クロルが深刻な顔でそう言うので、リリアはどんな準備をするのかと、少しドキドキしたのですが……

 クロルが始めたのは、この広いポックルの部屋の掃除でした。
 散らかっているおもちゃを片付け、ベッドのシワを伸ばし、カーペットに付いているオレンジ色の毛をしっかり掃きます。

「一体、(ニャん)のために……」

 ポックルがぶつぶつ文句を言いますが、クロルに「いいからいいから」と促されます。

「あ、そうだ。ただ掃除していてもつまらないし、みんなでおしゃべりしない?」
「おしゃべり?」
「そう。例えば……リリア、"映画の街"でのこと、ポックルに教えてあげてよ」
「えっ、私?」
「うん。特に、驚いたことや楽しかった話がいいかな。で、ポックルは部屋の外に聞こえるように、できるだけ大きな声で笑って。僕たちが意気投合しちゃって、そのままポックルが駅まで見送りに行くことにした、っていう印象をアンナさんたちに与えたいんだ」
「なるほど。さっすがクロル、いい作戦だね!」
「フン。楽しくもニャいのに笑えるか」
「僕も大声で笑うのは苦手だけど……一緒にやってみるからさ。ね?」

 そうして、二人と一匹はいろいろな話をしました。

 "映画の街"で出会ったテリー監督の話。
 二人が巻き込まれた演出の話。
 しっかり役をこなす黒猫がいた話。
 二人が観た映画の話。

 最初は無理矢理笑っていたのが、次第に本当に面白く感じてきて……みんな、ちょっとしたことでも笑うようになってしまいました。
 ポックルもリリアも、そしてクロルも、誰かとこんな風に大声で笑い合うのが初めてで、そのこと自体が面白くなってしまったのです。
 
 二人と一匹の笑い声が響く間に、時計の針は進み――

 時刻は、午後四時半。
 まもなく、屋敷を出発する時間です。



「――最後に確認するよ。ポックル、君は僕らを見送るという名目で、一緒に屋敷を出る。そのまま大通りを真っ直ぐに進んで、クレイダーに向かう。ゆっくりと、焦らずにね。午後五時を告げる鐘が鳴ったら客室のドアを閉めるから、君は閉まり切る直前で飛び乗るんだ」
「わかったニャ」

 ポックルが頷きます。
 続けて、クロルはリリアに視線を向けます。

「リリアも、準備は大丈夫かな。例の物は用意できた?」
「うん。いちおう袋に入れたけど……こんなもの、何に使うの?」

 そう言ってリリアは、少し膨らんだ麻袋を手に持ちます。クロルはそれを「ありがとう」と受け取りながら、

「念のためだよ。使わずに済めばそれでいい。無事に列車に戻れたら話すよ」

 そう言います。
 リリアにはよくわかりませんでしたが、クロルを信じることにしました。

「よし。最後にもう一度だけ、逃走用の別ルートの確認をして、出発しよう」

 そう言って、クロルは昨日書いた手描きの地図を広げました。



 * * * *



 ――屋敷の庭を抜けた、大きな門扉の前で。

「本当にお世話になりました」

 見送りに出て来たステュアート三姉妹に、クロルとリリアは頭を下げます。
 それに、長女のアンナさんも深々と頭を下げ、

「こちらこそ、ありがとうございました。ポックル様も大変楽しんでおられたようですし、私たちも久しぶりに旅の方とお話ができて嬉しかったです」

 と、穏やかな笑顔を浮かべました。
 続けて、エリカさんとデイジーさんも言います。

「住みやすい、素敵な街が見つかることをお祈りしています」
「道中お気を付けて。猫に会いたくなったら、またいらしてくださいね」

 それにリリアは「はい!」と元気よく答えました。

「……じゃ、見送ってくるニャ」

 ポックルは短く言うと、スタスタと歩き出しました。
 クロルとリリアも最後に頭を下げ、慌てて後を追います。

「ちょっとちょっと、あまりにもあっさりしすぎじゃない?」
「普段通りにしニャいでどうする。むしろ自然ニャ演技を褒めてもらいたいくらいだ」

 歩きながら、リリアとポックルがこそこそと言い合います。
 リリアがちらっと屋敷の方を振り返ると、三姉妹はまだこちらを見ており、視線に気付いてにこやかに手を振ってきました。それに、リリアも手をひらひらさせ、

「……大丈夫そうだね」
「うん」

 と、クロルと目配せしました。

 クレイダーの駅まで続く大通りを、早すぎず遅すぎない、自然なペースで歩くことが出来ています。

(このまま、予定通り列車に乗れれば……)

