リンカさんと入れ替わるように、楽屋の入口にサアヤさんが姿を現す。甘い香を漂わせながら、楽屋の様子を伺っている。
「みんな調子はどうかな? 餌の時間だよ!」
サアヤさんが差し出す紙袋には、『柚子乃茶屋』のロゴが入っていた。
「そのお店! 駅前にできたカフェでしょ?」
真っ先に喰い付いたのはユキホだった。差し出された紙袋を掻っさらう。
「よく知ってるね。さすが女の子!」
「ってことは、これって……」
「そうよ。持ち帰り限定のシュークリームよ」
「やった! 食べていい? ねぇ、食べていい?」
「どうぞどうぞ。喧嘩せずに分けるのよ」
サアヤさんが言い終わるより早く、ユキホは自分のシュークリームを取り出した。
柚子乃茶屋は、最近駅前にできたカフェだ。和洋折衷の雰囲気がウケたのか、季節感あふれるスイーツがウケたのか、それとも一日二百個限定のシュークリームがウケたのか……オープンからもう何ヶ月も経つというのに、未だに行列が途切れない人気店だ。二人で店の前を通るたび、ユキホはいつも長蛇の列を横目に「あそこのシュークリーム食べたいな」と呟いていた。
「くー、美味しいわ! ずっと食べたかったのよね」
大口を開けてシュークリームに齧り付くユキホは、念願が叶って嬉しそうだ。
「行列、すごかったんじゃないですか?」
「えぇ、並びましたとも。アナタたちのためにね」
どうしたことだろう。今日はなんだかサアヤさんまでもが恩きせがましい。
「早く食べないと、ワタシが食べちゃうぞ」
ユキホの言葉に、慌ててシュークリームを頬ばる。粉砂糖がまぶされた皮を齧るとサクリとした食感が心地よく、口の中にバターの香りが広がる。こんなに風合いが軽いのは、作り立てだからだろうか。それとも何か特別な生地だったりするのだろうか。カスタードクリームも見事なもので、鮮烈なまでのバニラの香りが鼻孔をくすぐるし、卵の風味と牛乳の甘みが活きている。
「サアヤさん、これ、すごく美味しい!」
「そう。良かったわね」
微笑みながら、サアヤさんはシュークリームを食べるボクをじっと見詰めている。
「そんなに見られると、食べ難いですよ……」
二口目を頬張ったとき、クリームがはみ出して口元を汚した。慌てるボクを制して、サアヤさんは口元のクリームを指先ですくい、そのまま自らの口へと運んでしまった。
「ホントだ。美味しいわね」
「ちょっと! 人の彼女に粉かけないでもらえます?」
間髪入れず、ユキホがサアヤさんに詰め寄る。サアヤさんは余裕の表情でユキホに微笑みを向けると、シュークリームの紙袋を指差して言った。
「アタシの分も食べていいよ」
「え、マジ? じゃ、その娘、好きにしてもらっていいんで」
売られた……。ボク、シュークリーム一個で売られた……。
「食べ終わったら、髪の毛セットしてあげるからね」
サアヤさんの手が、クシャクシャとボクの頭を撫でる。
「ジュンくん、髪の毛伸びたわね」
「ボブだったら、ウイッグ無くてもイケますよ」
「スケベは髪の毛伸びるの早いって言うわよ?」
「ボク、そんなんじゃないですし……」
「ヒデくんも、髪の毛伸びるの早いね」
「オレはスケベじゃなくて、どエロだから」
「何それ、気持ち悪い……」
「あー、ウチの客、どれくらい来るかのぉ……」
「外の入場待ちの列、すごかったわよ」
「今日はシドさんトコと一緒っすからねぇ」
「あー、シドくんトコのお客?」
「大半はそうじゃないっすかね」
「でも、トリはアナタたちなんでしょ?」
「あー、サアヤさんまでそれ言うんだ」
「何よ。プレッシャーでも感じてるの?」
「感じてないと言えば、嘘にななるけど……」
