二月も下旬に近づいた頃、寒空の下を歩く笹沼(ささぬま)(ひびき)は胸踊らせていた。
 外の気温は低下する一方でも心の中の情熱は炎のように燃え盛っている。
 体のほうは温まってくれないが、それもさほど気にならない。
 響がコートのポケットの中に手を入れる。寒いからではない。たしかに手は冷えてきているが温もりを求めて体温上昇するよりもほかに理由がある。
 響の冷えた指先がコートのポケットの中で眠る小箱にコツンと当たる。
 当たるたびに響は頬をゆるませながらわずかに唇を開き、その喉奥から白い息を吐き出して声は出さずに笑みをこぼした。
 手袋はしない。直に触れて、素肌で感じて、その存在を確かめたい。
 帰宅したら一旦は机の引き出しに仕舞うものの、結局は気になってしまい何度も取り出しては眺めてしまうであろう映像が響の脳内に投影された。
 地肌を突き刺すような冷たい風に、街中を往来する人たちは少しでも寒さを凌ぐためにマフラーを巻き直したり、暖房のきいた場所を求めて足早にコンビニに入る者もいる。
 朝早く自宅を出たにもかかわらず、何軒ものジュエリーショップを歩き回るうちに響の頭上で高く昇っていた太陽が今は姿を消して月明かりとなっていた。
 その柔らかい月の光がアスファルトを美しく照らしている。
 そんなに長時間、出歩いていたのかと響は思ったが、これはそれほど真剣に悩む大切な人への贈り物なのだ。
 ちらほらと見えはじめた星の明かりは、宝石のかがやきに見えるほどの美しさだ。
 響の手元にも今、宝石が有り、キラキラといった光り物の音楽が聴こえてきそうだ。
 そこまで高価な品物ではないが、連日のバイトで稼いだお金をその宝石一つにつぎ込んだ。
 もうすぐ、響の彼女が二十一歳の誕生日を迎える。
 彼女と付き合いはじめてから、彼女の初めての誕生日だ。
 キザ男を気取るつもりはないが、やはりここはかっこつけたい。
 男なら誰もが一度は考えるであろう彼女への贈り物はアクセサリーだろう。
 そして響も安易ながらネックレスというアクセサリーを選んだ。
 数日後ではなく、一刻も早く彼女にプレゼントしたくてたまらない。
 四つ年下という(しがらみ)がいつも響を歯痒くさせていた。
 プレゼントは質よりも心が込もっている物のほうが大切だというのもわかるが、たまにはこうやって背伸びをしてみても良いではないか。

 浮かれた歩調でいる響の目の前を華奢な背格好をした女性が横切った。
 その女性はかなりの美人で、ベージュ色に染めた髪には軽くパーマをかけており、滅多に着装することのないお気に入りのコートに購入したばかりのスエードブーツを履いている。
 その綺麗な女性はスーツを着用した男性の腕に自分自身の腕を絡ませて歩いており、停めてある車に乗るところだった。
 おそらく男性の車だろう。
 そして、その男性から助手席に座るようにエスコートされている。
 男性のほうも外見はかなりの好青年だ。
 響がそんな美男美女の二人から目が離せないのは、お似合いの恋人同士だなと思ったからではない。
 美女のほうに一目惚れとか、そんな理由でもない。
 今朝から今の今まで、ずっとその人物のことで頭がいっぱいだった響はすぐさま名前を呼んだ。
真弓(まゆみ)!」
 まさか知り合いと遭遇するなんて思いもしていなかった女性が、突然自分の名前を呼ばれて驚き、振り返るとそこには年下の彼氏が走り寄ってきていた。
「真弓、この人、誰?」
 勘違いかもしれない。
 だけど男と女が腕を組んで歩くのは特別な関係だとしか響には思えない。
 友達。兄。弟。姉。妹。
 こういった、身内の関係とは違った意味での特別にしか見えない。
 だからこそ、響はお似合いの二人だなんて絶対に認めたくはない。
 真弓と呼ばれた女性は腕を組んでいる男性と年下の彼氏を気まずそうに交互に見るが、それも数秒間だけのことで、その直後、冷淡に開き直った。
「世間て狭いのね。まさか、ここで響と会うなんて」
 真弓から響へと向けられた態度は、普段、響の知る真弓とはまるで異なり、それは頬に当たる夜風よりも冷たいものだった。
 響は最悪の事態を想定したが、それを頭の片隅から強引に吹き飛ばす。
 コートのポケットの中で眠る、真弓へプレゼントするネックレスが無駄になってしまうであろうカウントダウンが動きだしたのを停止させたい。
 響は結果を恐れつつも、もう一度たずねる。
「誰なんだよ?」
「誰って、私の彼氏よ」
