「あっ! お兄ちゃん!」
こんな夜の遅い時間帯に女の子一人で出歩くなんて、いったい何を考えているんだ。何か事件が起きてからでは手遅れだ。
そんなタイミング良く登場した妹を叱るために、響は急いでブランコから立ち上がるとすぐさま妹に駆け寄った。
だがしかし、卓登からの鎖の呪縛が解けたわけではない。
「胡桃! 夜に一人で出歩くなんて危ないだろ!」
兄の心配を余所に、幼さの残るあどけない顔をした可愛い妹はキョトンとしている。叱られているという自覚がまるでないようだ。
肩に付きそうで付かない黒髪は一つにまとめて結うにはまだ短いが、胡桃の可愛らしさを一際強調させている。フードにファーの付いた薄いピンク色のコートも胡桃によく似合っている。
「わたし一人じゃないよ。パパも一緒だよ。ほら後ろ」
胡桃の言う方角に響が視線を向けると、少し離れた場所から響と胡桃の父親、稔が近づいてきていた。
稔は百八十センチ以上ある長身で、残念ながら響の身長は稔の遺伝子を受け継がなかったようだ。
稔は響とよく似て端整な目鼻立ちをしているが、老いには勝てない。
息子と娘に笑いかけるたびに表れる目元と口元の皺の数は年々増えつつある。
「胡桃ー。あんまり離れて歩くなよー」
稔は響のように怒鳴りこそはしないが、父親の目の届く範囲内で歩くようにと注意する。
胡桃一人ではなかったことに響は安堵して、肩の力を抜いた。
「パパと一緒にコンビニに行ってたんだよ」
「ちょっと酒のつまみが欲しくなってな」
目尻を柔らかくたるませながら稔が笑う。
「わたしはお菓子」
この胡桃のおどけた言動から察するに、おそらく今夜、胡桃は寝る前にこっそりとお菓子を食べるつもりなのであろう。
胡桃は人一倍歯医者を嫌っているはずなのだが、虫歯の心配はしないのだろうか。
稔と胡桃の仲睦まじい和やかな会話を傍で見ていた響の口元がゆるんだ。
まだまだ若い響の黒髪を雪によって白髪にさせないために、稔は自分が差していた傘を響の頭の上にさりげなく移動させた。
その稔の優しさが響にとって卓登からの優しさを思い出させた。響が卓登のほうへと緊張気味にゆっくり振り返ろうとしたら──。
「響も一緒に帰ろう」
「あ、オレは……」
母親の待つ暖房の利いた自宅への帰路は親子三人で共に歩こうと稔から言われるが、響は言葉を濁す。
響が置き去りにしてしまっている卓登を気にかける。
跪いていた卓登は姿勢正しく直立していた。
そして、深々と稔にお辞儀をする。
稔も卓登にお辞儀をする。
「友達か?」
稔からそうたずねられて、響は卓登と自分の関係を深刻に考えた。
後輩と言えば良いだけのことなのだが、今しがた一大決心をした卓登からの愛の告白がいつまでも木霊して響の鼓膜にこびり付き、それはうるさくなるばかりで一向に静まってはくれない。
響の心音も落ち着くどころか乱れ狂っている。ゆっくり舞い降る雪とは正反対に鼓動は豪雨だ。
思い返してみると、響が中学生だった頃から今まで、卓登との関係を問いかける者は誰一人としていなく、今、初めて問われている現状に響は緊張した。
「中学のときの……後輩」
真実を話しているにもかかわらず、響は思わず顔を伏せてしまい言葉を詰まらせた。
卓登のことを意識していると自覚せざるを得ない。
「えっ!? お兄ちゃんの後輩!? うっそー! かっこ良いー! あんなかっこ良い先輩がいるなら早く中学生になりたあーい!」
今すぐにでも卓登を紹介してほしいと言わんばかりの胡桃のはしゃぎ振りに、響は、
「残念でしたあ。卓登は今年の三月に中学卒業すんだよ」
と、胡桃の口調を真似して子供っぽく言ってはいるが、今の響の言い方はまるで卓登を胡桃に取られたくないような言い方だった。
「卓登さんっていうんだ。でも、そっかあ、卒業しちゃうんだあ。残念だなあ」
そう言いつつも、胡桃は本気で悲しんでいる様子ではない。
胡桃が卓登に対して言う「かっこ良い」は、ミーハーな心から生まれた軽いものだったらしい。
響が座っていたブランコは停止しており、そのブランコの前で立つ卓登も微動だにしない。
