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「――む? ケータイ鳴ってる。……あ、俺のだ」

 スーツの胸ポケットからスマホ(ちなみにカバーなどは着けておらず、裸のままだ)を取り出して画面を確認すると、登録していない携帯番号からの着信だった。
 横から覗き込んでいた小川先輩が「あ」と声を上げた。

「桐島くん、電話出なよ。これ多分、奥さまの番号」

「……へっ? ――はい、桐島……ですが」

『ああ、桐島くん? 私、加奈子です。分かるかしら』

 通話ボタンをスワイプすると、果たして発信者は会長夫人の加奈子さんだった。でも、僕はあの人に連絡先を教えた記憶がない。一体どうやってこの番号をお知りになったんだろう? 

「はい。ですが、よくこの番号がお分かりになりましたね」

『絢乃から聞いたのよ。この先、私からあなたに連絡を取らなきゃいけなくなることもあるだろうと思って。――お仕事中にごめんなさいね』

「ああ、いえ。――どうされました?」

 ちなみにこの頃、加奈子さんはすでに僕が秘書室へ異動していたこともご存じだった。小川先輩から伝え聞いていたのだという。

『あの子のことで、あなたにお願したいことがあるのよ。……多分、あなたにしか頼めないことなの。もちろんあなたには断る権利もあるし、無理にとは言わないけれど』

「僕にしか頼めないこと……ですか?」

 それも愛しの絢乃さん絡みだという。加奈子さんもおっしゃったとおり、僕にはお断りする権利もあった。が、絢乃さん絡みだとすれば僕には断る理由がなかった。

『ええ。桐島くん、本当に、ムリに引き受けなくてもいいのよ? あなたも部署が変わったばかりで大変なのはこっちも重々承知しているから――』

「いえ、ぜひともお引き受けします! ――で、僕は一体何をすればよいのでしょうか」

『あのね、これから時々でいいの。学校帰りの絢乃を、あなたのクルマでどこかに連れ出してあげてほしいのよ。あの子いま、学校と家の往復しかしてないから、気が滅入ってると思うの。だから時々、気分転換のつもりでドライブにでも、と思って』

「えっ、そうなんですか?」

 僕はそれまで、絢乃さんの生活パターンについて聞いたことがなかった。加奈子さんのお話によれば、お父さまが倒れられるまでは放課後にお友だちと連れ立って、お茶やショッピングくらいはしていたのだというが、それどころではなくなっていたらしいのだ。お友だちも彼女の心情を(おもんばか)って遠慮していたのだろう。
 何とも優しくて真面目な彼女らしいとは思ったが、そんな彼女にも多少の気分転換が必要だというのは僕も同感だった。