鏡は真実の姿だけを写しだすと言うけれど、結局はみんな、偽りでしかない綺麗に着飾った己の姿しか見たいとは思わないわけでして──。
本当の姿から目を背けたいがために、硝子瓶で鏡を叩き割る己の姿は想像を絶するもので、それはおそらく目も当てられないほど醜いものかもしれなくて──。
心の中は激しい憎悪の塊が濁流のように渦巻いており、嫉妬に狂った歪んだ顔で本質を睨みつけていることでしょう。
鏡よ、鏡よ、鏡さん。
世界で一番、貪欲で色欲なのは誰ですか?
もう二度と手離したくはない、ほかの誰にも渡したくはない、奪われたくもないと強く願うのならば、あの有名な童話に登場するお后様のように、もっとわがままになって、もっと欲張りになって、もっと私利私欲にまみれてみても良いとは思いませんか?
季節は前年度よりも少しばかり遅い梅雨に入り、制服も夏服となり、毎日ジメジメとした湿気の多い憂鬱な日々が続く。
「え? 響先輩、今、なんて言いました?」
雨音と周囲にいるほかの生徒たちの雑談によって邪魔されてしまったのか、卓登は響からの自己主張とも受け取れる願望の塊をちゃんと聞き取ることができなかった。
「いや、あの……その、まあ……なんつーか、ほら、最近あまり……というか全然、卓登に触ってねーなあ~と思ってさ……。キスとかも全然……。だから、その……」
ここのところ、卓登と響はお互いにアルバイトで忙しい日々を過ごしており、学校の昼休みくらいでしか一緒にいられる時間がなく、悶々としていた響は欲求不満になっていた。
「響先輩、俺とイチャつきたいんですか?」
卓登から真顔で直球に言われてしまい、響は飲んでいた野菜ジュースをおもいっきり吹き出してしまった。
「おっ前なあ、そんなはっきり言うなよ!」
「え? 違うんですか?」
卓登は響が口内からこぼしてしまった野菜ジュースを拭きながら残念そうに訊いてくる。
あきらかに落胆している卓登の顔を見た響は観念したのか本音を吐露する。
「違わねーよ。当たってるよ」
響は羞恥心を誤魔化すかのようにして自分の髪をワシャワシャと掻き乱し、野菜ジュースを一気に飲み干すとゴホゴホと噎せこんだ。
「こんなこと、何度も言わすなよな」
赤面させながらうつむいた響がボソリと呟く。
耳まで真っ赤に染めている響の姿があまりに可愛らしいものだから、卓登の心の中いっぱいに愛欲が充満する。
ここが学食でなければ、卓登は貪るようにして響の唇に吸いついて、響の骨が折れてしまうほどに響の体を力いっぱい抱きしめていたであろう。
そんな卑猥な思考を頭の中から追い払い、荒波のように押し寄せてくる欲望の数々に打ち勝ち、卓登は表情をいっさい崩すことなく物腰柔らかい眼差しを響へと向ける。
そして、響への尽きぬことのないあふれんばかりの恋情を響本人に伝える。
「俺は響先輩のためでしたら、いくらでも時間を作りますよ」
卓登が声を弾ませながら上機嫌に言った。
「今日はバイトがあるので、その後でも良ければ家に来てください」
どんなに労働して体力消耗しようとも、卓登は響と戯れる時間だけは削りたくないのだ。そしてそれが響からの要望であればなおさらだ。
「そのまま泊まっても良いですよ。といいますか泊まってください。泊まってほしいです」
響のことをまっすぐに見つめてくる卓登の綺麗な黒い瞳が不埒に光り、響の手を優しく握りしめる。
「今日はもう響先輩のことを帰したくありません。明日の朝までずっと一緒にいたいです」
最も愛する人から捨て犬のようにお願いされてしまえば、響はそれに従い素直に頷くことしかできないでいた。
少しばかり窪んだコンクリートに水溜まりが作られて、そこに泥水と雨水が混じり卓登と響の靴を徐々に汚していく。
時折吹く風は金切り声をあげたり、吠えたり、喚いたり、叫んだり、かと思えば湿っぽくすすり泣くように吹いたりもした。
空模様は雲の切れめ一つない薄暗く灰色な曇天だが、卓登と響の視界に広がるのは華やかな色彩で埋めつくされた多種多様な傘を差しながら歩くたくさんの通行人たちだ。
それらの光景はまるで美しい花畑のようにも見える。
雨の匂いが鼻腔をくすぐり、卓登と響を優しく包み込む。
次のバスまで約三十分弱ある。
一般的には欠伸がでてしまうほどに退屈だと感じるバスの待ち時間さえも、卓登と響にとっては貴重な時間だ。
他愛のないお喋りをしながら、この穏やかに進むゆったりとした空間を卓登と響はとても気に入っており、そんな至福の余韻にいつまでも浸っていたいと思っている。
本当はこの一つ前のバスに乗る予定だったのだが、一足遅く乗り遅れてしまったのだ。
乗り遅れた理由はこうだ。
響は卓登のアルバイトが終わるのを近場のファーストフード店で待っていた。