「……けど?」
「まぁ、シドさんがくれた折角のチャンスだし」
「あいつ、見かけによらず面倒見がいいのよね」
「見かけによらずって何だよ……」
「あら、シドくん。帰ったの? 久しぶりね」
「フェスのとき会ったばかりだろ」
「そうだっけ?」
「もうボケちまったか?」
「ボケてねぇし」
「あー、歳はとりたくねぇな」
「ブッ殺す!」
「サアヤさんって、たまにガラ悪いですよね……」
「え? ちょ? ジュンくんなに言ってるの」
「たまに? いつもだろ? 最近は猫かぶってんのか?」
「かぶってません。大人になったんですぅ」
「確かに、この中じゃダントツで大人だよな」
「ブッ殺す!」
「サアヤさん、怖い……」
「えー、ジュンくん、怖くない、怖くないよ。大丈夫だよ」
「あ、シドさん。リンカさん来てましたよ。対バン申し込みに」
「まだ諦めてねぇのかよ。しつこい奴だな」
「対バンしてあげたら?」
「アイツは勝った負けたと、面倒くせえんだよ」
「わかります。その気持」
「ユキホ、客の様子見てこいよ。もう開場してんだろ?」
「やだよ。面倒くさい」
「ユキホちゃん、シュークリームもう一個食べていいよ」
「え、行ってくる!」
「餌づけされやがって……」
「うるさいよ、アニキ」
「今日も前列は、モッシュ大会かね」
「こらこら。モッシュもダイブも危ないから禁止だぞ」
「真っ先にダイブする人が、何か言ってるー」
「俺なんてまだ青いよ。シドさんなんか……」
「おいおい。オレはダイブなんかしねぇぞ?」
「客席にシンバル投げ込んだことがあるんだぞ!」
「ヒデ、その話はやめろ……」
「フリスビーみたいによく飛んだってさ」
「さすがに出禁くらったよ」
「よく怪我人が出なかったですね……」
「ウチの客は、そういうの慣れてるからな」
「スナッフアウトのお客さんも大変ですね……」
「見てきた! 超満員だったよ!」
「だろうな……」
「もう前列にサークルできてた!」
「おいおい、元気だな……」
「待ちきれないんでしょ?」
「本番に体力残しとけっつーの」
「そろそろアタシ、客席に行くね」
「差し入れ、ありがとね」
「頑張ってね。楽しみにしてる!」
高まりゆくオーディエンスの熱気が、楽屋まで伝わってくる。
他愛もない会話を交わしながらも、本番に向けて空気が張り詰めていく。
「開演五分前です!」
楽屋に響くスタッフの声に促され、スナッフアウトの三人がステージへと向かう。舞台袖まで見送ったボクたちは、そのまま袖からシドさんたちのライブを見守る。
スナッフアウトのステージは、今までに観たどんなライブよりも熱く、どんなライブよりも暴力的で、そしてどんなライブよりも驚きに満ちていた。
スリーピースの構成は、決して音が薄いことと同義ではないと思い知らされる。それどころかシンプルであるがゆえに、ダイレクトに心へと突き刺さる。
殴りかかるが如き低音のリズムが腹の底を震わせ、重々しいギターのリフとデスボイスが蠢き、絡み、溶け合っていく。
地の底を這うような重厚なノイズに酩酊を覚えていると、突如として楽曲は疾走感あふれるビートを刻み、降るように煌めくアルペジオに乗って澄み渡るハイトーンボイスが響き渡る。
緩急巧みな音律に、歌声に、パフォーマンスに、一時だって目を離すことができない。三人の織り成すサウンドに、ホール全体が巻きこまれていく。
プレイヤーとオーディエンスが、一体となった狂乱。すでにレッドゾーンへと振り切った観客の熱気に、まだだ、まだ足りないと三人があおる。もっとだ! お前らの熱量はそんなものか! お前らの本気を見せろ! 俺たちの音に喰らいついてこい!
