浴室から響くシャワーの音に心地良さを感じながら、ヒデはベッドに身を投げ目を閉じた。下着だけでシーツの上に寝転がると、ひんやりとした感触がシャワーの熱を冷まし、うっかり微睡みへと堕ちそうになる。ホテルに来るなんて久しぶりだ……そんなことを思いながら、眠い目を擦って体を起こした。
浴室ではサアヤがシャワーを浴びている。
一緒に浴びようと誘われたが断った。ふくれっ面で「それじゃ、先に浴びてきなさいよ」と、彼女はヒデを浴室へと押しこんだ。
あっという間にシャワーを終えて出てきたヒデに「まるでカラスの行水ね」と呆れながら浴室に入ったのが、もう三十分も前のことになる。シャワー待ちのこの時間は、手持ち無沙汰で苦手だ。
ようやくシャワーの音が止む。
しばらくするとバスローブをまとったサアヤが、浴室から姿を現した。
「あら、ローブ使わないの?」
下着姿でベッドに座るヒデを見て、不思議そうに訊いた。そしてバスタオルで髪を拭きながら、鏡の前へと進んむ。
「なんか恥ずかしくて。それ」
旅館の浴衣には抵抗がないのに、ホテルのバスローブは気恥ずかしくて着る気がしない。なぜなのか解らないが、ヒデはバスローブが苦手だった。
「誘ってるの? パンツ一枚で」
「違いますよ」
「じゃ、腹筋自慢とか?」
鏡台の脇にドライヤーを探りながら、ヒデの体を見詰める。
「見ないでくださいよ。恥ずかしい」
バスタオルを肩にかけて体を隠す。視線を避けるように体をかわして、ベッドから立ち上がる。そして冷蔵庫から缶ビールを取りだして、サアヤに向かって掲げる。
「飲むんでしょ?」
「ありがと。気が利くね」
プルトップを引くと、小気味のいい音が響いた。泡があふれそうな缶を手渡すと、サアヤは喉を鳴らしながらビールを流し込む。
「お風呂上がりのビール、最高だわ!」
音を立てて鏡台に缶を置く。
「美味しいんです? それ」
「あら、ビール飲んだことないの!?」
驚いたように、サアヤが声を上げる。
「俺、まだ高校生ですからね」
「あらあら。最近の学生は真面目なのね……」
「お酒は二十歳になってから、ですよ」
わざとらしい言葉に、サアヤが苦笑する。
「おこちゃまヒデくんも、早くお酒が飲めるようになるといいでちゅね」
決して法律で禁じられているから飲まない訳ではない。単に飲みたいと思わないだけだ。タバコだって同じだ。シドやサアヤが旨そうに煙を吐いているところを見ると、ヒデとて興味を惹かれない訳ではない。しかし吸ってみたいという気持ちは、まるで湧いてこないのだった。
サアヤに言わせると、単なる習慣でありファッションなのだそうだ。シドは何と言っていただろうか。バンドマンの嗜みだとか何だとか。意味が解らないと、笑い飛ばしていたような気がする。
サアヤがドライヤーの冷風に長い髪をさらす。合間にビールをあおる彼女の姿を、器用だと感心しながら鏡越しにながめる。長い時間をかけて、冷風で髪を乾かしていく。髪が長いと大変だ……そう思いながら、ヒデは自然に乾くに任せている自分の髪に手をやった。
「さぁ、少し早いけど寝るかね!」
髪を乾かし終わったサアヤが、すっくと立ち上がる。
「なんで寝るのに、気合い入れてるんですか」
「初めての子とベッドに入るんだから、恥ずかしいじゃないの。気合が要るじゃないの」
「いい歳して、乙女っすか」
「女性はね、いくつになっても乙女なのよ」
サアヤが隣に座り、ヒデの腰を抱く。
「それとヒデくん……」
「なんでしょ?」
爪の先が食いこみ、ヒデは鋭い痛みを感じた。
「つぎ歳の話したら、ぶっ飛ばす!」
「あ、はい。サーセン……」
二人して笑い転げながら、シーツの隙間にもぐりこむ。
右腕で彼女の肩を抱き、そのまま腕枕をする。
「ねぇ、ヒデくん。チューして」
サアヤが目を閉じて、アゴを突きだす。
シーツの中で隠れるように、請われるままに唇を重ねた。
唇が触れた瞬間、少しだけこわばる体。
