特に変わった箇所など見当たらない。どこにでもあるありふれたバスの中のはずなのに、今の響には空気が張りつめて息苦しく感じる。まるで針の(むしろ)に座らされているかのような気分だ。
 それとも、このバスはすでに酸素がない状態で乗車した瞬間に息苦しくなるバスなのだろうか。
 この際、卓登は良い機会だからと試してみたくなった。勝負してみたくなった。
 バス停という第一の関門は難なく突破した。第二の関門のバスの中は少しばかり高難度になっているのだろうか。
 まずはこのバス一つを侵略して、乗客全員を味方につけて、響と恋仲である関係に祝福の拍手喝采を浴びてみせると卓登は威勢良く意気込む。
 手始めに、まずは誰から味方につけようかと卓登は人選を始める。
 響も一緒になって策を練ってほしいのに、響は少しも考えようとはしてくれない。
 そんな弱腰では勝てる勝負も勝てないですよと、戦う気0の響に卓登は無性に苛立ってしまい、激しい怒りが腹の底から込み上げてきて仕方がない。
 響はできることならば椅子に座りたいと思っている。でも不運なことに空いてる席が一つもない。
 立っている乗客が自分と卓登だけでないことが響からしてみたらせめてもの救いだった。
 次のバス停で乗客全員が降りて響と卓登だけの貸し切り状態になるか、もしくはギュウギュウ詰めになるほど大人数が乗ってきてほしいと響は強く願う。
 響はなるべく卓登と繋がれた手を目立たないようにするけれど、卓登はそれとは正反対な行動をする。
 まるで繋がれた手を見てくれと言わんばかりに大胆不敵に曝けだそうとする。
 大好きな卓登の手の温もりが、今の響は冷たく不気味に感じてしまう。
「響先輩、ちょっと今から具合悪い振りをしてくれませんか?」
「なんで?」
「俺が体調を崩した響先輩を支える振りをして抱きしめてあげます」
 響は一瞬、思考力が停止してしまった。
 卓登が言っている意味を瞬時に理解できなくて、頭の中身を整理するのに数秒間ほどかかってしまったのだ。
 そして理解した途端、再び響の思考力が通常に戻り頭の中身を真っ白くさせた。
 悪寒が走り響の全身に鳥肌が浮きでる。
「なっ……にを、考えているんだよ……ッ⁉」
 驚愕のあまり響は顔面蒼白させて言葉を失ったが、なんとか絞り出すように発した響の声はしゃがれていた。
 恐怖心からなのか、響の喉が痺れてふるえが止まらない。心臓が這い上がってきて今にも口から飛び出しそうだ。
 卓登は医者に成りきり、響を患者に見立てて診察する。そして病弱な響は卓登の大切な患者様だ。
 これ以上、病状が悪化したくなかったら担当医の指示に従わなくてはダメですよと叱咤する。
「響先輩は病気を持っているんです。喘息という病気を。今日は発作を抑える薬をうっかり家に忘れてきてしまったから、もし発作が起きたら俺が響先輩に人口呼吸してあげないと響先輩の命にかかわります。響先輩、今すぐここで発作を起こしてください。俺が人口呼吸してあげますから」
「オレはそんな病気なんか持ってねーよ」
「持っているんですよ。響先輩は重病人なんです」
 卓登は自分でも支離滅裂で意味不明なことを言っていると、独り善がりで卑怯者になっていくのを人一倍自覚していた。
 それでも一度爆発してしまった独占欲と嫉妬心は壊れたブレーキと同じで急斜面を転がり落ちるボールのようにどんどん加速していくばかりだ。その暴走する身勝手な感情は抑制不可能で融通がきかない。
「卓登、今すぐバスを降りよう!」
「本当に具合が悪くなったんですか? だからバスを降りたいんですか? それともバスに酔ったんですか? じゃあ遠慮なく俺に寄りかかっても良いですよ」
「そういう意味じゃない! 卓登、いい加減にしろ!」
 響が剣幕になって叫んだのと同時に、卓登以外の乗客全員の視線が一斉に響だけに集中した。
 周囲の人たちから注目を浴びることには成功したが、祝福の拍手喝采はいっさいない。
 けれども、そんな好奇な視線もバスが突然急停車したことでなくなった。
 道路にバスのタイヤが激しくこすれる音が響の雄叫びを掻き消して、乗客みんなからの注目をも逸らした。
 座っていた人でさえ首がガクンと大きく前後に揺れたのだ。
 立っていた響と卓登はそれ以上の衝撃を受け、雪崩れるようにして倒れこんでしまった。
 突如、こんなハプニングに遭遇した場合、誰もが自分の身を守ろうと必死になるだろう。
 誰でも最初はそうだ。人間とはこの世で一番貪欲的で被害者意識が人一倍強くてわがままな生き物なんだ。
 それで少し心に落ち着きと余裕を取り戻してきたら他人を思いやりはじめる。
 そういうものなのに……。
 卓登は違った。
 響は卓登の両腕の中にいた。