所せましとテーブルに並べられた皿の中から、ライスを取り分けてグリーンカレーを添える。チキンとナスとタケノコ、そしてフクロダケ……白緑色(びゃくろくいろ)のスープが具材に絡み、ピーマンの赤と緑が彩を添える。
 あまたのスパイスとコブミカンの香りの裏に、ナンプラーの背徳の香り。口に含んだ瞬間に広がるのは、ココナッツミルクの甘み。少し遅れて、頭にまで突き抜ける強い刺激。
 良かった、甘くて辛いちゃんとしたタイのカレーだ。そう思い、ヒデは安堵の溜息を漏らした。モールに入ってる店だからと侮っていたけれど、本格的で美味しいタイ料理が食べられるのは嬉しい誤算だ。グリーンカレーを頬張るヒデを、テーブルの向こうからにこやかな表情でサアヤが見詰めている。
 アウトレットモールにタイ料理の店ができたから行ってみよう。そう言ってサアヤに誘われたのは、もう何ヶ月前だっただろうか。のらりくらりと断り続けていたヒデだったが、ゴールデンウイークで時間もあるし、断ることにも心苦しさを覚えていたところだ。意を決して、誘いに乗ることにした。
 意を決してと言うのは、いささか大げさかもしれない。しかし、食事だけでは終わらない予感があった。サアヤの好意にはもちろん気づいていたし、だからこそ今日まで二人きりで会うことを避け続けてきた。回りくどいのが嫌いな彼女のことだ。駆け引きなんてなく、いきなり男女の話をぶつけてくる、そんな予感がしていた。
 ヒデは決して、サアヤを嫌っている訳ではない。綺麗な年上の女性に可愛いがってもらえるのだから、むしろ嬉しいとすら思っている。でも今は恋人なんて欲しいと思っていないし、人間関係に縛られるのはごめんだと考えていた。
 だからほどよく酔いが回ったサアヤが「ヒデくん。アタシたちもう、付き合っちゃおっか?」と冗談まじりに言い出したときも、「あり得ないですね」と冷静な答えしか返せなかった。そして勢いを失った彼女が「真面目に好きなんだけど、ダメかな?」と泣き出しそうな瞳を向けたときも、「残念ながら」と冷たく突き放すことしかできなかったのだ。女性を恋愛対象として見ていないのだから、そもそもが無理な話ではある。
 必死に涙をこらえるサアヤは、ヒデの目から見ても歳上だとは思えないほど可愛らしく映ったし、話題が豊富だから食事を共にするのも楽しい。けれども付き合うとなると話は別で、どうしても面倒事のように感じてしまう。もちろん相手がサアヤだからという訳ではなく、女性だからという訳でもなく、誰であっても同じではあるのだが。
 それ以前に、サアヤには夫がいるのだ。人妻から交際を迫られて、「はい、喜んで!」という訳にはいかない。
 サアヤが落ち着くのを待ちながら、ヒデは空芯菜の炒め物に箸をのばす。シャクシャクとした歯ごたえが心地よく、ニンニクと味噌の香りが鼻孔をくすぐる。
 匂いを気にしてニンニクを使った料理を敬遠する女性は多いけど、サアヤは匂いなんて気にしない。「美味しいんだからいいじゃない。一緒に臭くなろうよ」と言ってはばからない。細かいことを気にしない彼女の性格を、ヒデは好ましく感じていた。
「やっぱり、不倫は嫌?」
「不倫かどうかに関わらず、恋愛自体が面倒ですかね」
「若いのに枯れてるね」
 こぼれ落ちそうな涙をこらえながら、サアヤが笑顔を作る。
「知ってるでしょ? 俺、ゲイですからね」
「でも、女性がダメな訳じゃないんでしょ?」
「相手によりますかね」
「どんな相手ならいいの?」
「とりあえず、歳上は苦手です……」
 歯がみして悔しがるサアヤも可愛い、そう思いながら再び空芯菜に箸をのばす。
 こんな可愛らしい人をつなぎ留めておけない旦那も、どうかしてる。仮面夫婦なのだと言っていた。夫婦の事情なんてよく解らないし、深く踏み込まない方がいいだろう。
「学生なんか恋人にしても、楽しくないですよ」
「そんなことないよ。今だってほら、こんなに楽しい」
「そんな風には見えませんけどね」
「ヒデくん可愛いからさ、一緒に居るだけで癒やされるのだよ」
「なんだか、ペット飼ってる人が言いそうなセリフですね」
「あら、嫌だった?」
「かまいませんよ、べつに」
 サアヤが右手を上げて店員を呼ぶ。空になったグラスを指差し「同じものを」と頼むと、タイの人とおぼしき店員が「シンハーですね。かしこまりました」と流暢な日本語でオーダーをとっていった。
「飲み物、大丈夫?」
 ヒデのグラスを指差して訊く。グラスには、まだ半分ほどの冷たいジャスミンティーが残っていた。
「大丈夫ですよ」
 応えてヒデは、頼みごとを思い出す。サアヤさんの誘いに乗ったのは、この願いごとをするためでもあった。
「お願いあるんだけど、いいかな?」
「朝まで付き合ってほしいってのなら、もちろんOKだよ?」
「いや、違うし……」
 ふくれっ面で、サアヤがそっぽを向く。
「コテージ借りられます? 今年も合宿したいんもんで」