 ……と、リリアが考えていた――その時。

「あっ、ボスと昨日のニンゲンたち!」
「もう帰るのかー」
「この街は楽しかったかニャ?」

 そんな声が聞こえたかと思うと、昨日と同様に数十匹の猫たちが近寄ってきました。

「おう、お前ら」

 ポックルは親しげにその猫たちに近寄ります。そして、人間にはわからない言語――猫の言葉で会話を始めました。
 クロルは腕時計の時間を気にしつつ、彼らがニャンニャン言い合っているのを眺めます。

 ――しばらくして。
 何かを必死に訴えるポックルと、それに反発するように毛を逆立て威嚇する猫たち……そんな、穏やかではない雰囲気になってきました。

「ちょっと、どうしたの?」

 リリアが慌ててポックルに尋ねます。
 すると、彼は後退りながら、

「街を出ることを伝えたら、『嘘だ!』『こいつらに(ニャに)か吹き込まれたんだろ』って怒り始めたニャ……」
「えぇー!?」

 どうやら猫たちは、クロルとリリアに怒りを向けているようです。今にも飛びかからん勢いで「フーッ」と唸り、こちらを睨みつけています。
 それを見たクロルは、迷いなくポックルを抱き上げ、

「リリア……真っ直ぐに走るよ」

 そう言うと、取り囲む猫たちを飛び越え走り出しました。
 リリアは驚きつつも、半歩遅れてついていきます。

 猫たちは「ボスが誘拐されたニャ!」「あいつらを追え!」と口々に言いながら、一斉に追いかけて来ました。
 クロルはそれを横目で確認し、隠していた麻袋を取り出して、

「リリア。僕は左の"猫の道"ルートからクレイダーに向かう。君は……これを持って右のルートから向かって」
「で、でも……」
「本当に危なくなったら、この袋を遠くに投げてから逃げて。いいね?」

 戸惑うリリアに向けて、クロルは麻袋を放り投げます。
 そして、

「走って!」

 声と同時に、二人は大通りから外れ、左右の細い路地に向かってそれぞれ駆け出しました。追ってきた猫たちは、

「二手に分かれたぞ!」
「ボスは右ニャ! あの娘がキャッチしたニャ!!」

 と、全員迷いなくリリアの方を追ってきます。

「え? え?! ちょ、なんでぇえ?!」

 てっきり半数ずつ追って来ると思っていたリリアは、予想外の追っ手の数に弱気な声を上げます。
 しかし、これでクロルとポックルには追っ手がいなくなりました。

「……無事に乗れるといいな」

 リリアは呟きます。
 が、後ろから「待てー!」「八つ裂きにしてやるニャ!」などと殺気立った声が聞こえるので……

「わ、私も無事に乗れるといいなぁーっ!?」

 麻袋を抱き抱えながら、全速力で走りました。



 一方、左のルートを進むクロルとポックルは、民家と民家の隙間をすり抜けたり、壁の上を登るなどして"猫の通り道"を進み……
 追っ手がいないことを確認してから、廃墟らしき民家の庭で一旦足を止めました。

「……もう列車に着いたのか?」

 クロルのお腹に、背後からはちょうど見えないよう大の字で張り付いていたポックルが、そのままの体勢で言います。
 クロルは、その格好に少し笑いながら、

「まだだよ。あと少しだけどね」
「はぁー……それにしても、まさかあいつらに追われるとは思わニャかった……」

 脇を抱えられ地面にそっと降ろされながら、ポックルが言います。

「この街のボスである君が、自分の意志で街を出たがるなんて……みんな夢にも思わなかったんだろうね」
「ボスニャんて形だけだニャ。代わってほしいニャらいくらでも代わってやるっつーの」

 そう言って、大きなため息をつきました。
 しかし、悠長におしゃべりしている時間はありません。

「さぁ、出発までもう十分もない。さすがに君もしがみついたままじゃ辛いだろうから――ちょっと狭いけど、こっちに入って」

 クロルは、ポックルの目の前に背を向けてしゃがみます。
 その背には、いつも背負っている大きなリュックがあります。
 その留め金を、彼は……ゆっくりと開けました。

 ポックルが入り込もうとリュックの中を覗き込みますが――そのまま、上げた前足をぴたりと止めました。
 リュックの中身を見て、躊躇したのです。

 そこにあったのは…………

「お、お前……これ…………」

 言葉に詰まりながら、ポックルはクロルを見上げます。
 クロルはゆっくりと振り向きながら、

「……あはは。ごめんね、驚かせて」

 そう、困ったように笑い、言いました。

 ――しかし。


「このことは…………リリアには内緒だよ?」


 振り返ったその目は……
 少しも、笑ってはいませんでした。