しかしお店が混雑してきて忙しくなってきてしまったため、卓登のバイト時間が長引いてしまい、結果的に響を待たせてしまうことになってしまったのだ。
卓登は響を待たせてしまったことを非常に申し訳なく思い、せめて卓登を待っている間、響が注文したハンバーガーとポテト、そしてシェイクの代金を支払うと言った。しかし響はそれを断った。
お互いに「食事代を払う。奢る」だの「自費で払う」だの強情に言い張り譲歩しないでいたら、マヌケにもバスに乗り遅れてしまったというわけなのだ。
急いで走りバス停に向かったものの、本来、響と卓登が乗ろうと思っていたバスはリズミカルなエンジン音だけを残して発車してしまった。
バスの運転手には響と卓登が走っている姿が見えていなかったのだろうか。それとも気がついてはいたが待つのが億劫で冷たく無視してしまったのだろうか。
今だけは、卓登も響も時間どおりに発車するバスに不満だらけだ。
「そんなたいした金額じゃないし、オレは嫌々卓登のことを待っていたわけじゃないんだから気にすんなよ」
かたくなに粘る響に卓登は話しの論点を変えることにした。
「たいした金額じゃないと思っているのなら、俺からお金を受け取ってください。響先輩にはべつのお願いをしたいので」
「べつのお願い?」
響が不思議そうな顔で隣に立つ卓登の顔を見据える。
今、このバス停には卓登と響の二人だけでほかには誰もいないが、バス停の周辺をたくさんの人たちが往来している。
「俺と手を繋いでくれませんか?」
「今、ここでか?」
「はい、ここでです」
響は怪訝そうに眉根を寄せて、あからさまに困惑な表情をした。
それを見た卓登は若干傷つき悲しくなった。
卓登の胸の奥を細い針がチクチクと突き刺してくる。
今はまだ細いこの針がどんどん太くなってゆき、完治するのが不可能なほどに深傷になる前に、どうかお願いです。俺と手を繋いでください。と卓登は胸中だけで連呼する。
響もできることなら卓登のお願いを聞いてやりたいと思っている。
でも卓登と響が立っているこの場所が問題点となっており、大勢の人目があるということが響の決心を揺らがせている。
外と室内。この境界線の差は大きい。
かといって響は卓登本人に直接「嫌だ」とも言いたくはない。
もし言ってしまったら、卓登は確実に不機嫌に……いや違う。不機嫌ではなく悲壮感にさいなまれてしまうことだろう。
本当の姿から目を背けたいがために、硝子瓶で鏡を叩き割る己の姿は想像を絶するもので、それはおそらく目も当てられないほど醜いものかもしれなくて──。
心の中は激しい憎悪の塊が濁流のように渦巻いており、嫉妬に狂った歪んだ顔で本質を睨みつけていることでしょう。
鏡よ、鏡よ、鏡さん。
世界で一番、貪欲で色欲なのは誰ですか?
もう二度と手離したくはない、ほかの誰にも渡したくはない、奪われたくもないと強く願うのならば、あの有名な童話に登場するお后様のように、もっとわがままになって、もっと欲張りになって、もっと私利私欲にまみれてみても良いとは思いませんか?
季節は前年度よりも少しばかり遅い梅雨に入り、制服も夏服となり、毎日ジメジメとした湿気の多い憂鬱な日々が続く。
「え? 響先輩、今、なんて言いました?」
雨音と周囲にいるほかの生徒たちの雑談によって邪魔されてしまったのか、卓登は響からの自己主張とも受け取れる願望の塊をちゃんと聞き取ることができなかった。
「いや、あの……その、まあ……なんつーか、ほら、最近あまり……というか全然、卓登に触ってねーなあ~と思ってさ……。キスとかも全然……。だから、その……」
ここのところ、卓登と響はお互いにアルバイトで忙しい日々を過ごしており、学校の昼休みくらいでしか一緒にいられる時間がなく、悶々としていた響は欲求不満になっていた。
「響先輩、俺とイチャつきたいんですか?」
卓登から真顔で直球に言われてしまい、響は飲んでいた野菜ジュースをおもいっきり吹き出してしまった。
「おっ前なあ、そんなはっきり言うなよ!」
「え? 違うんですか?」
卓登は響が口内からこぼしてしまった野菜ジュースを拭きながら残念そうに訊いてくる。
あきらかに落胆している卓登の顔を見た響は観念したのか本音を吐露する。
「違わねーよ。当たってるよ」
響は羞恥心を誤魔化すかのようにして自分の髪をワシャワシャと掻き乱し、野菜ジュースを一気に飲み干すとゴホゴホと噎せこんだ。
「こんなこと、何度も言わすなよな」
赤面させながらうつむいた響がボソリと呟く。
耳まで真っ赤に染めている響の姿があまりに可愛らしいものだから、卓登の心の中いっぱいに愛欲が充満する。
