響は卓登を一つの映画館に連れてきた。
 これがこんな雨雲に覆われた雨天ではなく晴天で、ただの雨宿り目的ではなく、激しい口論の後でもなく、心も踊るように晴れやかだったのならば、この映画館で仲良く一緒に映画を観たりもできたであろう。
 思い返せば、これまで卓登と響は映画館で一緒に映画を観たこともなければ、まだデートらしきことをしたことが一度もなかった。
 響が離したくないのか、ついさっき卓登の手を選ばなかったお詫びのつもりなのか、響の手は卓登の手首を離さそうとはしなかった。
 だけど手だけだった。
 手以外の響の体はそっぽを向き卓登のことを冷たく避けていた。
 今ここで卓登と向き合ったら、抱きしめられてキスされて、そのまま押し倒されるのではないのかと、響は期待半分、恐怖心半分と複雑な心境だった。
 卓登は今ここで響から別れを告げられてしまうのかという不安感に襲われてしまい、少しばかり臆病者になっている部分もあった。
 長年の恋を実らせて、響と相思相愛になった卓登は響と楽しく夢見ることに溺れていくだけ溺れてゆき、もしかしたらこのまま二度と浮上してはこれなくなる可能性だってあるだろう。
 だから響は、あえて己の心を鬼にして卓登の手首を離すと同時に卓登と向かい合った。
 手と手で繋がっていた響と卓登が今度はお互いの目線で繋がる。
 そして同じ感情を心の奥底に隠し持つ。
 異なるのは性格、身長、ほかにもたくさんあるだろうか。
 卓登は響が自分と瞳を合わせてくれることに安堵した。
 そして今の響の瞳は動いている。人形の瞳をしてはいない。しっかりと感情のある生きた瞳だ。
 だからこそ卓登は嘆き悲しむのをやめて、響のことを咎めはじめる。
「響先輩は手を繋ぐくらいで気にしすぎですよ」
「くらいってなんだよ?」
 なぜ、自分だけがこんなに厳しく非難されなくてはならないのだろうかと卓登は納得できないでいる。
 それに卓登はまだ響の口から直接ちゃんと聞いてはいなかった。
 響からわざとなんだと口頭ではっきりと言われたばかりなのだ。
 卓登はこの件に関しては自分も響を咎める権利くらいあるはずだと攻撃的な物言いを弱めるつもりはない。
「響先輩はそんなに自分が周りの人たちからジロジロ見られて注目を浴びているとでも思っているんですか? ずいぶんと自意識過剰なんですね」
 卓登から嫌味を言われて不愉快になった響は卓登のことを鋭く睨みつける。
 遠くのほうで雷鳴が轟いているのが聞こえてくる。
 大嵐になりそうな不吉な予感が卓登と響の心に繁殖したうじ虫のようにジワリジワリと広がっていく。
「俺にはあれもこれもと制限するくせに、響先輩は平気な顔してバスに乗り合わせた男と手を繋ぐんですね」
「またその話かよ」
「またってなんですか? 響先輩はあの男と何か特別な関係でもあるんですか? まさか好きになったんですか?」
 卓登から突拍子もないことを言われてしまい、響は半ば呆れ気味に大きくため息を吐いた。
 そして怒り声をあげる。
「今日、初めて会ってちょこっと会話したくらいで好きになるわけねーだろ!」
 響の手と触れあってなんとも思わない人なんているんだろうかと、卓登の嫉妬心と猜疑心が拭えない。
 卓登には響とあのスーツを着用した成人男性が卓登のことを視界から完全に除外して無視を決め込み、二人だけの世界を作り出していたように見えてしかたないのだ。
「あっちは響先輩のことを好きになったかもしれないじゃないですか!」
「どうやったら、たったあれだけのやり取りで好きになるんだよ⁉ 向こうなんて今頃はオレたちのことなんか綺麗さっぱり忘れてるよ! 顔すらも覚えてないかもな! たまたま自分の目の前にオレが倒れていたから手を差し伸べたってだけだろうよ! 倒れていたのがオレじゃなくて卓登だったとしても手を差し伸べてきたに決まってる!」
 それはあくまで響の持論であって、実際は忘れてなどはいないかもしれない。顔だってしっかりと覚えているかもしれないではないのかと卓登は猛反発する。
 それに響はたったあれだけのやり取りでと言い張るが、過去にそんな些細な会話のやり取りで響に恋いこがれるようになった卓登からしてみたら説得力なんてまるで皆無なのだ。
「あの男から手を差し伸べられるだなんて気持ち悪いです。俺は死んでも触りたくないです」
 それを聞いた響は絶句した。
 卓登は響のことになるとそんなひどいことを平気で言ってしまうのかと、響を想う気持ちが強くなれば強くなるほど卓登は冷酷非道な人間になってしまうのかと、響は卓登を憐れんだ。
 違う。卓登はそんな冷たい人間ではないと響は全否定したい。
 邑夢をイジメから守ったり、バスの中で響のことを必死に守ってくれた心優しい卓登はどこに行ってしまったんだと、そんな慈悲深い卓登を取り戻したい響はたまらず卓登を怒鳴りつける。
「おい! 言いすぎだぞ!」
 これでも怒りを抑えているつもりだった卓登の怒りも頂点に達してしまい、不満を爆発させた卓登も響に怒号をぶつける。
「どうしてあんな男を庇うんですか⁉」
「べつに庇ってなんかねーよ!」
 このまま響を罵倒し続けていれば響から憎まれて失望されてしまうと卓登の頭の中で何度もうるさく警報が鳴り響く。
 大量の危険信号が卓登の目の前に立ちはだかるが、卓登は逆走せずに警告を無視して強行突破する。
「まさか響先輩、あの男から手を差し伸べてほしくてわざと自分から起き上がろうとしなかったんですか⁉」
「ちっげーよ!」
 こんな子供っぽくて、情けなくてみっともない言い争いを今すぐ終わらせてしまいたいのに、一度噴火してしまった激情は止まることを知らない。
「俺だったらあの男の手なんかじゃなくて迷わず響先輩の手を取りました! 響先輩が手を差し伸べてくれなくても、俺のほうから、響先輩、手を貸してくださいと言いました! 本当に初対面だったんですか⁉」
「ああ! そうだよ!」
「この後、俺に内緒でこっそり会う約束とかしているんじゃないんですか!?」
「そんなわけねーだろ!」
 卓登には今の響が何を言っても信用できないでいた。頭の中がグチャグチャで冷静になれないでいた。
 憂いに変化した空模様が、嗚咽しながらも最上級の愛情が欲しいと豪雨と暴風で荒れ狂う。