卓登は真弓のことを何一つ知らない。
 知らなくても、響が真弓とのことを頭に浮かべる隙を少しでも与えてやるものかとでもいうように、卓登はお茶の入ったペットボトル二本を驚きの早さで手に持ち戻ってきた。
 つい先程まで響が一人寂しく孤独に揺らしていたブランコ遊びだったのが、今は隣のブランコにも一人いてくれているという安心感と心地良さがある。
 蓋を開けずに、響は温かいお茶の入ったペットボトルで両手を温めながら卓登のほうをチラリと見た。
 卓登の視線はというと、手に持つペットボトル一点だけを見つめており、響と同じでまだ蓋を開けてはいない。
 知り合って間もない相手ではないが、二年も音沙汰のなかった相手に自分が体験した恋愛のいざこざをペラペラと話していいものなのだろうかと響は躊躇していた。
 卓登を信じていないとかではなく、むしろ重荷に感じられてしまいそうで──。
 これは響なりの年上の意地とプライドでもある。
 卓登の気持ちを探れないまま、響の持つお茶が徐々に冷めていく。
 卓登の優しさを無下にしたくない響はペットボトルの蓋を開けて、ゆっくりとお茶を飲み込んだ。
 喉に温水が通り、徐々に体が温まってくる。
 卓登も心温かく聞いてくれるに違いない。
 響は卓登とこの公園で再会する前の出来事を卓登に話したが、少し改変をして真弓を悪い女に思わせないようにした。
 卓登にそんなふうに伝えて真弓を庇うということは、
(オレはまだ真弓のことが好きなんだな)
 と、響は自己嫌悪に認めた。
 響が話しているあいだ、卓登は何も言わずに、ただ静かに相槌を打っていただけだったのだが、響が区切りのいいところまで話し終わり一呼吸置くと、卓登の口が重々しく開いた。
「響先輩。彼女いたんですね……」
 響に彼女がいた。高校二年生だ。彼女くらいいて当然だ。
 彼女がいたとなればそれなりの関係にも進むわけで、つまり情交も経験済みだろう。
 卓登はわかっていたつもりではいたが、実際に響本人の口から聞かされると動揺してしまい、それだけではなく、とてつもない嫉妬心の重さに狂わされてしまい頭が破裂しそうになった。
 そして卓登はペットボトルを潰したくなる衝動に駆られる。
 ペットボトルを両手で挟み込み、手を温めているように見せかけて、卓登は自分で自分の手をつねり、その衝動を必死に抑える。
 今は立場が逆転して、響ではなく卓登のほうが泣きそうな表情をしていた。

 ペットボトルのお茶が半分ほど減ると、響は卓登の帰宅時間を心配する。
 只今の時刻は夜の八時半を過ぎたところだ。
「卓登。家に帰んなくて平気か?」
 これだけ聞くと、響は卓登を心配しているのか厄介払いしたいのかわからない。
 よく人は心配を装って優しい言葉をかけて、面倒な人を遠くへ行かせようとする。
 響は本当に卓登の帰宅時間を気遣っているのだが、卓登は響が自分を帰した後、元・彼女のところに戻るつもりなのではないのかと、そんな悲観的な思考を振り払えないでいた。
「響先輩、俺に帰ってほしいんですか? 俺、邪魔ですか?」
「そういう意味じゃなくて、家族とか心配しないか?」
「家は今日、両親とも仕事なので」
「あ、そうなんだ」
「はい」
 卓登も響もお互いの家族構成は知っていた。
 卓登の父親は国際線パイロットで母親は看護師だ。その仕事柄、卓登の両親は家を空けることが多く、また卓登は一人っ子のため、ある程度の身の回りのことは卓登一人でやっている。
 こうした家庭環境が卓登の大人びた性格を作りあげたようなものだ。
 以前、従兄弟がよく家に遊びにくるからそんなに退屈ではないと卓登が言っていたことを響はふと思い出した。従兄弟が遊びにきた日はかなり賑やかになるらしい。
 響の父親は普通のサラリーマンで、母親は週五日でパートをしている普通の主婦だ。小学六年生の妹が一人いて、その妹も今年の四月から響が卒業し、そして今、卓登が通っている中学校に通うのだ。

