――もうすぐ自由が丘。絢乃さんの家に着いてしまう。彼女との楽しかった時間ももうすぐ終わり、僕はまた課長にこき使われる現実に戻ってしまう。まるで童話のシンデレラのように、魔法が解けてしまうのだ――。
 ……俺はこのまま、何のアクションも起こさずに彼女との接点を失ってしまうのか? 元々はセレブ一家に生まれ育った彼女と、普通よりちょっとばかりいい家に育った僕とでは住む世界が違った。この夜の出会いは、奇跡のようなものだったのだ(だからといって、僕にこの出会いをもたらした島谷氏に感謝する筋合いはなかったのだが)。
 だからせめて、彼女と連絡先の交換くらいはしておかなくては。源一会長の病状も気になっていたし、情報交換のためにもそれくらいは許されるはずだ。……彼女がそれに快く応じて下さるかどうかは別として。

 絢乃さんをクルマから降ろしたら、僕の方から切り出そうと思っていた。

「今日はお疲れでしょう。ゆっくり休んで下さいね」

「うん、ありがとう。――あ、桐島さん。あの…………」

 でもなかなか言い出せず、半ば「もう無理だ」と諦めながら運転席に戻ろうとしていると、彼女の方から引き留められた。

「連絡先……、交換してもらえないかな…………なんて」

 まさかの展開に気持ちが逸り、僕は食いぎみに「いいですよ」と答えてしまった。期待していたと思われたらどうしよう? 彼女、引くかもしれない……。
 でも、そんな僕の心配は()(ゆう)だったようで、彼女は嬉しそうにスマホを取り出して僕との連絡先交換を済ませてしまった。
 絢乃さんはその後も「ウチでお茶でも」と誘って下さったが、「明日も仕事があるので失礼します」とお断りした。これ以上期待してはいけない、裏切られた時のダメージが大きいから。
 それなのに、僕は「連絡、お待ちしています」とポロッと言ってしまった。それは、お茶を断られた彼女が落胆しているように見えたからだ。でも、この言葉にはうろたえながらも嬉しそうに頷いて下さった。

 クルマに乗り込んだ僕は、しばらくシートの上でスマホを見つめていた。――もう女性を信用しないと決めた。けれど。

「もう一度、信じてみようかな……。せめて絢乃さんのことは」

 初々しく頬を染めながら、嬉しそうに僕とアドレスを交換してくれた彼女にはそれだけの価値があるのかもしれない、と僕は思ったのだった。