響の腕を引っ張りながら、卓登は脇目も振らずに前へ前へと突き進んでいく。
 時折、響が足をもつれさせてもお構いなしで卓登は歩く足を止めようとはしない。
 卓登の歩調に合わせるかのようにクロカンブッシュが左右に揺れ動いて斜めに傾く。崩れそうで崩れないクロカンブッシュの味を想像するよりも、まず先に卓登は響のことを味わいたいのだと欲情している。
 行き交う人たちを横目に素通りしながら、響は卓登の言うとおりだなと思った。
 響は手を繋ぐくらいで気にしすぎていた弱虫な己を胸中だけで何度も叱咤する。
 誰一人として卓登と響のことなんて見ておらず、気にとめてもいない。
 あれから卓登は何も言ってこないけれど、卓登が急ぎ足で響をどこに連れて行こうとしているのかを響にはわかりきっている。なぜなら響もその場所に向かいたいと思っているのだから。
 直接言葉を交わさなくても、今の卓登と響は意志疎通ができていた。
 目的地が一緒ならこのまま大人しく卓登に体を委ねて、心も預けて、時の流れにその身を任せてしまおうと、響は抵抗一つせずに卓登の好きなようにさせてやる。卓登の心の(おもむ)くままに従おうとする。
 もどかしい。じれったい。
 速い歩行は段々とかけ足に移り変わる。
 魔法使いや超能力者のように今すぐ瞬間移動して一刻も早く卓登の部屋に到着してほしいのに、残念ながらこれが一般的に常人が走る速度の限界らしい。
 響の目の前でなびく雨粒で光沢した卓登の黒髪を響は自分自身の手でもっとなびかせたいと懇願する。
 響の手首を掴むその卓登の大きな手を響はふやけるほど口づけたい。
 骨を鳴らしながらお互いの素肌を何度もぶつけあい、血液を沸騰させて濁った汗を流したい。

 グッショリと濡れた靴下を履いたまま人様の家にお邪魔するのは尻込みしてしまうが、靴下を脱いで濡れた素足で上がり込むというのも、これまた失礼に当たる。
 玄関まで入ったは良いが、鏡のようにピカピカに磨かれたフローリングを汚してしまっては申し訳ないという理由から、響はその場所から動けないでいる。
 そんなふうに躊躇している響に対して卓登は「どうぞ。遠慮しないで上がってください」と手招きしながら穏和に(うなが)す。
 卓登の自宅はキッチン、リビング、浴室、洗面所、どの部屋を見回してみても掃除が隅々まで綺麗に行き届いている。
 卓登が一旦キッチンテーブルの上にクロカンブッシュを置いた後、自室へと入っていく。何やらタンスの引き出しをあわただしく開け閉めしているような物音が聞こえてくる。
「さっみい……」
 響は何気なく独り言を呟いた。
 いくら夏とはいえ、雨に打たれ続けていればそれなりに体は冷える。
 凍えそうなほどとまではいかないが、響はふるえる体をさすりながら鼻をすすった。
「俺が響先輩のことを温めてあげましょうか?」
 卓登が茶目っ気たっぷりにそう言うと、優しいほほ笑みを浮かべながら真新しいバスタオルを手に持って響に歩み寄る。
 響は体を反転させると卓登と真正面から向かい合った。
「ああ良いよ。オレ、卓登に温めてもらいたい」
 卓登は響にバスタオルを貸すのではなく、バスタオルを羽織らせるようにして、そのままバスタオルごと一緒に響の体を抱きしめた。響もその気持ちに応えるようにして卓登にもたれかかり全体重を預けると、卓登の背中に腕をまわして卓登を抱きしめ返す。
 バスタオルから漂う柔軟剤の香りと卓登独特の匂いに包まれた響は、その心地良さにうっとりと酔いしれて静かに瞳を閉じる。
「響先輩……このまま俺の部屋でひと休みしますか……?」
 卓登は響の首筋に顔を埋めるとそのまま唇を吸いつかせて響に語りかける。
 卓登の言う「ひと休み」が添い寝でも睡眠でもない意味であるということは響も充分理解している。
 響は卓登からの卑猥で純粋な誘いに小さく頷くと、卓登と体を寄り添わせながら卓登の部屋へと足を踏み入れた。
 すでにもう抑制不可能になってしまった、この情欲という名の海を二人で一緒に泳ぎながら、そのまま溺れて堕ちていきたい。
 今、二人だけの世界がオルゴールのネジのようにゆっくりとまわり始めようとしていた──。