埃っぽい体育館倉庫の中で卓登は呆気にとられていた。
 そして自分自身に問いかけてみる。
 こういった状況の場合、どういった態度を示し、どんな言葉をかけるのが一般的に正しいのかと。
「早く洋服を着なよ」と注意するべきなのだろうか。
「何も見てないから!」と即座にこの場所から立ち去るべきなのだろうか。
 卓登から見た邑夢はあまりに滑稽な格好で、卓登は邑夢から視線を逸らせないでいる。
 これといって邑夢のことを特別視していたり、意識していないからこそ、卓登は非常に落ち着いており思考力は冷静に機能していた。
 もし卓登がほんの少しでも、この芹澤邑夢という人物に興味を持っていたのならば、あわてたり、ぎこちなく支離滅裂な言葉を発したり、赤面させたりしていたのかもしれない。
 しかし卓登がどんなに邑夢のことを無視しようとしていても、万が一、この現状を誰かに目撃されてしまったりしたら変な誤解を招いてしまうであろうことは明白だ。
 体育館倉庫のドアが開けっ放しになっている。
 卓登がそのドアを閉めたらここは完全な密室状態になるわけで、今、卓登の目の前にいる能天気なお姫様から警戒されてしまう可能性も充分考えられるのだ。
 邑夢は特に困惑している様子もなく、下着姿のままで自分のトートバッグの中に制服を仕舞っている。
「学校の制服って、なんだか堅苦しくて嫌ね」
 学校の制服が嫌いなのはわかったから、とりあえず何か衣服を羽織るなり着るなりしてくれないかなと卓登は思った。
「キミはここの学校の生徒なの?」
 突然、邑夢から質問をされて卓登はますます呆れてしまった。
 その質問内容は真面目な気持ちの表れなのか、それともふざけているつもりなのだろうか。
 制服を見れば同じ学校の生徒であることは一目瞭然だろう。
 卓登はコスプレとして制服を着用しているわけではない。
 外見だけではなく、どうやら邑夢の頭の中までもがお花畑らしい。
「あれっ! キミのネクタイの色と柄、ワタシの制服のリボンとお揃いだね! てことは学年も一緒だね! ワタシ、芹澤邑夢っていうのね。べつに留年してるとかじゃないからね。ちゃーんとピッカピカの高校一年生だよ! キミは留年しているのかな? 名前はなんていうの?」
 邑夢からの猪突猛進な質問の数々に卓登は疲弊してしまい、説明しようのない頭痛にさいなまれる。
「ねえ! ねえ! ねえってばあ。キミの名前を教えてよ!」
 邑夢が卓登のブレザーの裾を掴む。卓登は今すぐ邑夢の手を払い除けたくなったが、教えてくれるまで絶対に離さないよといった融通の利かない駄々っ子のように邑夢がしつこいものだから、卓登はため息を吐くと同時に渋々口を開いた。
「……岸辺、卓登……」
「岸辺卓登くんね。じゃあ、たっくんって呼ぶね。たしかクラス名簿があったはずなんだけどなあ。あっれえ~、どこにやったっけなあ」
 邑夢は卓登の冷めた態度などまったく気にしていない様子で、トートバックの中をゴソゴソと漁りクラス名簿の用紙を探しはじめた。
「とりあえず、一応ここは学校なわけだから、先生やほかの生徒たちに見つからないように気をつけて。それじゃあ」
 これ以上、邑夢と一緒にこの場所にいたりしたら厄介事に巻き込まれそうだなと思った卓登は、体を反転させてすぐさま立ち去ろうとするが、
「うっわーい! ワタシ、たっくんと同じクラスなんだね! なんて素敵なの!」
 クラス名簿を見た邑夢が卓登の後ろで卓登と同じクラスだとわかった途端に歓喜の叫び声をあげた。
 卓登は振り返ろうともせずに、邑夢とクラスまで同じであることにげんなりした。
 さらに卓登の精神は邑夢によって削がれされてゆき、気分までも沈んでいく。
「ああぁぁぁー! それっ! たっくんが今、足で踏んでるの!」
 邑夢のうるさすぎる絶叫に卓登は思わず外に出ようとしていた足を止めた。
「あぁーん、もうっ! これが可愛さを一番引き立ててくれる重要なコサージュなのにい……」
