僕はこの瞬間、絢乃さんに一目ぼれしたのだ。まだどこの誰なのかも分からずに――。
 たったの数ヶ月前、あんなひどい仕打ちに()ったのに。「もう恋なんてしない」と心に誓ったことさえなかったことになるくらい、ごく自然に彼女に惹かれた。

「――ねぇ、そこのあなた。さっきウチの絢乃と見つめ合っていなかった?」

「…………ぅおっ!? は、はいぃぃっ!?」

 後ろから落ち着いた女性の声がして、僕は思わず飛びずさった。……ん? 待てよ。今、「ウチの絢乃」って言わなかったか、この人?

「あ……、奥さまでしたか。取り乱してしまって申し訳ありません。僕は篠沢商事総務課の、桐島貢と申します」

 僕に声をかけてきたのは篠沢会長の奥さま、加奈子(かなこ)さんだった。「奥さま」とはいっても彼女が実質篠沢財閥のドンで、会長が婿養子だったというのは社内でも有名な話だったのだが。

「あら、あなた社員だったの。桐島くんね。――上司の島谷さんは? 姿が見えないようだけど」

「ああ、実は僕、課長の代理なんです。島谷は今日、急に都合が悪くなったとかで……」

 あんな人でも上司だったので、僕は彼の顔を潰さないよう上手く言い(つくろ)った。

「あらそう。宮仕えも大変ねぇ。まぁ、ウチの夫も結婚前はそうだったから、私も気持ちはよぉーーく分かるわ。サラリーマンって大変よねー」

「…………はぁ。――ところで、先ほど『ウチの絢乃』とおっしゃっていませんでした?」

「ええ。さっきの子、私とあの人の娘なの。名前は絢乃。今十七歳。私立茗桜(めいおう)女子の二年生よ」

「へぇ……、高校生なんですか。大人っぽいですね」

 絢乃さんがまだ高校生だったと聞いて、僕は驚きを隠せなかった。服装や髪型、メイクのせいだろうか。それとも彼女の持つ雰囲気のせいだろうか。実年齢よりずっと大人に見えていたのだ。

「そうよー、まだ未成年。だからたぶらかしちゃダメよ」

「しませんよ、そんなこと!」

 僕は相手が会長夫人だということも忘れて吠えた。恋愛にトラウマを持つ人間がそんなことをするわけがないじゃないか!

「でも、あの子に一目ぼれしたでしょう? あなた」

「……………………」

 それは思いっきり図星だった。そんな僕の反応をご覧になって、加奈子夫人は楽しそうにニヤニヤ笑った。

「ところで、あなたお酒は飲まないの?」

 彼女は僕が手にしていたウーロン茶のグラスに目を留めて、首を傾げた。

「ええ、まぁ……。元々そんなに飲める方ではないんですが、マイカー通勤しているもので」

「そう。じゃあ、今日もクルマで来てるわけね」

「そうですが……」