卓登をその場所から動けなくさせたのはまぎれもなく自分のせいなのだと、響は自己嫌悪に陥る。
まだ痛みを我慢できる程度に響の良心を激しく突き刺しているのはお裁縫の針サイズだ。これが段々と太い釘に強打されているかのように大きくなり、響の心臓に穴が空きそうになる。
響から距離を置かれた卓登ではあるが、響の足跡が卓登と響を繋いでくれている。
今の卓登はまるで足場の不安定な断崖絶壁に立たされているかのような心境で、響のこの足跡が自分自身と響を結びつけている唯一の命綱であるも同然だった。
その響の足跡が降り積もる雪の絨毯により消えかかっている。
まだ足場が残っているうちに、卓登へと歩み寄ることを響は決断する。
中断させてしまった会話をそのままにした状態では、卓登の心も体も底なし沼へと深く沈んでいってしまいそうで──。
響は卓登を救いたい。
「父さん、胡桃。なんか書くもの持ってない? あと紙も」
稔は着用している紺色のダウンコートのポケットの中に手を入れて中身を確認した。
「ボールペンは持っているけど、紙はコンビニのレシートくらいしかないな」
「それで良い。ちょっと貸して」
響は稔からボールペンとレシートを受け取ると、急いで、それでいて丁寧に何かを書いている。
そして書き終わると卓登に駆け寄った。
再び響の足跡が新しく作られる。
「卓登、高校の合格祝いしよう。二人で美味いもんでも食いに行こう。オレ奢るから。何が食いたいか考えといて」
響が卓登の手を取り、その手にレシートを握らせる。
このとき響は卓登の手の骨格、皮膚の表面、指の長さなどを一瞬にして見極めた。
先程、卓登から手を握りしめられたときの響はそこまで思考が及ばなかった。
「オレのスマホの番号とアドレス」
響が自ら卓登の手に触れて、自ら卓登に連絡先を教える。
これに卓登の瞳が感涙に光り、眼球が左右に揺れ動く。
頭を下げた卓登が視線を落として響に顔を見られないようにしたのと同時に、レシートに書かれた響の文字にも水滴が落ちて、少し滲んだ。
卓登の涙だろうか。それとも卓登の髪の毛先でひと休みしていた雪が溶けて落ちた水滴だろうか。
「俺、響先輩の傍にいても良いんですか?」
「ああ、良いよ。でも……」
自然消滅という保身でしかない身勝手は、いずれ自滅へと追いやられると響は思った。
そしてなにより、一度お祝いすると言った言葉を嘘にしたくはなかった。
だから逃げない。もう逃げない。逃げても解決しない。
響は一呼吸置いてから重々しく口を開き、簡潔にまとめた。
「期待はするな」
響はこれからも卓登に優しくして、卓登と疎遠になることは放棄したが、そこに恋愛感情が生まれることはけっしてないと断言した。
「はぐらかさないでください」と言った卓登からのお願いに響は従った。
中途半端にしてしまうことが卓登を一番傷つけてしまうことになると、これが卓登に対する一番の礼儀で最善なのだと響は思った。
卓登を邪険にはできない。でも卓登を恋愛対象として見ることもできない。
これが正しい対応なのか、そうでないのかなんて響にはわからない。
ただ、本気の想いを捨てられる悲しさと、悔しさと、惨めさは、響にはよく理解できる。
だから卓登からの本気の想いを本気で返した。
「いつでも連絡してきて良いからな」
響からのこの台詞は卓登からしてみたら残酷なだけなのだが、響はそう言わずにはいられなかった。
響が卓登から優しく巻いてもらったマフラーを首から外す。
「マフラー、サンキュ。すっげー温かかった」
そして今度は響のほうから卓登の首にマフラーを巻いてあげた。
「風邪ひくぞ」と、卓登を追い払うための嘘ではなく、卓登を気遣う思いやりに満ちあふれた一言を添えて。
「お茶もサンキュ」
響の飲みかけのお茶が雪で半分以上埋もれかけていて、ブランコの真下で冬眠しそうになっていた。
今となってはすっかり冷たくなってしまったが、響はペットボトルを拾い上げると冷えたお茶をそのまま持ち帰ると決めた。
響は卓登が顔を上げてくれるのを待っていたが、響が公園を出て行く直前まで卓登は顔を伏せたままの状態で、響は最後まで卓登の表情を自分自身の瞳の中におさめることができなかった。