口づけの後、恥ずかしそうに伏せるまつ毛。
そして頬を赤らめながら、指先をそっと唇に添える仕草。
全てがあざとく思え、そしてそのあざとさを好ましいものとして感じた。
ヒデは「歳上とは思えないほど可愛いですね」と軽口を叩こうと思って止めた。耳元で一言だけ「可愛い」と囁く。サアヤはさらに頬を染め、両手で顔をおおって恥じらった。
やがて彼女の右手が、ヒデの体をなぞり始める。応えてサアヤの長い髪を撫でる。指の間をすり抜けていくシットリとした感触に、シャワーの痕跡を感じながら。
「ねぇ、本当にしないつもりなの?」
「そういう約束ですよ」
「普通は我慢しきれなくなって、襲ったりするもんでしょ?」
「俺の恋愛対象、男ですからね」
話をしている間も彼女の指先が、腕を、胸を、背中を、上半身のいたる所を撫で回していく。そして背中から腰をなぞり、下半身へと到達する。
「でもこっちは、準備オッケーみたいよ?」
「にぎらないでくださいよ。物理的な刺激に、反応してるだけです」
「アタシ、後腐れないよ? 今日だけ……ダメ?」
「余計に無理ですね」
「うーん、意外と真面目だな」
サアヤがシーツの中で頭をもたげ、ヒデの顔を覗き込む。
「じゃぁさ、エッチの代わりに恋話きかせてよ。恋話」
「なんですか、それ……」
「いいじゃない。好きなのよ、他人の恋愛話」
「ろくな恋愛してませんけど……」
「なんでシドくんと別れちゃったの? あんなに仲よかったのに」
「あー。それ訊いちゃいますか」
「なによ。ダメ?」
「かまいませんけどね」
煙草の煙でも吐き出すかのように、ゆっくりとヒデが息を吐く。
「シドさんモテるじゃないですか。来る者は拒まずの人ですし。男女かまわず……ね」
「それで、ヤキモチ焼いて別れちゃったの?」
「いや、言っときますけど、俺もモテますからね」
言ってしまってから後悔した。モテたからなんだというのだ。そういう人間関係が嫌で、全て精算したというのに。
「知ってるよ。ヒデくんがモテることくらい」
ヒデの腕の中、サアヤが優しく微笑みを向ける。
「シドさんに当てつけるように、いろんな人と付き合ったんですよ。でも、さすがに疲れました。嫉妬したり嫉妬されたり、裏切ったり裏切られたり。色んな人を傷つけて、色んな人から傷つけられて。何やってんだろうって自分に呆れて、自己嫌悪に陥って……」
話し終わらないうちに、サアヤがヒデの頭を胸にだく。そして優しく髪を撫でる。
「ごめんね。辛いこと思い出させちゃったかな」
踏み込んでこない気づかい、触れてほしくない所に触れない気づかい。ズケズケと踏み込んでくるように見えて、その実サアヤは適度な距離を保ってくれる。二人で居てもストレスを感じない距離感を、ヒデは好ましく思っていた。
「いいんですよ。もう終わったことですから……」
「今は? 気になる子はいないの?」
「アラサーを目前にして、あざとくて可愛いらしいサアヤさんが気になりますかね」
「そういうの要らないから。それに歳の話……」
サアヤの両手が背中にまわり、爪が食い込む。
「次に歳の話したら、引っかくからね」
「背中の爪痕は、男の勲章ですよ」
「なにそれ、いやらしい……」
眉間にシワを寄せ、呆れた表情で笑う。
「ねぇ、その頃だったらアタシを抱いてた?」
問われて答えに困った。おそらく、迫られれていれば抱いていただろう。でも請われて事を成すだけであって、そこに相手を想う気持ちなんて存在しない。
「抱いてたでしょうけど、そうなってたら仲よくなってないと思いますよ」
「そんじゃあの頃、シドくんに遠慮してアプローチしなかったのは正解だったのかな」
「遠慮してたんですか?」
「そりゃまぁ、一応は……」
確かに以前から、サアヤの好意は感じていた。でも今日のように強引にホテルに誘うようなことはなかった。そうか、遠慮していたのか。
「で、ジュンくんだっけ? ヴォーカルの子。あの子はどうなのよ」
