「今日はこの後、卓登と会って前々から約束していたんだけど、ずっとそのまま先延ばしになってしまっていたから、今日こそは〝それ〟を実行するんだ」
「何を?」
「とっても良いことをだよ」
「良いこと?」
 響の言う〝それ〟とはキスのことで、そこにはキスだけではなく情交の意味も含まれている。
 いつでもどこでも欲情する卓登に響は呆れ果てていたはずなのに、今の響もバカバカしいほど卓登に欲情している。
「卓登はさ、オレと〝それ〟をするのが大好きらしくて、いっつも響先輩、しても良いですか? ってオレに訊いてくるんだけど、オレ、卓登にひどいことを言っちゃってさ、それ以来卓登がしても良いですか? って訊いてこなくなったんだ」
「喧嘩したのか?」
「喧嘩っていうか……。うん、まあ喧嘩だな」
「ひどいこと言ったと思っているなら謝ればいいんじゃないのか?」
 自責の念に囚われている響に敦騎は一般論な意見を述べるが、確実に卓登と仲直りできる方法を求めている響にとってそれは一時(いっとき)の気休め程度にしかならない。
「許してくれるかな?」
「響がそんなふうにウジウジ悩むなんて珍しいな」
「そうかもな。特に今回はオレが百パーセント悪いからかな。卓登を本気で怒らせた」
 響は卓登に吐き捨てた暴言の数々を思い出すだけでも虫酸が走るのだ。
 卓登に幻滅されてしまったに違いないと、外の天気同様に響の気分も晴れない。あの卓登と大喧嘩した日から響の心の中は雷雨の毎日が続いている。沈痛した暗い心に太陽の光が降りそそぐ明るい(きざ)しは未だ訪れそうにはない。
 そして何事にも動じなさそうなクールな卓登が子供っぽい理由で子供っぽく拗ねて怒ったりもするだなんて誰も想像だにしないだろう。というよりも想像のしようがないのであろう。
 しかし、そんな卓登も響は愛しく思えてしかたない。
 卓登の素顔を誰にも見せたくはない。誰も知る権利なんてない。自分だけが知っていれば良いことなのだと、響は日に日に肥大していく卓登への秘めた恋情と独占欲に蝕まれる。
 響はいつだって卓登のことだけを見ていて、卓登のことだけをこんなにも愛しているのに、それが卓登の心には届いていないのかと響は悲嘆に暮れる。
 どうすればこの火傷しそうなほどの熱い恋情が卓登に伝わるのだろうかと響は思案する。
「オレってわかりにくいか?」
「は? それはどういう意味だ?」
 不意に響からそんなことを訊かれて敦騎が不思議そうな表情を響へと向ける。
「あ、いや、敦騎から見てオレってわかりにくいか?」
「わかりにくいというと?」
 響は一旦、椅子を手前に引いて姿勢を整えた。そのわずかに生じた振動によってグラスの中に入っていたレモンティーの氷が崩れて底に沈んでいく。少しだけ溶けた氷は(いびつ)な形をしていた。
 淡く光るレモンティーに響の顔が大きく映し出される。
「たとえばさ、今こうして敦騎と一緒に話しているだろ? だけどオレは敦騎の話を聞いてなかったり、敦騎のことを見てないってふうに思うか?」
 敦騎は自分なりに考えて言葉を探した。
「俺との会話のキャッチボールがちゃんとできているから、無視されてないことは確かだよな」
「適当な返答だな」
「なんだよ。響から訊いといてひどいな」
「頼りになる返答ありがとう」
「冗談だって」
 響が感情なさげに言うと敦騎は真面目に答えたほうがいいと思ったのか、響の性格診断をはじめる。
「そうだなあ。半分かなあ」
「半分?」
「ああ。響ってたまに極端だなって思うときがある。わかりやすいときは本当に顔に出まくってわかりやすいけど、わからないときはまったくもってわからない。ちなみに今はわからないのほうに見えるな」
「無視はしてないじゃん?」
「無視はしてないけど、会話の本質がまったく見えてこない。心が読み取れない」