 去年の合宿でも、サアヤのコテージを借りた。ビーチに面した好立地で、地下室に楽器と機材を持ち込めば立派な練習スタジオになる。
 ヒデのお願いがコテージの件だと知って、サアヤはつまらなそうにグラスをあおった。なんだ、そんなことか……とでも、言わんがばかりに。
「旦那も使わないだろうし、大丈夫じゃないかな」
「やったね!」
 サアヤの夫はIT系の事業で成功し、ありていに言うのならば金持ちだ。山の手のタワーマンションに住んでいるし、海辺にコテージを持ってたりもする。
「合宿ってことは、今年も出るんだ。ビーチフェス」
「そりゃ出るでしょ。今年こそ優勝しないと!」
 去年は、惜しくも優勝を逃してしまった。最終的に関西から遠征してきたバンドと競うことになったが、わずかに及ばず勝ちを逃してしまったのだ。
「今年こそは絶対優勝!」
「いいねぇ。若いって。応援したくなっちゃう!」
「元バンギャの血が騒ぎます?」
「騒ぐ騒ぐ! でもドラムの子、卒業しちゃったんでしょ?」
「ドラムはユキホが入ってくれましたよ」
「ユキホって……シドくんの?」
「そう、妹ですよ」
「もう高校生なのね。早いわ……」
 ユキホとは去年、何度もライブハウスで顔を合わせている。シドを介して知り合って、今ではすっかり意気投合していた。
「ヴォーカルもね、ジュンが入ってくれると思うし」
「それって、前に話してた……」
「サアヤさんに言われたとおり、壁ドンして口説いてきましたよ」
「壁ドン? アタシ、そんなこと言ったっけ?」
 酔いが回った頭で、サアヤが記憶をたどる。バンドに誘った男の子に、断られたとか言っていたはずだ。たしか先月くらいに聞いた気がする。でも、壁ドンしてこいなんて、言った憶えはない。
「言ったじゃないですか。恋人を口説くように誘えばいいって」
「ヒデくんってば、口説くときいつも壁ドンなの?」
 呆れたように、サアヤが眉根をよせる。
「そうですねぇ。だいたい壁ドンですかね」
 真顔でヒデが答える。
 いぶかしげな表情のままサアヤが俯き、眼光鋭くヒデを()めつける。
「アタシにも、壁ドンしなさいよね」
 ドスのきいた声で言い放ちつサアヤに不穏な空気を感じ、話題を逸らすかのようにグリーンカレーをすすめる。
「こ、このカレー、旨いですよ」
「もうお腹いっぱいなんだけど」
 不機嫌に応えながらも、サアヤがカレーに手を伸ばす。スプーンを口に運んだ瞬間、小さな悲鳴とともに表情が曇った。
「ちょっと、辛過ぎない?」
「ね、旨いでしょ?」
「美味しいんだけど……辛い」
 涙目になりながら、ふたたびシンハーのグラスをあおる。
「辛いって言うより、なんて言うか……痛い」
 苦悶の表情でサアヤが舌を突き出し、息を吐きながら辛さを醒ます。
「なんかエロいっすよ、それ」
「あら、歳上に魅力を感じないんじゃなかったの?」
「エロいと思っただけで、魅力を感じてる訳じゃないですから」
「くっ、憎たらしいわ」
「すいませんね。小憎らしいガキで」
「でも、そこが可愛いのよね。連れて帰って、モフモフしたいわ」
「何ですか、モフモフって……」
 シンハーを飲み干したサアヤに店員がお代わりを勧めたが、断ってヒデに向き直る。
「ねぇ、この後ウチ寄ってく?」
「嫌ですよ。夫婦の愛の巣に踏み込むなんて」
「あら、身も蓋もないわね。今日は帰ってこないよ、旦那」
「それでも嫌ですね」
「それじゃ、ホテルにしとく?」
「だから嫌ですって」
「独り寝は寂しいからさ、一緒に居てくれないかな」
「……」
「ダメかな?」
「……」
「ねぇ、ダメ? お願い……」
「……」
 サアヤに頼み込まれると、どうにも断れなくなってしまう。
 きっと大きな寂しさを抱えてる人なんだろうと思う。そんな人から寂しさを盾に迫られてしまうと、どうにも弱い。
「……セックスなしなら」
「やった!」
 サアヤが無邪気に顔をほころばせる。
 自分が一緒にいることで寂しさが紛れるのなら、側に居てあげた方がいい。そう考え、ヒデは自分を納得させることにした。
「ラブホでいい? それとも、ちゃんとしたホテルの方がいい?」
「どこでも構いませんよ」
「そ。わかった」
 サアヤに支払いを任せ、一足先に店から出た。
 日はとうに暮れ、五月だというのに冷え込みがきつい。やはり上着を着てくるべきだったと後悔しながら、薄手のジャケットのエリをつかんで身震いする。暖かい日が続いていたから、不意打ちのように冷えると何を着ればいいのか解らなくなってしまう。ズボンのポケットに手を突っ込んで暖を取る。
「さむっ!」
 店から出てきたサアヤが、ヒデの腕にしがみつく。
 ポケットに突っ込んだ右手に重ねて、彼女の左手が滑り込んでくる。自然にこういうことができてしまうあざとさを、ヒデは嫌いではなかった。
「それじゃ、ホテルに向かって、レッツゴー!」
 飾らない人だな、そう思って苦笑する。
 ポケットの中の手はそのまま腕へと絡み付き、サアヤに引っ張られるようにヒデは夜のモールを歩き始めた。