新しい教室といっても、それは言わばおさがりだ。
 始業式が終わり、三年生に進級した響は年々劣化していく教室の窓から満開に咲いている桜をぼんやりと眺めていた。
 桜吹雪は〝あの日〟を連想させる。
 かぎりなく白に近い桃色の花弁は、儚げで脆く、尊いものだ。
 土台は太くしっかりと地面に根付いているのに、一夜にして何枚もの花弁が枝から飛ばされて踏まれていく。生命力はあるが短命だ。
 あれから響はそれとなく何度かあの公園に足を運んだ。ブランコに座り、意味も無く揺らしたりもした。
 響が自分の連絡先だけを教えるのではなく、卓登の連絡先も聞いておけばよかったと思念しはじめた頃、公園付近にある自動販売機も温かいお茶から冷たいお茶へと変わっていった。
 それなりに寒い日は続いたが、あの日以降、雪が降ることはなかった。

 二年生、三年生は今日から新学期だが、一年生は先日、入学式を済ましている。
 響は登校するなり緑色のネクタイを探してしまう。
 白いスクールシャツに灰色のブレザー。オリーブ色に薄茶色と焦げ茶色、そして紺色を織り交ぜたグレンチェック柄のズボンは全校生徒同じだが、ネクタイの色は学年別に異なる。
 三年生は赤、二年生は青、一年生は緑で、そこにズボンと同じ薄茶色、焦げ茶色、紺色、そして白とスカイブルーの五色カラーを組み合わせた斜めストライプ柄だ。
「また四人とも同じクラス。一年からずっとクラスが一緒なんてすごくね? このままおれたち四人で一緒に墓にでも入っちゃおうか?」
 自分の机の上にお行儀悪く座る藤畑(ふじばた)惺嗣(さとし)が意気揚々と黄泉の国への旅行を語る。
 今朝、響とバス停で会うなりライトブラウンに近い亜麻色に染めた髪をかき上げて、左耳に四つ、右耳にも四つ付けているピアスを見せびらかしてきた。
 春休みに購入した物で、身に付けるのは今日が初めてのことらしい。
 惺嗣の新しいピアスに峰伊(みねい) (こずえ)はお世辞ではなく褒めに褒めたが、岡島(おかじま)埜亜(のあ)は不満を連発した。
 埜亜は惺嗣の買い物に付き合わされたあげく、散々歩きまわされたために、それがかなりの労力だったらしいのだ。
「惺嗣の買い物、長くて疲れるからもう嫌だ! ボク、もう惺嗣とは一緒に遊ばない!」
「なんだよお。花と蝶々のヘアクリップを買ってやっただろお。しかも星形のヘアクリップも欲しい! 欲しい! と言って駄々こねるから、それも買ってやったのを忘れたのかよ!」
 惺嗣が埜亜の黄金色の前髪を留めている蝶々の形をしたヘアクリップを外した。そして代わりに自分自身の手で埜亜の前髪をひと掴みする。
 惺嗣はふざけたお遊びでやっているだけで、埜亜の髪を本気で強く引っ張ってはいない。
 それなのに埜亜は「痛い! 痛い!」と仏頂面をして大袈裟に騒ぐ。本当は痛くも痒くもないくせに。
 惺嗣より十センチ以上も背の低い埜亜は、いつもこうして惺嗣にいじられる。
「仲良いな」と言えば、二人して全否定するものだからおかしな話だ。
 埜亜は響と同じく百六十センチに満たない低身長だ。
 同じコンプレックスをかかえる者同士、響と埜亜は二人で密かに同盟を組んでいたりもする。どうしたら身長が伸びるのか日々追求しているのだ。
 そんな響と埜亜の二人も身体測定のときだけは張り合う。まさに、どんぐりの背くらべだ。
 響と埜亜の違うところは、埜亜は可愛い小物類や衣服を好む。
 髪にはいつもなんらかしらのヘアピンやヘアクリップ、ヘアゴム、カチューシャを付けており、女性客しか足を運ばなそうなお店にも堂々と入店し、堂々と試着して、堂々と購入する。
 メンズものよりもレディースもののサイズのほうが埜亜の身長と体型に合うのも理由の一つではあるのだが、埜亜いわく女性ものの衣服はデザインがお気に入りなのだと言う。
 これがまた、どれも埜亜には似合いすぎるものだから大絶賛せずにはいられないのだ。さすがにスカートまでは購入しないが……。