「そっか……」
 響は改めてあのバスでの一連の騒動を思い返してみた。
 周囲の人たちからの視線を気にするあまり、響は時と場所をわきまえようとはしない卓登の度の過ぎた行動を責めて喧嘩になった。
 言葉や態度に表すなということは卓登からの純粋で一途な愛情を拒んでしまったも同然なのだと響は嘆き悔やむ。
 他人のゴシップなどは大好きで鬱陶しいほどに干渉してくるくせに、困ったときには見てみぬ振りをして助けようとしてくれない赤の他人なんてどうでもいいではないか。
 響はあのとき保身的になってしまった弱虫で情けない自分を戒めずにはいられない。
「響、俺が慰めてつらいことなんか全部忘れさせてやろうか?」
「は?」
 不思議そうな面持ちで敦騎の顔を見る響の柔らかい頭髪を敦騎は指先で梳かすようにしていじくり、頬を優しく撫でまわす。そうしてそのままお互いの手と手を重ね合わせるかのように敦騎が響の手を握りしめると、慈愛に満ちあふれた、それでいて怪しげなほほ笑みを浮かべる。
 そして響の顔に自分自身の顔を徐々に近づけていく。
 敦騎と響の唇が触れ合うもう少しのところで──。
「卓登!?」
 鬼の形相をした卓登がものすごい勢いで店内に飛び込んできた。それはまるで金品を漁る強盗犯のようにも見える。
 卓登は脇目も振らずに敦騎と響に詰め寄ると、響の顔から敦騎の顔を引き離した。
「うわっ! 本当に来た! 何これ!? デジャブ!?」
 敦騎は遠くのほうから喫茶店に向かって歩いてくる卓登の姿に気がついていたが、敦騎と向かい合って座っている響には後方から接近してくる卓登の存在にはまったく気がついてはいなかった。
 響と喧嘩中で気まずい状態にいる卓登は店内に入るに入れなかったのだろう。ほんの数分間、喫茶店の中の様子をうかがっていたのだ。
 敦騎は響にキスを迫ったら卓登がどんな行動に出るのか面白そうだなと思い試してみたのだが、まさかここまで敵意剥き出しにされるとは予想外というよりもまさに予想的中で敦騎は腹を抱えながら一人で大爆笑している。
 しかし卓登からしてみたら少しも可笑しいとは思えずに仏頂面をしている。
「そんな睨むなよ。ちょっとした冗談だよ。何? 俺がマジで響にキスするとでも思った?」
 警戒心を解こうとしない卓登の険しい表情にも敦騎は臆することなく平然としており、意気揚々にあしらう。
 グラスの底に沈んでいたはずの氷がいつの間にか浮かんできており、笑いすぎて喉が渇いたのか敦騎はレモンティーを一気に飲み干した。
「響、顔色悪いし具合が優れないようなら今日はもうあがってゆっくり休んだほうが良いんじゃないのか? 卓登くんに優しく看病してもらいなよ」
 そして「これは俺の奢り。崩さないように気をつけてな」と朗らかに言って、人気の高いクロカンブッシュを卓登に手渡すと、敦騎が卓登の肩に軽くポンと手を乗せた……だけでは終わらずに、卓登の体を自分自身の体のほうに強引に引き寄せると卓登の頬にキスをした。
 驚愕する卓登と響を尻目に敦騎は相変わらずおちゃらけており、鼻歌を口ずさみながらテーブルの上を手際良く片づけはじめた。そして再び接客業用の嘘の笑顔を振り撒き、本来行うべく業務へと戻っていった。

 お持ち帰り用として透明なアクリルケースに入れられたミニサイズのクロカンブッシュが喫茶店の硝子窓に鏡のように映し出されるが、それは雨だれによって揺らめき斜めに傾いているようにも見える。これはただ単に目の錯覚によるものなのだが、綺麗に飾りつけされたクロカンブッシュを台無しにしたくはない。
 願掛けをしてみようか。
 もし、このピラミッドのように積み重ねられたクロカンブッシュを崩さずに自宅まで持ち帰れたとしたならば、きっと、いや必ず仲直りできると、また元どおりの関係に戻れると卓登と響は信じたかった。