 真弓の発言に響は己の聴覚を疑った。
 信じたくはない。空耳だったと思いたい。
「彼氏って……ちょっと待てよ! 真弓の彼氏はオレだろ!?」
 道行く人々から男女の間に発生した揉め事に好奇心の視線を向けられても、今の響にはそんな野次馬などの存在はどうでもいい。
 真弓はというと、野次馬だけではなく響のこともどうでもいい扱いをする。
「響、ごめんね。私と別れて」
「は? なんだよそれ。突然別れ話をされたって、こっちは全然納得いかねーよ!」
 周囲の人たちから注目の的にされて、これから修羅場が勃発しそうなほどの怒り声をぶつけられても真弓は少しも取り乱さない。
「高校生の男を本気で相手にするわけないでしょう。バイトしているくらいで、バイト代だってたいした金額じゃないだろうし。それに毎回デートも安っぽくてつまらないのよ」
 痛いところをグサリと言われて、立ちくらみを起こしたかのように響の足元がぐらついた。
 それは、いつも響が苦悩しているわだかまりだった。
 真弓は成人。響は未成年。
 響は車の免許も持っていない。
 カラオケ。映画。ショッピング。
 響と真弓がするデートはこういった場所ばかりだった。
「響のほうこそ、どうせ年上の女とエッチしていることを得意気になって同級生に言いふらしたりして大人ぶっているんでしょう。高校生くらいの男が考えそうなことよね」
 家族と一緒に生活している響にとって、真弓を自宅に呼びたくても家で二人っきりになれる機会があまりなく、真弓とする営みのほとんどが一人暮らしをしている真弓の部屋だった。
 それに実際、響は真弓の存在を、年上の彼女の存在を、同年代の女とはなかなかできないような少し過激な内容を友人たちに赤裸々に話していた。
 みっともなく自慢していた。

 真弓の隣に立つスーツの似合う長身の青年は少年の響を鼻で笑う。
 憎たらしいその男に何か言ってやりたい響だが、人生経験の〝差〟にはどう足掻いても敵わない。
 しかも真弓と並んで立つその姿がとてもバランスが良く、絵になる二人だからこそなおさら悔しい。
 響の身長は約百五十七から八センチほどで、百五十五センチより少し低めの身長である真弓と並んだらそんなに身長差はない。
 真弓がヒールの高い靴を履くと、響と真弓はほぼ同じ身長に見えてしまう。
 身長が低いことは響の大きなコンプレックスの一つではあるが、響には好意を寄せてくる女の人がそれなりにいた。
 響は女顔負けの美しく端整な目鼻立ちをしており、頭髪は耳が見え隠れするくらいの長さでうっすらと栗色に染めている。そんな響の髪は念入りに手入れをしているわけでもないのに、はねていたことがまったくと言っていいほどになく綺麗にまとまっている。
 それに加えて性格も社交的で人当たりも良く、学校では男友達も女友達も多い。
 真弓のように身長が百六十センチに満たない低身長の女子生徒たちから友達以上の関係を求められて告白をされることも度々あり、同級生だけではなく先輩後輩からも人気が高かった。
 真弓もそんな響の目鼻立ちの良さと、おまけに童顔という可愛らしい容姿に目をつけた。
 ただ、それだけだった。
「まあでも半年ちょっと、〝おままごと〟もけっこう楽しかったわ」
 真弓が自分自身の髪を耳にかきあげながら、響とのこれまでの関係に終止符を打ちたいと言い捨てる。
 一方的に別れを告げられて、真弓との関係を終わりにされた響の悲しみはさ迷い、すがる場所もない。その権利さえも放棄された。
 響が軽く息を吸い込んだだけでも肺が悲鳴をあげる。
 最終的には冷気だけで凍え死にそうなほどの深い暗闇が響の心にも広がる。
 指先と唇がふるえるのは怒りからくるものなのか、悲しみからくるものなのか、寒さからくるものなのか、それすらも響にはよくわからず、考えようとする頭の働きも停止した。
 自動車は美男美女を乗せて何事もなかったかのように走り去る。
 響はただ一人、この場所に取り残された。
 第三者から口々に言われる同情も見せ者として嘲笑っているだけで、誰も傷心の響の心配などはしていない。
 もはや誰一人の声も今の響の耳には届かない。誰一人の姿も今の響の瞳には映らない。
 空はどんどん暗くなり、風もどんどん強くなり、響の心も一瞬にして暗闇になるなか、ネックレスだけが響のコートのポケットの中で虚しくかがやいていた。
 今か今かと、永遠に訪れてはこない麗しい首に装飾される日を夢見ながら──。