ここが学食でなければ、卓登は貪るようにして響の唇に吸いついて、響の骨が折れてしまうほどに響の体を力いっぱい抱きしめていたであろう。
そんな卑猥な思考を頭の中から追い払い、荒波のように押し寄せてくる欲望の数々に打ち勝ち、卓登は表情をいっさい崩すことなく物腰柔らかい眼差しを響へと向ける。
そして、響への尽きぬことのないあふれんばかりの恋情を響本人に伝える。
「俺は響先輩のためでしたら、いくらでも時間を作りますよ」
卓登が声を弾ませながら上機嫌に言った。
「今日はバイトがあるので、その後でも良ければ家に来てください」
どんなに労働して体力消耗しようとも、卓登は響と戯れる時間だけは削りたくないのだ。そしてそれが響からの要望であればなおさらだ。
「そのまま泊まっても良いですよ。といいますか泊まってください。泊まってほしいです」
響のことをまっすぐに見つめてくる卓登の綺麗な黒い瞳が不埒に光り、響の手を優しく握りしめる。
「今日はもう響先輩のことを帰したくありません。明日の朝までずっと一緒にいたいです」
最も愛する人から捨て犬のようにお願いされてしまえば、響はそれに従い素直に頷くことしかできないでいた。
少しばかり窪んだコンクリートに水溜まりが作られて、そこに泥水と雨水が混じり卓登と響の靴を徐々に汚していく。
時折吹く風は金切り声をあげたり、吠えたり、喚いたり、叫んだり、かと思えば湿っぽくすすり泣くように吹いたりもした。
空模様は雲の切れめ一つない薄暗く灰色な曇天だが、卓登と響の視界に広がるのは華やかな色彩で埋めつくされた多種多様な傘を差しながら歩くたくさんの通行人たちだ。
それらの光景はまるで美しい花畑のようにも見える。
雨の匂いが鼻腔をくすぐり、卓登と響を優しく包み込む。
次のバスまで約三十分弱ある。
一般的には欠伸がでてしまうほどに退屈だと感じるバスの待ち時間さえも、卓登と響にとっては貴重な時間だ。
他愛のないお喋りをしながら、この穏やかに進むゆったりとした空間を卓登と響はとても気に入っており、そんな至福の余韻にいつまでも浸っていたいと思っている。
本当はこの一つ前のバスに乗る予定だったのだが、一足遅く乗り遅れてしまったのだ。
乗り遅れた理由はこうだ。
響は卓登のアルバイトが終わるのを近場のファーストフード店で待っていた。
しかしお店が混雑してきて忙しくなってきてしまったため、卓登のバイト時間が長引いてしまい、結果的に響を待たせてしまうことになってしまったのだ。
卓登は響を待たせてしまったことを非常に申し訳なく思い、せめて卓登を待っている間、響が注文したハンバーガーとポテト、そしてシェイクの代金を支払うと言った。しかし響はそれを断った。
お互いに「食事代を払う。奢る」だの「自費で払う」だの強情に言い張り譲歩しないでいたら、マヌケにもバスに乗り遅れてしまったというわけなのだ。
急いで走りバス停に向かったものの、本来、響と卓登が乗ろうと思っていたバスはリズミカルなエンジン音だけを残して発車してしまった。
バスの運転手には響と卓登が走っている姿が見えていなかったのだろうか。それとも気がついてはいたが待つのが億劫で冷たく無視してしまったのだろうか。
今だけは、卓登も響も時間どおりに発車するバスに不満だらけだ。
「そんなたいした金額じゃないし、オレは嫌々卓登のことを待っていたわけじゃないんだから気にすんなよ」
かたくなに粘る響に卓登は話しの論点を変えることにした。
「たいした金額じゃないと思っているのなら、俺からお金を受け取ってください。響先輩にはべつのお願いをしたいので」
「べつのお願い?」
響が不思議そうな顔で隣に立つ卓登の顔を見据える。
今、このバス停には卓登と響の二人だけでほかには誰もいないが、バス停の周辺をたくさんの人たちが往来している。
「俺と手を繋いでくれませんか?」
「今、ここでか?」
「はい、ここでです」
響は怪訝そうに眉根を寄せて、あからさまに困惑な表情をした。
それを見た卓登は若干傷つき悲しくなった。
卓登の胸の奥を細い針がチクチクと突き刺してくる。
今はまだ細いこの針がどんどん太くなってゆき、完治するのが不可能なほどに深傷になる前に、どうかお願いです。俺と手を繋いでください。と卓登は胸中だけで連呼する。
響もできることなら卓登のお願いを聞いてやりたいと思っている。
でも卓登と響が立っているこの場所が問題点となっており、大勢の人目があるということが響の決心を揺らがせている。
外と室内。この境界線の差は大きい。
かといって響は卓登本人に直接「嫌だ」とも言いたくはない。
もし言ってしまったら、卓登は確実に不機嫌に……いや違う。不機嫌ではなく悲壮感にさいなまれてしまうことだろう。