「なんでジュンが出てくるんですか」
「気に入ってるみたいだし」
「面倒みてやりたいだけで、愛だの恋だのじゃないですから」
「そんな気持ちから始まるんじゃないの? 恋ってさ」
「そんなもんですかね……」
過去を振り返ってみても、そんなに淡い始まりなんてなかった。いつだって愛欲にまみれたところから恋が始まる。
「でも相手はノンケだろうし、簡単じゃないよね……」
「俺なんかが汚していいヤツじゃないですよ。まぶしいくらいに真っ白で……」
サアヤさんの両腕が俺の頭を抱え、自らの胸へと押し当てる。
「その子と仲良くなったらさ、連れておいで。一緒にご飯食べようよ」
サアヤの右手が、優しく髪を撫でる。
「そうですね……。仲良くなったら……きっと……」
思いの外心地が良く、思わず目を閉じる。
「今から楽しいこと、たくさんあるよ。だから君の恋の話をさ、つらい想い出で終わらせないでね……」
サアヤとこうやって抱き合っていることも含めて、苦い思いを感じていたのだけど……でも、少しズレて一生懸命なところ、すごく可愛らしいと思ってしまう。
柔らかな胸に身を委ねていると、彼女の匂いを感じる。女性の匂いと石鹸の残り香が混ざりあった匂い。高鳴った鼓動が伝わる。女性の腕の中だと言うのに、悪い気がしない。
「ところで青年よ。膝に硬いのが当たってるんだけど、本当にしなくていいの?」
「……」
「エッチが嫌ならさ、お口でしてあげるよ?」
「……要らないですって……そういうの」
「あら、起きてたのね」
「このまま眠っていいっすかね」
「女の胸で眠るとか、男前になったものだね」
「思った以上に……心地がいいもので……」
「それはよかった」
「……」
「ねぇ、ヒデくん」
「……」
「寝ちゃったかな?」
「……」
「あのさ、ますます好きになったよ。君のこと」
「……」
微睡みの中で聞こえた言葉。
サアヤさんの告白。
聞こえなかったことにしよう。
微睡みから醒めないでおこう。
人妻とゲイの恋だなんて、どうしようもない結末しか見えないじゃないか。
髪を撫でる優しさに誘われ、ヒデは深い眠りへと落ちていった。
浴室ではサアヤがシャワーを浴びている。
一緒に浴びようと誘われたが断った。ふくれっ面で「それじゃ、先に浴びてきなさいよ」と、彼女はヒデを浴室へと押しこんだ。
あっという間にシャワーを終えて出てきたヒデに「まるでカラスの行水ね」と呆れながら浴室に入ったのが、もう三十分も前のことになる。シャワー待ちのこの時間は、手持ち無沙汰で苦手だ。
ようやくシャワーの音が止む。
しばらくするとバスローブをまとったサアヤが、浴室から姿を現した。
「あら、ローブ使わないの?」
下着姿でベッドに座るヒデを見て、不思議そうに訊いた。そしてバスタオルで髪を拭きながら、鏡の前へと進んむ。
「なんか恥ずかしくて。それ」
旅館の浴衣には抵抗がないのに、ホテルのバスローブは気恥ずかしくて着る気がしない。なぜなのか解らないが、ヒデはバスローブが苦手だった。
「誘ってるの? パンツ一枚で」
「違いますよ」
「じゃ、腹筋自慢とか?」
鏡台の脇にドライヤーを探りながら、ヒデの体を見詰める。
「見ないでくださいよ。恥ずかしい」
バスタオルを肩にかけて体を隠す。視線を避けるように体をかわして、ベッドから立ち上がる。そして冷蔵庫から缶ビールを取りだして、サアヤに向かって掲げる。
「飲むんでしょ?」
「ありがと。気が利くね」
プルトップを引くと、小気味のいい音が響いた。泡があふれそうな缶を手渡すと、サアヤは喉を鳴らしながらビールを流し込む。
「お風呂上がりのビール、最高だわ!」
音を立てて鏡台に缶を置く。
「美味しいんです? それ」
「あら、ビール飲んだことないの!?」
驚いたように、サアヤが声を上げる。
「俺、まだ高校生ですからね」
「あらあら。最近の学生は真面目なのね……」
「お酒は二十歳になってから、ですよ」