 埜亜は女装? をする己の姿に抵抗はないが、心はいたって男であり、埜亜のファッションセンスの良さはみんなが認めている。
 学校の制服もブレザーではなく、ニットカーディガンを着用してくるくらいだ。これまた可愛いレディースもので、胸元にはバッジが七個装飾されている。
 惺嗣と埜亜がじゃれあいながら口喧嘩をする隣で眼鏡を外したり付けたりを繰り返している梢に、響が「どうかしたのか?」と声をかけた。
「レンズを新しく変えたから、まだ慣れてないんだ。すぐ慣れると思うから大丈夫」
 梢は瞳が隠れるほどの黒々とした長めの前髪をかきあげながら、無気力に返答した。
 人見知りをするというわけではないが、梢は必要以上に自分のことを話さない。
 たずねられたら答えはするが、惺嗣のように自己アピールをするタイプではない。
 交友が面倒くさいとか、友達を信用していないとか、ないがしろにしているのではなく、自ら進んで会話に交ざりこそはしないが友人たちの華やかで他愛のないお喋りを静かに聞いて楽しんでいる。
 狭く深い友情を好み、そういった関係を大切にしている無口な梢は、響、惺嗣、埜亜以外のクラスメイトの前ではさらに無口になる。
 それでも梢には何かと口実をつけて話しかけてくるクラスメイトが多数いた。
 その多くは女子で、女子たちはなんとしてでも梢と会話できはしないかと挑み続けるが、毎回どれも一言、二言で終わってしまい長時間にはならない。
 梢は男として生まれ持った容姿端麗を活用した試しがない。
 そのため惺嗣からよく、
「おれが梢だったら女に声かけまくるけどなあ。そうじゃなくてもおれは声かけてるけど。梢ってイケメンじゃん。背も高いし。もったいねーよ。梢、今度試しに街でナンパでもしてみたら? 梢なら絶対、女が喜ぶって! つーか、おれと一緒にナンパしない? 合コンしない?」
 と言われるが、埜亜から、
「梢を惺嗣と一緒にしないでよ!」
 と言って怒られる。
 小学生の頃から梢を見てきた埜亜は梢の性格を熟知しており、梢の寡黙はむしろ居心地が良いのだ。
 眼鏡のフレームもシンプルかつ落ち着きのあるデザインで、梢の少々高めで形の良い鼻の上に乗る眼鏡も梢に使用されていることに誇らしそうだ。
 響は惺嗣とは小学生の頃からの腐れ縁で、梢と埜亜は高校に入学してからの友達だ。
 友情を大切に育む発言とは裏腹に、惺嗣が手に持つ雑誌は教師から没収されそうな卑猥な物品だ。
 惺嗣は自分を上目使いに見つめる水着姿のグラビアアイドルの胸元の谷間に頬ずりをしているが、どうやら直に触れない虚無感が増すばかりなのか、それはとうとう悲鳴をあげた。
「彼女ほしいよおー! ベッドの上で真っ裸になって、毎日、毎日、イチャイチャしてえぇー!」
 惺嗣のこうした教室内での節操のない絶叫はいつものことだ。
 響はもう慣れてしまっているが、クラスメイトの女子たちからは軽蔑の視線が容赦なく突き刺さる。
 以前、こうした性欲的な話は内輪だけで話そうと響は惺嗣に言ったこともあったのだが、
「こういうのは隠すと余計にエロいんだよ。それに女も男と同じようなことを考えているもんなの。男も女も関係ないの。高校生はみんなエロいの」
 と、論破するように言われてしまい、響が妙に納得してしまってからというもの惺嗣の欲求不満はエスカレートするばかりだ。
 女心に疎い惺嗣にはなかなか彼女ができず、できたとしても長くは続かない。
 今まで付き合ってきた歴代彼女たちでも、最長半年だ。
 そして、いつも惺嗣のほうがフラれる。
 うるさい。落ちつきがない。デリカシーがない。
 フラれる理由は大抵この三拍子だった。
 惺嗣はフラれると、響、梢、埜亜の三人に泣きつき、鼓膜が破れるほどの大号泣は深夜にまで及び、三人は必然的に徹夜をするはめとなる。
 良く言えば一途で純粋な男。
 悪く言えば女々しい男だ。

 雑誌を通して自己の慰めをしている惺嗣は響のことを羨ましく思う。
「響には年上の美人な彼女がいるもんなあ。良いよなあ」
「彼女とは別れた」
「へ?」
