足早で歩くのに傘を持ちながらでは邪魔になるだけだ。
 喫茶店の制服から学校の制服へと着替えた響は制服がビショ濡れになるのもお構いなしに、降りしきる雨の中を傘も差さずに歩いていく。
「響先輩、待ってください!」
 背後から卓登が必死になって何度も呼びかけてくるが、響はしかめっ面をして聞こえていない振りを決め込み、それを押し通そうとする。
 ずっと歩き続けていた響がT字路の所で立ち止まる。
 このT字路は卓登の家と響の家の中間地点のような場所だ。
「なんで敦騎にキスされちゃってんだよ?」
 響は卓登に背中を向けたままの状態で卓登を咎める。
 唇ではなく頬だったとしても、敦騎の冗談だったとしても、響の怒りと嫉妬心は拭えきれない。敦騎の唇の感触が卓登の頬に残っているのが許せない。どんなに卓登の頬を強くこすってみたとしてもその事実は消せないであろう。
「あれは一種の不可抗力といいますか……。すみませんでした……」
 不意打ちで避けきれなくてしかたなかったことだということは響も頭ではわかっている。響は本気で卓登のことを怒ってはいない。これは響の照れ隠しであり、まだほんの少しだけ卓登と気まずい雰囲気であることから会話の糸口を響なりに探っている状態なのだ。
 それでも卓登は自分に隙があり、響に不快感を与えてしまったと、響に失望されてしまったと反省しては項垂れる。
 そんなふうに素直に謝る卓登の姿に響の卓登への愛情は冷めるどころかますます膨れあがってゆき、惚れ直す材料が増えただけにすぎない。
 髪の毛先から足の爪先までビショ濡れの響が振り返り、同じく全身ビショ濡れの卓登が手に持っている洋菓子を指差す。
「それ、卓登一人で食うつもりかよ?」
 響は敦騎から頬にキスをされたことではなく、敦騎から貰ったクロカンブッシュへと話題を変える。
「美味しそうですよね」
 卓登がおっとりとした口調で呟く。
 そしてこの後、クロカンブッシュよりも甘い展開を織り成すことは可能なのかと期待と不安が交錯する。
「それ、すっげー人気商品でさ、カップルとか女の客とか、誕生日やクリスマス、結婚祝いなんかで予約の注文が殺到するんだ」
 当然のことながら敦騎と一緒に働いている響も喫茶店の商品には詳しい。
「これは小さくてシュークリームだけのシンプルなやつだけど、もっと色んなサイズもあるし、希望すればビスケットやチョコレート、マカロン、アイスクリームやドライフルーツをトッピングしてデコレーションも自由にできるんだ」
「へえ、そうなんですか」
 クロカンブッシュは特に珍しいスイーツでもないのだが、卓登は幼い子供のようなあどけない表情でクロカンブッシュを眺めている。
「俺はこのクロカンブッシュを響先輩とイチャつきながら一緒に食べたいです」
 勇気を振り絞り、卓登から届けられた愛情のこもった招待状は響を自宅ではなく、すぐさま方向転換させて卓登の住むタワーマンションに(おもむ)かせるには効果覿面(こうかてきめん)だ。
「今日、この後、俺の部屋に響先輩を連れ込んでも良いですか?」
 唐突に核心を突くことを言われてしまい、響は返答に戸惑った。
 でも、これこそがまさに今、響が最も望んでいた卓登からの台詞だった。
「卓登が嫌じゃないならな」
「響先輩のそういうところ、俺はすごく腹立たしく思いますしイライラします。正直に言いますと大嫌いです」
 なぜ今、卓登から「大嫌い」と言われたのか響にはわからない。
「大嫌い」だなんていう言葉だけを残して、そのままどこかに行ったりしていないだろうかという恐怖心が荒波のように襲ってきて響は急いで卓登に接近する。
 でも卓登は立ち去ろうとはしていなかった。
 立ち去るどころか、意地でもその場所から一歩も動かない様子だ。
「さっきの響先輩は俺が頬にキスをされただけでも機嫌を損ねていたくせに、今の響先輩は俺の胸の内をうかがった発言をする。はっきり言ったかと思えば曖昧な言葉を綴ったりもする。だから俺は不安にもなるし不愉快にもなるんですよ」