わざとらしい言葉に、サアヤが苦笑する。
「おこちゃまヒデくんも、早くお酒が飲めるようになるといいでちゅね」
決して法律で禁じられているから飲まない訳ではない。単に飲みたいと思わないだけだ。タバコだって同じだ。シドやサアヤが旨そうに煙を吐いているところを見ると、ヒデとて興味を惹かれない訳ではない。しかし吸ってみたいという気持ちは、まるで湧いてこないのだった。
サアヤに言わせると、単なる習慣でありファッションなのだそうだ。シドは何と言っていただろうか。バンドマンの嗜みだとか何だとか。意味が解らないと、笑い飛ばしていたような気がする。
サアヤがドライヤーの冷風に長い髪をさらす。合間にビールをあおる彼女の姿を、器用だと感心しながら鏡越しにながめる。長い時間をかけて、冷風で髪を乾かしていく。髪が長いと大変だ……そう思いながら、ヒデは自然に乾くに任せている自分の髪に手をやった。
「さぁ、少し早いけど寝るかね!」
髪を乾かし終わったサアヤが、すっくと立ち上がる。
「なんで寝るのに、気合い入れてるんですか」
「初めての子とベッドに入るんだから、恥ずかしいじゃないの。気合が要るじゃないの」
「いい歳して、乙女っすか」
「女性はね、いくつになっても乙女なのよ」
サアヤが隣に座り、ヒデの腰を抱く。
「それとヒデくん……」
「なんでしょ?」
爪の先が食いこみ、ヒデは鋭い痛みを感じた。
「つぎ歳の話したら、ぶっ飛ばす!」
「あ、はい。サーセン……」
二人して笑い転げながら、シーツの隙間にもぐりこむ。
右腕で彼女の肩を抱き、そのまま腕枕をする。
「ねぇ、ヒデくん。チューして」
サアヤが目を閉じて、アゴを突きだす。
シーツの中で隠れるように、請われるままに唇を重ねた。
唇が触れた瞬間、少しだけこわばる体。
口づけの後、恥ずかしそうに伏せるまつ毛。
そして頬を赤らめながら、指先をそっと唇に添える仕草。
全てがあざとく思え、そしてそのあざとさを好ましいものとして感じた。
ヒデは「歳上とは思えないほど可愛いですね」と軽口を叩こうと思って止めた。耳元で一言だけ「可愛い」と囁く。サアヤはさらに頬を染め、両手で顔をおおって恥じらった。
やがて彼女の右手が、ヒデの体をなぞり始める。応えてサアヤの長い髪を撫でる。指の間をすり抜けていくシットリとした感触に、シャワーの痕跡を感じながら。
「ねぇ、本当にしないつもりなの?」
「そういう約束ですよ」
「普通は我慢しきれなくなって、襲ったりするもんでしょ?」
「俺の恋愛対象、男ですからね」
話をしている間も彼女の指先が、腕を、胸を、背中を、上半身のいたる所を撫で回していく。そして背中から腰をなぞり、下半身へと到達する。
「でもこっちは、準備オッケーみたいよ?」
「にぎらないでくださいよ。物理的な刺激に、反応してるだけです」
「アタシ、後腐れないよ? 今日だけ……ダメ?」
「余計に無理ですね」
「うーん、意外と真面目だな」
サアヤがシーツの中で頭をもたげ、ヒデの顔を覗き込む。
「じゃぁさ、エッチの代わりに恋話きかせてよ。恋話」
「なんですか、それ……」
「いいじゃない。好きなのよ、他人の恋愛話」
「ろくな恋愛してませんけど……」
「なんでシドくんと別れちゃったの? あんなに仲よかったのに」
「あー。それ訊いちゃいますか」
「なによ。ダメ?」
「かまいませんけどね」
煙草の煙でも吐き出すかのように、ゆっくりとヒデが息を吐く。
「シドさんモテるじゃないですか。来る者は拒まずの人ですし。男女かまわず……ね」
「それで、ヤキモチ焼いて別れちゃったの?」
「いや、言っときますけど、俺もモテますからね」
言ってしまってから後悔した。モテたからなんだというのだ。そういう人間関係が嫌で、全て精算したというのに。
「知ってるよ。ヒデくんがモテることくらい」
ヒデの腕の中、サアヤが優しく微笑みを向ける。