 いつまでも、ずっとずっと、こうして響と一緒にいたいと思う卓登ではあるが、響の家族の存在を気にかけていないわけではない。引き止めてしまっている現状に罪悪感はある。
「響先輩は家に帰らなくても大丈夫なんですか?」
「オレは大丈夫。今日は帰りが遅くなるって言ってあるし」
 卓登の心配事を打ち消した響は帰宅を拒否する。
 響はコートのポケットの中に有るネックレスをどうすればいいのかと思案していた。もったいないとは思うが、捨てるのが妥当だろうか。
 捨てる決心がつくまでだいぶ時間がかかりそうだなと響は思った。
 家族にネックレスが見つかったら、父親は、
「彼女へのプレゼントか? やるなあ」
 と、茶目っ気を込めて男目線で言ってきそうだが、母親と妹はどんな反応をするのだろうか。
 ぽっちゃり体型をしている響の母親はあまりアクセサリーなどに興味はなく、どちらかと言えばお洒落をするよりも食べることのほうが大好きだ。そんな母親とは違い、もしかしたら妹のほうはネックレスに興味を示して欲しがるかもしれないが、妹の首で光るにはまだ早すぎる。
 まだ色々と未成熟な妹に年相応ではない宝石などを与えて調子に乗らせてはダメだ。
 響は妹には自分と同じような過ちを犯してほしくはないと思っていた。
 好奇心旺盛な年頃は、大人の世界や大人の身なりに手を出したくなるものだ。
 響自身がそうやって失敗した。 

 響の年上の意地とプライドが卓登の前で遠慮させていたのだが、木枯しが木の枝の葉を剥がして裸にすると共に、響の心の(かせ)も次第に剥がされていった。
 響は卓登に年功序列とはどれほどのものなのかという疑問を持ちかける。
「二十歳くらいの女から見たらさ、やっぱり高校生ってガキなのかな?」
 卓登は返事をしない。それでも響は卓登からの意見を求めない。卓登からの意見を求めているのではなく、卓登からの慰めを求めている。
 そんな卓登は──、
「たしかに金は持ってないし、生活面は親に頼っている部分が多いし……」
 ──響を抱擁したいと企み、その好機(チャンス)を狙っている。
「でも、オレは本気で好きだったんだ……ッ!」
 多くを語らない響ではあったが、感情が高ぶった響のこの発言で響が隠していた真実を卓登は察知した。
 元・彼女と別れた響だが、それは響の本意ではなく、響は元・彼女から捨てられたのだと──。
「悪い。女と別れた愚痴なんてみっともないよな」
「そんなことないです。聞きたいです。響先輩の話ならなんでも聞きたいです」
 今まで卓登の知らなかった響の二年間。包み隠さずにすべて曝け出してほしい。
 素直な響は卓登からの優しい誘惑に浸かっていく。
 響の口が自然と軽くなる。
「女ってさ、男はヤれればいいんでしょう! とか言うけどさ、まあ、そういう考えがあることは否定しないけど、愛がある行為は格別で、その人の愛を自分だけに向けたいって思うから、その人を抱いてみたいって思うんだよな。そう思える人との行為は、なんつーか体だけの欲じゃなくて心がすっげー満たされるっていうか。……て、何言ってんだ、オレ。ハズ……」
 響は気がついているのだろうか。これまで真弓と体を重ねてきた過去を卓登に聞かせるその顔が、どことなく嬉しそうで照れ笑いになっているということに。
 同じ学生でも、中学生と高校生では全然違うと卓登は思っていた。
 義務教育の中学生ではアルバイトもできない。
 だから待った。
 自分も響と同じ高校生になるまで、成長するまで待った。
 それでも上には上がいて、卓登が欲しくて欲しくてたまらない人とあっさり体を重ねてあっさり捨てたのは、響の元・彼女で卓登の憎き女。
 今にも激情に任せて憤慨しそうな卓登を応援するかのように、夜空で明滅する星たちが暗雲によって隠される。
 街灯炉も家々の明かりも卓登の妬みに怯えているのか、一つ一つ消えていく。
 今、響の持つネックレスのかがやきが一番許せない卓登は、それをなんとかして奪い取り、どうにかして粉々に砕いて破壊してしまえないかと、破壊してしまおうと、そんな悪魔方式を生み出そうとしていた。
 悪魔の出現を阻止したのか、天使が空から舞い降りてきたかのように雪が降ってくる。
 雪とはどうしてこうも矛盾しているのだろうか。穏やかなフワリとした白で、卓登と響に羽衣を着せようとしているかのように優しく浸透していくのに、こんなにも冷たい。
 卓登はこれといって響を励ましたわけではないが、これが卓登なりの親切なのだと思い、響は柔和なほほ笑みを浮かべながら空を仰ぎ見た。
 真っ黒な夜空から降る雪が地面を真っ白くさせていく。
 天使と悪魔が入り交じる。
 鬱憤が晴れたとは少し違うのかもしれないが、響の憂鬱を卓登が救ってくれた。
「卓登。話を聞いてくれてサンキューな」
 卓登にお礼を言う響の笑顔は卓登と再会したときに見せた作り笑いではなく、卓登が心の底から望む本物の笑顔だ。
 響はこれで終わらせるつもりでいた。
 これで暗い失恋話とはサヨナラしようと思っていた。
 しかし卓登からしてみたら、まだ話は終わっていない。
 卓登の話はこれから始まる。
 感傷的な音の正体を耳で聞くよりも先に、瞳に映る光景で読み取った。
 その正体である風音が公園の砂場に降りしきる雪と混ざり合い、砂嵐を巻き起こして卓登の欲情が奮い立つ。
 今夜は吹雪になるのだろうか。