 惺嗣の驚きの返事と共に、梢と埜亜も黙ったまま響のほうに視線を移す。
 真弓と別れてから二カ月近く経つが、響は今、友人たちに初めて聞かせた。
「別れたんだ」
 そしてもう一度声に出すことで、苦い過去と決別して、もう二度と振り返らないと決めたのだと意思表示した。
 それよりも、今の響には別の恋愛事情で頭の中がいっぱいになっており、それは決着がつくのかどうかさえ難儀なものだ。
「……まあ、女なんてたくさんいんだし。そーだ! 今日、学校が終わったらみんなでカラオケ行かね? パーッと歌って騒ごうぜ! おれと梢、埜亜が奢るからさ!」
 友人を振りまわすだけ振りまわす身勝手な惺嗣ではあるが、なぜか憎めない。
 それは落ち込む友人を励ますために友人を振りまわす身勝手な男でもあるからだ。
 今日の梢と埜亜は財布の中身が豊富ではない。
 金銭の相談もなく勝手に奢るメンバーに入れられても、梢と埜亜は不平を何一つこぼさない。
 惺嗣の友達想いの深さはまさに称賛に値するほどだ。
「良いね、行こうか。響も行くよな?」
 梢が席を立ち、響の隣で響と一緒に日向ぼっこをしながら響に笑いかける。
 梢の低く大人びた声がこそばゆくて、響は満面の笑顔で頷いた。
 百八十センチ以上の長身である梢に隣に立たれても嫌味に感じない。響は梢に対しては卑屈にならない。
 梢は惺嗣の提案したカラオケに参加するために、今日のバイトは仮病を使って休むと決めた。
「響、カラオケでボクとデュエットしよ。ボクは響と同盟を組んでいるから、響とずーっと、ずーっと一緒にいるよ。ジャンボパフェを一緒に食べようよ」
 埜亜も響の隣に立って、響を元気づける。
 響は今、この友達三人となら本気で一緒のお墓に入りたいと心の底から願った。素直にそれが一番の幸福なのだと信じられた。
 しかし、そんな美しき友情のお墓で永眠することを許してくれない年下の男の存在が響のすぐ近くまで迫ってきていた。
 その年下の男も響と同じお墓に入り、響と永眠することを切望している。

「ねえ! ねえ! 今、廊下ですっごくかっこ良い一年の男を見つけちゃった!」
 三年生に進級してから初めて同じクラスになった顔も名前もうろ覚えなクラスメイトの女子が教室に入ってくるなりはしゃいだ声をあげた。
 埜亜がその女子のことを、
「ボク、あの人キラーイ。化粧と香水がやたら濃くて気持ち悪いんだもん。吐き気がしそう」
 と言って、毒づいた直後、
「笹沼ぁー。一年の男が呼んでるぞー」
 教室のドアに一番近い席に座るクラスメイトの男子の横から姿を現したのは──。
「あの子だよ! さっき廊下ですれ違った超かっこ良い一年男子!」
 ネクタイの色は学年別に違うため、卓登が一年生だということは一目瞭然だ。
(ふーん。卓登ってモテんだな)
 ネクタイの似合う卓登に対して響はちょっとした皮肉を込めて嫉妬した。
 この嫉妬はいったいどういう意味の嫉妬なのだろうか。
 あみだくじの先に待つ答えが開封されてしまう日が訪れるのを、響は内心非常に恐れている。
「すみません。教室まで来てしまって……」
「いや、良いよ」
 正直、響はこうして卓登が教室まで会いにきてくれたことが嬉しかった。
 卓登から連絡がなくて、響自ら一年生の教室に赴こうかなとまで考えていたくらいだ。
 卓登を見つめるクラスメイトの視線がわずらわしい。
 特に男の外見や収入だけで騒ぐ女の浅はかさ加減に。
 しかし、男も女のスタイルや体の相性具合に点数をつけたりするのだからお互い様なのだ。
 卓登は響を嘲笑ったあの大人な青年とは違う。偏見だと自認してはいるが、それでも響はネクタイの似合う男が好きにはなれない。
 響は卓登を誰の目にも届かない場所へと連れて行こうとする。
「ちょっと場所を変えようか」
「はい」
 響の後ろを歩く卓登は初めて見る響の制服姿に高揚してしまい、終始見惚れていた。
 そして響のその姿をガラス玉よりも綺麗な瞳の奥深くに焼きつけて、何度も確認するかのように心の中のアルバムに永久保存した。