「響先輩、今すぐ手を見せてください!」
 今度は卓登が響の手首を掴む。卓登の手の力は響が卓登の手首を掴んだよりもはるかに強かった。
「響先輩に触るだなんて許せません! あの人が触ったところなんて俺が全部消してあげます!」
「あっ……ッ!」
 爪。指の関節。指の間。掌。手の甲。
 響の皮膚が真っ赤に腫れあがるほどに卓登から舐めまわされる。
 わざと厭らしい音をたてて、わざと響の力を抜かせようとして、わざと響の抵抗力を奪うようにして、容赦なく舐めつくそうとする卓登の卑猥で巧みな舌使いに響は翻弄されながらも脱力感に襲われる。
 時折、卓登と響の二人を見る人たちの視線が交錯しながら集中的に突き刺さる。
 それら多数の飛び交う好奇な視線を四方八方から浴びて、当人である卓登と響は見世物として受けとめるのか、それとも得意気になるのか──。
 卓登と響の男二人による、おふざけのじゃれ合いなんだかラブシーンなんだかいったいどちらなのか区別のつけようがないものに周囲の人たちは釘付けになっている。
「あっ……ッ! た……くと……」
 その声の先は?
 その言葉の先は?
 もっとしてほしいのですか?
 もっと舐めてほしいのですか?
 手だけで満足できないのであれば、もしお望みなのであれば、今すぐここで響のズボンを無理矢理脱がして下着の中のものも舐めてあげましょうかと、卓登は極上の愛撫を響に与えてやると目論む。
 たとえ〝それ〟が萎えていたとしても、卓登は可能なかぎり膨張させて響を絶頂に導いてやろうと意気込む。
 嫉妬心と執着心に蝕まれた卓登の欲望は抑制されるどころか勢いに乗って暴走し、威勢よく加速していくばかりだ。
「あの人、響先輩にキスしたそうな顔をしていました!」
「はあぁ?」
 響のその声、その表情、その態度が──、
「頭の中で響先輩のことを抱いていたに違いありません!」
「なっ……ッ!?」
 ──卓登を煽る材料になっているのだという事実に響はまるで気がついてはいない。いや、本当は気がついているのだが、これ以上わがままで強欲になった卓登の独り善がりな姿を見たくなくて、あえて素知らぬ振りをしているだけなのかもしれない。
「今もどこかに隠れて響先輩のことを狙っているんですよ!」
 何か言いたそうな響の言葉をさえぎり、尚も卓登は情熱的に響の性感帯をくすぐり、いつまでも認めようとはしないその眠った快楽を目覚めさせて表舞台へ引き出そうと試みる。
 そして本当の本当にラブシーンになってしまった。
 卓登は合意ではなく、強引に響にキスをした。
 卓登は自ら切望して響と恋仲になったはずなのに、我慢ばかりしている現状がつらくてたまらなかった。
 響とは普通の恋人同士のようにはなれないのかと歯痒くてしかたなかった。
 卓登にはもう、何が普通で何が異常なのか区別がつかないでいた。
 普通に憧れているのならオレを嫌え。オレを捨てろと、響は願ってなどいない要求を声に出さずに心の中だけで何度も唱える。
 バスの中でのキスとは違い、この公共の場所でのキスは事故だと言って誤魔化せないであろう。
 響は卓登に抵抗感をまったくと言っていいほどに示さないが、卓登からのキスにも応えようともしない。
 卓登が何度も唇の角度を変えてみても、響からはなんの反応もない。
 卓登がうっすらと瞳を開けて響の濃淡な瞳の奥を確認すると、眼球の動きが止まっていた。
 卓登というスイッチで響は操り人形になったり喜怒哀楽を豊かに表現する感情のある人間になったりもする。人形とのキスがこんなにも冷たく、虚しく、寂しいものだったとは……。
 できることならこのまま、そう、このまま……、響は静かに瞼を閉じて夢心地な気分で卓登とのキスを堪能したいと思っている。
 けれども最終的には理性と平常心が打ち勝ってしまうのだ。
 響は卓登とのキスを中断させる。
「なんでもねーと言ってんじゃねーか! この分からず屋!」
 卓登とのキスを中断するために操り人形から人間に戻った響は卓登の体を力任せに容赦なく突き飛ばした。
 なんでもないのだったら、なおさらあの成人男性の手を選んだ響のことを卓登は憎まずにはいられない。
 分からず屋なのは響にも当てはまることなのだと卓登は握り拳を作り、唇をふるわせながら悔しさと悲痛の表情を滲ませている。
「響先輩が俺だけを見てくれないからでしょう!」
 卓登はけっして響からの愛情を疑っているわけではない。響のことを心の底から信じている。愛している。