 眉毛を八の字に垂らした邑夢が悲し気な表情で尻餅をつくようにしてしゃがみこむ。
 邑夢の形の崩れたコサージュを見て、不本意だったとはいえ卓登は心を痛めた。
「弁償するよ」
 申し訳なさそうに言う卓登に、邑夢は意味がわからないといった顔を卓登へと向ける。
「弁償? まっさかあ。たっくんがわざと踏んで壊したわけじゃないんだから、たっくんが気にするのはおかしいでしょう?」
 邑夢はゴスロリ衣装に着替えながら満面の笑顔で卓登からの弁償を拒んだ。
 そして手鏡を持ち呑気に口紅を塗っている。
「でも、芹澤さんにとっては大切な物だったんでしょう?」
「んー、ワタシは本当に弁償とかべつに良いんだけどな。じゃあさ、この後バイトに行くから、そこでたっくんが可愛いコサージュを選んでよ!」
 なんで俺が……と卓登が言う前に邑夢が話を続ける。
「中学生のときにね、毎日のように通っていたお気に入りのお店があって、高校生になったらバイトしてみない? って店長さんに誘われたの! 大好きなお店で働けるなんてすっごく嬉しくて、すぐにオッケーしちゃった!」
 卓登は完全に邑夢のペースの餌食となってしまい、外に出るタイミングを逃してしまった。
「たっくんはバイトしているの?」
 上目使いをした邑夢が卓登に詰め寄りながらたずねてくる。
「これから始めたいと思ってはいるけど」
「本当に!?」
 邑夢の瞳がまばたきを繰り返しながら大きく見開かれて、爛々としたかがやきを放っている。
 卓登はこれといって深く考えたりもせずに受け答えしただけなのだが、邑夢に正直に話してしまったのは間違いだったのだということだけは即座に理解した。
「ねえ、たっくん。ワタシと一緒にバイトしない?」
 卓登は仏頂面をして勘弁してくれと思った。
 卓登は非常に迷惑だと態度で示しているつもりなのだが、どうやら卓登のそんな感情は邑夢には微塵たりとも伝わってはいないらしい。
「バイトはしたいと思っているけど、何も芹澤さんと一緒にバイトを始める理由はないよ」
「ワタシはたっくんと一緒にバイトしたあぁーい! たっくんと一緒にバイトしたらとっても楽しそう! それにワタシ、すっごく人見知りするんだもおぉーん」
「……そうは見えないけど……」
 卓登は段々と邑夢の言動を気にしなくなりはじめていた。というよりも、どうでもよくなってきていた。文句をぶつけるのさえ面倒だ。
「人見知りっていうか、好き嫌いがハッキリしているの。興味があるものにはとことん自分から近づいていくけど、興味のないものにはとことん無視して近づかないの」
 邑夢の服装センスには少しも理解できない卓登ではあるが、この発言には少しばかり共感できてしまい、卓登は危うく頷きそうになってしまった。
 邑夢から親近感を持たれたりなんかしたら、ますます困ることになりそうだ。
「たっくんは、すっごく興味あるな。なんだろう。勝手に仲間意識を感じちゃうんだよね」
 本当に勝手だな。こっちはこれ以上関わりたくはないんだ。と卓登は声には出さず心の内だけで毒づいた。
「たっくんは、ワタシと同じで誰にも言えない秘密をかかえていそうなんだもん」
 直感とは、時に想像を越えるほどの勇気を与えてくれる原動力へと繋がる。
 周囲の価値観に溶け込む必要なんてどこにもないし、誰かに理解されたいとも思わない。 
 他人の顔色をうかがいながら愛想笑いを振り撒くよりも、いつだって己の気持ちに正直でありたい。
 常に周囲の人たちに合わせてばかりいる人間をつまらないとは思わないけれど、後悔するような、そんなつまらない人生だけは送りたくない。
 卓登も邑夢も社会から軽蔑されるような犯罪者ではないのだから、堂々と胸を張り、堂々とした立ち振る舞いで毎日を有意義に過ごすほうが絶対楽しいに決まっている。
 愛する人や大好きなことに無我夢中になれるのは、それはある意味とても幸福なことであり、それに巡り会えただけでも奇跡であり、卓登も邑夢もただ純粋に、平穏でありふれた日常生活を謳歌したいだけなのだ。