「分かりました。そういう事情でしたら、僕も絢乃さんのためにひと肌脱ぎましょう。……あ、ですが一つ問題が」

 僕は二つ返事で承諾しようとしたが、肝心なことを忘れていた。社会人である僕と高校生だった彼女とでは生活パターンが違ったのだ。絢乃さんを学校帰りに迎えに行くということは、僕は会社を早退しなくてはならないということだ。僕が仕事を終えるまで彼女に学校で待ってもらうわけにはいかないのだから。
 そのことを加奈子さんに伝えると、「そのことなら心配要らないわよ」という返事が返ってきた。

『あなたが会社を早退するかもしれないことは、もう室長の広田さんに伝えてあるから。あなたが仕えるべきボスは絢乃なのよ。だからそこは気にしなくてよろしい』

 なんと、いつの間にそういうことになっていたのか。さすがは元教師の加奈子さん、色々と手回しのいいことで。

「つまり、根回しもバッチリというわけですね。分かりました」

『ま、そういうことだからよろしくね。あ、そうだ。あなたが部署を変わったこと、まだあの子には話してないわよ。あなたもまだ伝えてないでしょう? でも、私から伝えるのもおかしな話だものね』

「……そうですか」

『じゃあ、とにかくそういうことで。そろそろ失礼するわね』

 僕も「はい、失礼致します」と言って通話を終えたが、小川先輩が怪訝そうな顔で僕を見ていた。

「…………先輩、何ですか?」

「桐島くんさぁ、絢乃さんにまだ異動したこと話してないの?」

「はい。別に隠しているわけじゃないんですけど、何ていうか……。俺が部署を変わったって聞いたら、絢乃さんはきっと理由を知りたがるじゃないですか。でも、その理由を話したらきっと、あの人はお父さまの死が近づいていることをイヤでも意識してしまうんじゃないかと思うと……」

 せっかく前向きに、お父さまの残された命の期限と向き合うようになった彼女の明るさを、そんなことで奪ってしまいたくなかった。

「でも、いつかは話さなきゃいけないっていうのはあなたも分かってるんだよね?」

「それは分かってます。ただ、今じゃないかな……って。あくまでタイミングの話で」

 こういう大事なことは、言うタイミングを間違えると相手に大きな誤解を招いてしまう。――これはあくまで僕個人の経験から学んだことだが。
 いよいよお父さまの死期が迫ってきたというタイミングで言わなければ、僕が源一会長の死を望んでいるのではないかというあらぬ疑惑を絢乃さんに抱かれる恐れがあったのだ。もちろん、彼女がそういう人ではないことは僕にも分かっていたが、いかんせんこういう時にも女性不信が出てしまうのが、僕の()まわしい部分でもあった。

「それってさぁ、ただ単に絢乃さんに嫌われたくないだけなんじゃないの?」

「…………うー」

 小川先輩の指摘は、僕の痛いところに思いっきりクリティカルヒットした。自覚があっただけに、反論の余地もない。