 それなのに、なぜ、こんな些細なことで激怒してしまうのか卓登本人も理解するのが難しく、感情のコントロールが上手くできない。
 よくよく考えれば実にくだらないことでイラついてしまい、こんな難癖ばかり言い続けていたら確実に響に嫌われてしまう。響を失うことになるとわかってはいるのに響を非難する罵声は止まってくれずに心ばかりが磨り減っていく。
 響はもう誰に見られても構わなかった。
 誰になんと言われても構わなかった。
 今の響の瞳には卓登の姿しか視界に映っておらず、卓登のことしか見えていない。
 ただ傍観しているだけの第三者たちからは、フィクション映画よりも非現実的で実話な恋物語のほうがはるかに面白そうだとクスクス笑われる。そんな周囲の人たちの好奇に満ちあふれた声も雑音も何も聞こえてはこない。
 響の耳には卓登の声しか聞こえていない。
 響の視力も聴覚も、卓登にしか過敏に反応を示さない。
「卓登のそういうところ、オレはついていけそうにない。オレ、今日は一人で帰る。この飯代も受け取れない」
 卓登と思う存分イチャつきたかった響は本来の目的を完全に見失っていた。忘れ去ってしまっていた。
 響はまるでキス賃とでも言うように卓登にお金を手渡す。
 響から手渡されたそのお金を卓登は手の中で握り潰して地面に叩きつけた。
 二枚の千円札が雨で濡れていく。
「こんなお金いりませんよ!」
「ああ! そうかよ! もう勝手にしろよ!」
 このお金で卓登の好きなようにしろと、勝手にどこへでも行ってしまえと、卓登には響がそう言っているように聞こえてしまい、響に見放されてしまったのだと自暴自棄になる。
 後戻りできなくなった卓登はますます意固地になり、じゃあそうさせてもらいますよと、飯代を返金してくれて大感謝ですよと、響先輩様々ですねと、胸中だけで嫌味を連発する。
「好きにしろ」「勝手にしろ」と、冷たく突き放すように言われても卓登の心情は何一つ変わらない。
 たとえ好き勝手に生きたとしても卓登の生活は常に響中心にまわり続けるのだから。
 皺苦茶になった二枚の千円札が雨粒を吸収してうつむいている卓登のことを嘲笑う。
 卓登の頬を伝い流れ落ちる透明な雫は雨粒によるものなのか、それとも本物の涙なのだろうか──。
 水分に弱い紙切れのお札は雨には簡単に負けてしまう。だったらこのまま溶けて消えてしまえばいいと卓登は負け惜しみとばかりに(ののし)る。
 金銭で心の売り買いみたいなことをされて卓登はどれほど傷ついただろうか。
 卓登のことを喜ばせるどころか、自分は卓登のことを悲しませてばかりいるなと響は激しい自己嫌悪に陥る。
 それでも卓登を愛する響は自分も卓登から愛されたいと強く願わずにはいられない。
 自分の心はこんなにも醜く汚れきっていると自認する卓登の耳元では、響にも同じく汚れた土俵に立ってもらい道連れになってもらおうよと悪魔が囁く。

 卓登を一人残して映画館を出た響は(たむろ)してた男たち数名にからかわれた。
「男同士の恋愛は大変ですねえ~」
「どっちが女役ですかあ?」
「男同士でもちゃーんと気持ち良くなれるんですかあ?」
 勝手にほざいてろと響は眼中無しとばかりに無視をして前進する足を休めない。
「アンタもあのイケメンなホモくんに毒されてホモになっちゃったんですかあ?」
 しかし卓登を馬鹿にされることだけは許せない響は歩く足を止めると数名の男たちに怒りの眼力を容赦なく投げつける。
「おい、ぶっ飛ばすぞ」
 喧嘩腰な響に男たちは一瞬尻込みしたが負けじと喧嘩口調になる。
「なっ、なんだよ! 気持ち悪りーんだよ! ホモ野郎が! ホモがこんな所でイチャついてんじゃねーよ!」
 自分たちの存在は罵詈雑言を浴びせられるほど目の毒なのかと、響は悲痛と憤怒を織り混ぜながら表情を歪めると同時に口角を斜め下に曲げて薄ら笑いをした。

 この日の夜、喧嘩別れした響と卓登は自分のベッドの上に横たわり、瞼を閉じてもなかなか寝つけずにいた。
 お互いの手首にはうっすらと赤紫の痣が残っている。
 とっくに痛みなど消えてしまっているはずなのに、痣が残っているせいで疼きが治まらない。
 でもこの赤紫な痣が、今、最も愛する人との心を繋いでいる唯一の絆なような気がするから、卓登と響はいつまでも痣が消えてほしくはないと切望しながら、そっと自分自身の手首に口づけて眠りについた。
 そうした誰にも言えない悩みと願いを抱え込みながら、小雨が降る穏やかな夜は静かにふけていった。