こんな夜の遅い時間帯に女の子一人で出歩くなんて、いったい何を考えているんだ。何か事件が起きてからでは手遅れだ。
そんなタイミング良く登場した妹を叱るために、響は急いでブランコから立ち上がるとすぐさま妹に駆け寄った。
だがしかし、卓登からの鎖の呪縛が解けたわけではない。
「胡桃! 夜に一人で出歩くなんて危ないだろ!」
兄の心配を余所に、幼さの残るあどけない顔をした可愛い妹はキョトンとしている。叱られているという自覚がまるでないようだ。
肩に付きそうで付かない黒髪は一つにまとめて結うにはまだ短いが、胡桃の可愛らしさを一際強調させている。フードにファーの付いた薄いピンク色のコートも胡桃によく似合っている。
「わたし一人じゃないよ。パパも一緒だよ。ほら後ろ」
胡桃の言う方角に響が視線を向けると、少し離れた場所から響と胡桃の父親、稔が近づいてきていた。
稔は百八十センチ以上ある長身で、残念ながら響の身長は稔の遺伝子を受け継がなかったようだ。
稔は響とよく似て端整な目鼻立ちをしているが、老いには勝てない。
息子と娘に笑いかけるたびに表れる目元と口元の皺の数は年々増えつつある。
「胡桃ー。あんまり離れて歩くなよー」
稔は響のように怒鳴りこそはしないが、父親の目の届く範囲内で歩くようにと注意する。
胡桃一人ではなかったことに響は安堵して、肩の力を抜いた。
「パパと一緒にコンビニに行ってたんだよ」
「ちょっと酒のつまみが欲しくなってな」
目尻を柔らかくたるませながら稔が笑う。
「わたしはお菓子」
この胡桃のおどけた言動から察するに、おそらく今夜、胡桃は寝る前にこっそりとお菓子を食べるつもりなのであろう。
胡桃は人一倍歯医者を嫌っているはずなのだが、虫歯の心配はしないのだろうか。
稔と胡桃の仲睦まじい和やかな会話を傍で見ていた響の口元がゆるんだ。
まだまだ若い響の黒髪を雪によって白髪にさせないために、稔は自分が差していた傘を響の頭の上にさりげなく移動させた。
その稔の優しさが響にとって卓登からの優しさを思い出させた。響が卓登のほうへと緊張気味にゆっくり振り返ろうとしたら──。
「響も一緒に帰ろう」
「あ、オレは……」
母親の待つ暖房の利いた自宅への帰路は親子三人で共に歩こうと稔から言われるが、響は言葉を濁す。
響が置き去りにしてしまっている卓登を気にかける。
跪いていた卓登は姿勢正しく直立していた。
そして、深々と稔にお辞儀をする。
稔も卓登にお辞儀をする。
「友達か?」
稔からそうたずねられて、響は卓登と自分の関係を深刻に考えた。
後輩と言えば良いだけのことなのだが、今しがた一大決心をした卓登からの愛の告白がいつまでも木霊して響の鼓膜にこびり付き、それはうるさくなるばかりで一向に静まってはくれない。
響の心音も落ち着くどころか乱れ狂っている。ゆっくり舞い降る雪とは正反対に鼓動は豪雨だ。
思い返してみると、響が中学生だった頃から今まで、卓登との関係を問いかける者は誰一人としていなく、今、初めて問われている現状に響は緊張した。
「中学のときの……後輩」
真実を話しているにもかかわらず、響は思わず顔を伏せてしまい言葉を詰まらせた。
卓登のことを意識していると自覚せざるを得ない。
「えっ!? お兄ちゃんの後輩!? うっそー! かっこ良いー! あんなかっこ良い先輩がいるなら早く中学生になりたあーい!」
今すぐにでも卓登を紹介してほしいと言わんばかりの胡桃のはしゃぎ振りに、響は、
「残念でしたあ。卓登は今年の三月に中学卒業すんだよ」
と、胡桃の口調を真似して子供っぽく言ってはいるが、今の響の言い方はまるで卓登を胡桃に取られたくないような言い方だった。
「卓登さんっていうんだ。でも、そっかあ、卒業しちゃうんだあ。残念だなあ」
そう言いつつも、胡桃は本気で悲しんでいる様子ではない。
胡桃が卓登に対して言う「かっこ良い」は、ミーハーな心から生まれた軽いものだったらしい。
響が座っていたブランコは停止しており、そのブランコの前で立つ卓登も微動だにしない。
卓登をその場所から動けなくさせたのはまぎれもなく自分のせいなのだと、響は自己嫌悪に陥る。
