれを握りしめたまま、悲鳴と涙をこぼしながら、穴の底へ真っ逆さまに落下します。
クロルとリリアが受け止めようと慌てますが、間に合わず……あえなくキリクは、冷たい地面にお尻を叩きつけました。
「いったぁい!」
「キリク! 大丈夫?」
リリアたちはキリクに駆け寄り、心配そうに様子を伺います。どうやら彼も背中の羽で落下が緩やかになったらしく、大きな怪我には至りませんでした。
しかし、ロープは穴の底からでは届かない位置で千切れてしまいました。これでは地表へ戻る術がありません。
「……二人とも、どうして降りてきちゃったの?」
クロルが困ったように尋ねると、リリアとキリクは一度顔を見合わせ、
「ごめん。私は興味本位」
「僕は……僕の漫画だから、やっぱり僕が取りに行かなきゃと思って……ごめん……」
けろっと言うリリアの横で申し訳なさそうに俯くキリクに、クロルは微笑みながら先ほど拾った漫画本を差し出します。キリクは顔を上げ、「ありがとう」と言いました。
「さて。これからどうやって地表へ戻るかだけど……さっき、あそこに横穴を見つけたんだ。空気の流れがあるから、どこかへ繋がっているかもしれない。行ってみよう」
「クロル……勝手に降りてきたこと、怒ってないの?」
リリアが、伺うように問いかけます。
それにクロルは、
「当たり前だよ。怒ったって仕方がないからね。それに、元はと言えばポックルが後先考えずに飛び込んだのが原因だし」
「ニャッ?! おれのせいだって言いたいのか?!」
毛を逆立てるポックルに、クロルは「冗談だよ」と笑い、
「とにかく、ここにいたって何も変わらない。この穴の先へ進もう」
ランタンを掲げながら、二人と一匹に向け、そう言いました。