 ほんの数分前の響は誰が見ても、誰が聞いても、響が卓登に依存しているのは明確だった。
 それなのに、今の響は『来るもの拒まず。去るもの追わず』みたいな対応をしてしまっている。
 卓登を誰かに奪われそうになったり、響から離れていきそうな時にだけ『卓登はオレのものだ!』と主張して、その不安がなくなった途端『卓登はなんだかんだ言っても最後にはオレを選ぶ。オレの所に戻ってくる』という根拠のない自信から淡白な物言いや態度になる。
 卓登の言動や態度によって、響も言動や態度をコロコロと変えている。
 卓登に左右されてばかりで、響本人の意思がどこにも存在していない。
『響って極端だなと思う』
 敦騎が言っていたのは、こういう意味だったのか? と響は頭を悩ます。
「俺がどうこうではなくて、響先輩はこの後、俺としたいのかしたくないのか教えてほしいです。俺は響先輩としたいです」
 つい先程まで「大嫌い」と言っていたのに、卓登は響と「したいです」とはっきり言った。
「しても良いですか?」という問いかけではなく「したいです」と懇願してきた。
 そんな卓登から貰った迷いの欠片もないまっすぐな感情を響は無下にはしたくないと強く思う。
 卓登が響を求めてくれている。響はそれに応えたい。応えるだけではなく、響も卓登を求めているのだと卓登に全身全霊で伝えたい。
 万が一、卓登にへそを曲げられて心変わりされたりしたら非常に困る。
 卓登からの愛撫を受ける特権があるのは、この世界でたった一人、響だけなのだと証明してほしい。
 ほかの人には指一本触れないでほしい。自分だけに触れてほしい。
 そんな独り善がりな感情が積もり積もって響の口から出てしまったのは『卓登を求める言葉』ではなくて──。
「卓登を……」
「俺を?」
「ほかの誰にも渡したくなんかねーし、奪われたくもねーんだよ!」
『卓登を独り占めしたい』という、聞き分けのない幼い子供が言うようなみっともないわがままな言葉として空気中に轟く。
 響の自己中心的な発狂は雨の音に混じって掻き消されるどころか、雨の音にも劣らず、それをはるかに上回るほどの激しい雄叫びだった。
「俺は響先輩以外の人のものになった覚えなんかないですし、これからもなるつもりなんてないですよ」
 それは響もまったく同じ気持ちだ。
 響のほうも卓登以外の人のものになった覚えなんかないし、なるつもりもない。
 所詮、恋は盲目なんていうのは言葉の例えであって、実際、恋をしても意外とみんな盲目になんてならない。
 だから本当にそんな人物が存在するのかどうかと怪しいものだったが、響は自分自身がそれになってしまったと呆れ果てる反面、どこか誇らしくもある。
 卓登と触れ合ってキスをするたびに、響の真っ白な道徳観がどんどん薄汚れてゆき、それは徐々に灰色となり白の色さえ残らないほど真っ黒に染まった頃には、脳よりも体のほうに支配されてしまい、最終的には何も考えられなくなり、ただお互いの体を貪るだけの行為を繰り返す低俗な生き物になってしまうだろう。
「なんで卓登はそんなにしつこいんだよ。なんで卓登はオレなんかのためにそこまでするんだよ。なんで会いたいって思ったら本当に現れるんだよ。なんで、なんで……ッ!」
 息を詰まらせて苦しく咳き込みながらも、ここで言わなければ一生後悔してしまいそうで──。
「オレの心も体も全部卓登のものでほかの誰のものでもないのに、なんで卓登はそんな場所に突っ立っているだけで、いつまで経っても、こうしていつまでも待っているのにオレに触れようとしてこねーんだよ!」
 まるで自暴自棄のようになり、嗚咽しながら感情を爆発させた響は雨雲が切り裂かれるほどに絶叫する。
 今すぐ卓登に抱かれたい!
 響が心の底からそう願ったのと同時に、
 風のように、風よりも速く、
 卓登は響の手首を強く掴むと、そのまま強引に連れ去った。