時間は進み、午後六時――

 停車中のクレイダーの横、錆びた線路の上に腰かけ、クロルは湖に沈みゆく夕陽を眺めていました。
 赤く染まる空と、輝く湖面。その美しい景色は、見ているだけで心が洗われるようです。

 しかしクロルは、なんだかとても疲れた顔をしていました。

 お祭り騒ぎは苦手。
 歌うのも、踊るのも苦手。
 大勢の人に囲まれるのも苦手。
 だから、

「……つくづく僕は、この街に向いていないなぁ」

 そう、ため息混じりに呟きました。

 リリアはどうしているでしょう。
 街の中を探したものの、見つけることができませんでした。
 列車で待っていれば戻ってくるだろうと思いましたが、なかなか帰ってきません。

 もしかすると、テリー監督にこの街の魅力を教えられ、『素敵! ここに住む!』なんてことになっているのかもしれません。

 それならそれでいいと、クロルは思います。
 だって、彼女と自分は、お客さんと運転手という関係です。
 どの街に住むかは、お客さん自身が決めること。運転手の自分に、とやかく言う権利はありません。

 ……でも。

「………………」

 やっぱり、少し残念な気がして。
 クロルは、先ほどマルシェで買った買い物袋に、静かに目を落としました。

 ――その時。

「……ただいま」

 背後から、声がしました。
 クロルはゆっくりと、そちらを振り返ります。
 すると、そこには……

「…………ぷ。なんでそんなにボロボロなの?」

 髪はぐしゃぐしゃ。
 顔は泥だらけ。
 服もヨレヨレ。

 そんな姿のリリアがそこに立っていたので、クロルは思わず吹き出しました。

「わ……笑わないでよ! 走ったり転んだり、いろいろ大変だったんだから!」

 リリアが顔を赤くして抗議しますが、クロルはしばらく笑いが止まりませんでした。
 ひとしきり笑い、呼吸を整えてから、

「ごめんごめん。なんだか、安心しちゃって」
「……安心?」
「ううん、こっちの話。それで……どうだった? "映画の街"は」

 穏やかな声音で、そう訪ねます。
 その問いに、リリアはすぐに、

「楽しかった。けど、ここには住めない」

 そう、はっきりと言い切りました。
 そして、風にワンピースの裾をたなびかせながら、クロルの横に座ります。

「……ねぇ、クロル。この街に住んでいるのって、どんな人たちだと思う?」
「……『映画が好きな人』。なんて、単純な答えじゃなく、ってことだよね?」
「そう。そもそもどんな人が、映画や、映画みたいな出来事を求めるんだろう?」
「……平凡な日常に飽きて、刺激や変化を求めている人、じゃないかな」
「やっぱり、そうだよね」

 リリアは納得したように頷き、続けます。 

「……テリー監督にね、『この街に住まないか』って言われたの。映画に出る女優さんにならないか、って」
「そう……それで、なんて答えたの?」

 リリアは、少し間を置いてから……
 顔を上げ、こう言いました。

「……私、まだ飽きるほど、"自分の人生"を生きていない。作り物じゃない、自分で決めた"自分の物語"っていうのを、まだ全然生きていない。だから、この街は楽しそうだけど……今の私が住むのは違うと思う、って言って、断ってきた」

 そして彼女は、夕陽に染まる湖――"この世界の中心"を眺めます。
 眼前に広がる、向こう岸が見えないほどに大きな湖。
 その周りには、たくさんの街があって、生活があって、人々がいます。

「綺麗……私こんな風に、この世界の"当たり前の景色"を眺めるのさえ、初めてなんだ」

 リリアの言葉を、クロルは何も言わずに聞いていました。

 そのまま二人は、沈む夕陽を……今日という日が終わってゆくのを、静かに見届けました。

 そして再び、リリア「あはは」と笑って、

「よく考えたら、映画を観たことすらない私に『女優にならないか』だなんて……順番、逆だよねぇ」

 そう、はにかみながら言うので、クロルもそれに微笑み、

「……じゃあさ、リリア」

 あらたまった様子で、立ち上がります。
 リリアが不思議そうにそれを見上げると、クロルは彼女の前に跪き、


「明日の出発時間まで――僕と一緒に、映画を観ませんか?」


 そう言って、買い物袋から取り出したものを差し出します。

 それは……一輪の、真っ白な百合の花でした。

 思いがけない言葉。
 思いがけない贈り物に、リリアは目を見開きます。


 毎年、あの人から――私を産んだ人から、誕生日にもらっていた花。
 けど、今年はもらえなかった花。
 もう二度ともらうことはないと思っていた花。

 それが今、目の前で揺れている。
 その花と同じ名前をくれた男の子が、微笑みながら、差し出してくれている。

 ……ああ、そうだ。
 本当は、この花をもらうと、嬉しかった。
「ありがとう、お母さん」って、ずっと言いたかった。
 でも……それが、許されなかった。

 私は『天使さま』で。
 あの人は、ただの信徒だったから。
 

 ――抑え込んでいた感情が、涙と一緒に溢れそうで。
 それをごまかすように少し俯いてから……リリアは思います。

 やっぱり、この街は私に似合わない。
 だって、こんな風に泣きたくなるような、心を揺さぶられるような出来事って……
 きっと、台本や打ち合わせもなく、唐突に訪れるものだから。


「――なぁんて、昼間見たあの『演出』の真似をしてみたんだけど……けっこう恥ずかしいね、コレ。やっぱり僕、この街は向いていないみたい」

 目の前で跪くクロルが、照れながら言います。
 リリアはくすくすと笑ってから、彼に尋ねます。

「……この花、どうしたの?」
「ああ。君を探して街を歩いている時に、花屋で売っているのを見つけたんだ。たった一輪しか買えなかったけど……ごめんね」

 申し訳なさそうなクロルの笑顔に、リリアは胸がきゅっと締め付けられるようで……
 首を横に振りながら、その花をそっと受け取り、

「ううん。とっても嬉しい……ありがとう、クロル。明日の映画、楽しみにしてるね」

 駅の街灯が、ゆっくり灯り始める中。
 リリアは、百合のように可憐な笑顔を咲かせるのでした。