まだ痛みを我慢できる程度に響の良心を激しく突き刺しているのはお裁縫の針サイズだ。これが段々と太い釘に強打されているかのように大きくなり、響の心臓に穴が空きそうになる。
響から距離を置かれた卓登ではあるが、響の足跡が卓登と響を繋いでくれている。
今の卓登はまるで足場の不安定な断崖絶壁に立たされているかのような心境で、響のこの足跡が自分自身と響を結びつけている唯一の命綱であるも同然だった。
その響の足跡が降り積もる雪の絨毯により消えかかっている。
まだ足場が残っているうちに、卓登へと歩み寄ることを響は決断する。
中断させてしまった会話をそのままにした状態では、卓登の心も体も底なし沼へと深く沈んでいってしまいそうで──。
響は卓登を救いたい。
「父さん、胡桃。なんか書くもの持ってない? あと紙も」
稔は着用している紺色のダウンコートのポケットの中に手を入れて中身を確認した。
「ボールペンは持っているけど、紙はコンビニのレシートくらいしかないな」
「それで良い。ちょっと貸して」
響は稔からボールペンとレシートを受け取ると、急いで、それでいて丁寧に何かを書いている。
そして書き終わると卓登に駆け寄った。
再び響の足跡が新しく作られる。
「卓登、高校の合格祝いしよう。二人で美味いもんでも食いに行こう。オレ奢るから。何が食いたいか考えといて」
響が卓登の手を取り、その手にレシートを握らせる。
このとき響は卓登の手の骨格、皮膚の表面、指の長さなどを一瞬にして見極めた。
先程、卓登から手を握りしめられたときの響はそこまで思考が及ばなかった。
「オレのスマホの番号とアドレス」
響が自ら卓登の手に触れて、自ら卓登に連絡先を教える。
これに卓登の瞳が感涙に光り、眼球が左右に揺れ動く。
頭を下げた卓登が視線を落として響に顔を見られないようにしたのと同時に、レシートに書かれた響の文字にも水滴が落ちて、少し滲んだ。
卓登の涙だろうか。それとも卓登の髪の毛先でひと休みしていた雪が溶けて落ちた水滴だろうか。
「俺、響先輩の傍にいても良いんですか?」
「ああ、良いよ。でも……」
自然消滅という保身でしかない身勝手は、いずれ自滅へと追いやられると響は思った。
そしてなにより、一度お祝いすると言った言葉を嘘にしたくはなかった。
だから逃げない。もう逃げない。逃げても解決しない。
響は一呼吸置いてから重々しく口を開き、簡潔にまとめた。
「期待はするな」
響はこれからも卓登に優しくして、卓登と疎遠になることは放棄したが、そこに恋愛感情が生まれることはけっしてないと断言した。
「はぐらかさないでください」と言った卓登からのお願いに響は従った。
中途半端にしてしまうことが卓登を一番傷つけてしまうことになると、これが卓登に対する一番の礼儀で最善なのだと響は思った。
卓登を邪険にはできない。でも卓登を恋愛対象として見ることもできない。
これが正しい対応なのか、そうでないのかなんて響にはわからない。
ただ、本気の想いを捨てられる悲しさと、悔しさと、惨めさは、響にはよく理解できる。
だから卓登からの本気の想いを本気で返した。
「いつでも連絡してきて良いからな」
響からのこの台詞は卓登からしてみたら残酷なだけなのだが、響はそう言わずにはいられなかった。
響が卓登から優しく巻いてもらったマフラーを首から外す。
「マフラー、サンキュ。すっげー温かかった」
そして今度は響のほうから卓登の首にマフラーを巻いてあげた。
「風邪ひくぞ」と、卓登を追い払うための嘘ではなく、卓登を気遣う思いやりに満ちあふれた一言を添えて。
「お茶もサンキュ」
響の飲みかけのお茶が雪で半分以上埋もれかけていて、ブランコの真下で冬眠しそうになっていた。
今となってはすっかり冷たくなってしまったが、響はペットボトルを拾い上げると冷えたお茶をそのまま持ち帰ると決めた。
響は卓登が顔を上げてくれるのを待っていたが、響が公園を出て行く直前まで卓登は顔を伏せたままの状態で、響は最後まで卓登の表情を自分自身の瞳の中におさめることができなかった。