「シドさんに当てつけるように、いろんな人と付き合ったんですよ。でも、さすがに疲れました。嫉妬したり嫉妬されたり、裏切ったり裏切られたり。色んな人を傷つけて、色んな人から傷つけられて。何やってんだろうって自分に呆れて、自己嫌悪に陥って……」
話し終わらないうちに、サアヤがヒデの頭を胸にだく。そして優しく髪を撫でる。
「ごめんね。辛いこと思い出させちゃったかな」
踏み込んでこない気づかい、触れてほしくない所に触れない気づかい。ズケズケと踏み込んでくるように見えて、その実サアヤは適度な距離を保ってくれる。二人で居てもストレスを感じない距離感を、ヒデは好ましく思っていた。
「いいんですよ。もう終わったことですから……」
「今は? 気になる子はいないの?」
「アラサーを目前にして、あざとくて可愛いらしいサアヤさんが気になりますかね」
「そういうの要らないから。それに歳の話……」
サアヤの両手が背中にまわり、爪が食い込む。
「次に歳の話したら、引っかくからね」
「背中の爪痕は、男の勲章ですよ」
「なにそれ、いやらしい……」
眉間にシワを寄せ、呆れた表情で笑う。
「ねぇ、その頃だったらアタシを抱いてた?」
問われて答えに困った。おそらく、迫られれていれば抱いていただろう。でも請われて事を成すだけであって、そこに相手を想う気持ちなんて存在しない。
「抱いてたでしょうけど、そうなってたら仲よくなってないと思いますよ」
「そんじゃあの頃、シドくんに遠慮してアプローチしなかったのは正解だったのかな」
「遠慮してたんですか?」
「そりゃまぁ、一応は……」
確かに以前から、サアヤの好意は感じていた。でも今日のように強引にホテルに誘うようなことはなかった。そうか、遠慮していたのか。
「で、ジュンくんだっけ? ヴォーカルの子。あの子はどうなのよ」
「なんでジュンが出てくるんですか」
「気に入ってるみたいだし」
「面倒みてやりたいだけで、愛だの恋だのじゃないですから」
「そんな気持ちから始まるんじゃないの? 恋ってさ」
「そんなもんですかね……」
過去を振り返ってみても、そんなに淡い始まりなんてなかった。いつだって愛欲にまみれたところから恋が始まる。
「でも相手はノンケだろうし、簡単じゃないよね……」
「俺なんかが汚していいヤツじゃないですよ。まぶしいくらいに真っ白で……」
サアヤさんの両腕が俺の頭を抱え、自らの胸へと押し当てる。
「その子と仲良くなったらさ、連れておいで。一緒にご飯食べようよ」
サアヤの右手が、優しく髪を撫でる。
「そうですね……。仲良くなったら……きっと……」
思いの外心地が良く、思わず目を閉じる。
「今から楽しいこと、たくさんあるよ。だから君の恋の話をさ、つらい想い出で終わらせないでね……」
サアヤとこうやって抱き合っていることも含めて、苦い思いを感じていたのだけど……でも、少しズレて一生懸命なところ、すごく可愛らしいと思ってしまう。
柔らかな胸に身を委ねていると、彼女の匂いを感じる。女性の匂いと石鹸の残り香が混ざりあった匂い。高鳴った鼓動が伝わる。女性の腕の中だと言うのに、悪い気がしない。
「ところで青年よ。膝に硬いのが当たってるんだけど、本当にしなくていいの?」
「……」
「エッチが嫌ならさ、お口でしてあげるよ?」
「……要らないですって……そういうの」
「あら、起きてたのね」
「このまま眠っていいっすかね」
「女の胸で眠るとか、男前になったものだね」
「思った以上に……心地がいいもので……」
「それはよかった」
「……」
「ねぇ、ヒデくん」
「……」
「寝ちゃったかな?」
「……」
「あのさ、ますます好きになったよ。君のこと」
「……」
微睡みの中で聞こえた言葉。
サアヤさんの告白。
聞こえなかったことにしよう。
微睡みから醒めないでおこう。
人妻とゲイの恋だなんて、どうしようもない結末しか見えないじゃないか。
髪を撫でる優しさに誘われ、ヒデは深い眠りへと落ちていった。