前列は今や巨大なモッシュピットと化し、オーディエンス同士が激しくぶつかり合っている。いたる所でリフトが立ち、オーディエンスの海へとダイブし、波に翻弄されるがごとくホールを揺蕩う。中列にできたサークルの内側では、ツーステップを踏む者やウインドミルを舞う者が、次々と現れては人の波間へと消えて行く。
激しさを増すモッシュに揉まれ続け、疲弊している観客も少なくない。それでもオーディエンスは止まらない。もっとだ、もっと寄越せとステージに押し寄せる。もっと激しいリズムを! もっと熱いハーモニーを! もっと突き刺さるメロディーを! もっとだ、もっと寄越せ! もっともっと奮い立たせてくれ!
ステージも終盤となり、ボクたちは準備のため楽屋へ戻る。
狂気すら感じるスナッフアウトのステージ、ボクたちにあんなパフォーマンスができるのだろうか。あの苛烈なオーディエンスを前にして、ボクはどんなステージを演ればいいというのだろうか。
「どうした、ジュン」
鏡の前でうなだれるボクを、ヒデさんが覗き込む。
「ちょっと、シドさんたちがすごすぎて……」
「あー、初めて観ると衝撃だよな」
「ボク、どんなステージ演ればいいのか……」
「今まで通りだよ。俺たちは、俺たちのステージを演ればいいんじゃね?」
ヒデさんの指が、ボクの顎先に触れる。
「俺たちにしか出せない音が、あるはずだろ?」
顎を持ち上げられ、そのままヒデくんと見詰め合う。
「ストップ! なんで人の彼女に顎クイしてんのよ!」
ヒデさんの背後で、ユキホが仁王立ちしている。肩をすくめて退散するヒデさんに代わって、ボクの彼女が目の前に立つ。
「ジュンちゃん、気負い過ぎだよ。後ろ向いてごらん」
背を向けて座ると、ユキホの両手が背中をさする。
「自分たちがいいって思う音を出してさ、それを気に入ってくれる人が居てさ、またライブにも来てくれるようになってさ、それだけでいいじゃん。刺さる人にだけ刺さればいいんだよ。出来ることだけやればいいんだよ」
さする手が止まり次の瞬間、背中に強い衝撃を受けた。
「気合入った?」
背中に張り手を喰らった。
気合注入だなんて、まったくボクの彼女は相変わらず男前だ。
オーディエンスの興奮が最高潮に達し、スナッフアウトのステージが終わる。
鳴り止まない拍手と歓声に応えながら、シドさんたち三人がステージを降りる。舞台袖で二つのバンドのメンバーが、拳を突き合わせながらすれ違った。ボクたちの拳にはリスペクトを込めて。シドさんたちの拳にはきっとエールが込こめられている。
ボクがシドさんと拳を合わせた次の瞬間、背中に強い衝撃を受けた。
「気合入ったかよ。全力でぶつかってこい!」
まったく、兄妹揃って同じことを……。思わず苦笑してしまう。
照明が落ちたステージの上、セッティングを急ぐボクたちにオーディエンスの注目が集まる。値踏みするかのように絡み付く視線に思わず緊張してしまうけど、ここまで来てしまえば緊張もまた心地がいい。
セッティングが終わり、PAにサインを送る。
BGMがフェードアウトして、ホールの照明が落とされる。
刹那の静寂。
メンバーとオーディエンスが共に、薄闇の中に沈む。
緊張に高鳴る心音が、驚くほど大きく聞こえる。
闇の中で目を閉じ、大きく息を吸い込む。
さぁ、始めよう!
これが空想クロワールのステージだ!
さぁ、聴いてくれ!
これがボクたちの音楽だ!
(了)
「みんな調子はどうかな? 餌の時間だよ!」
サアヤさんが差し出す紙袋には、『柚子乃茶屋』のロゴが入っていた。
「そのお店! 駅前にできたカフェでしょ?」
真っ先に喰い付いたのはユキホだった。差し出された紙袋を掻っさらう。
「よく知ってるね。さすが女の子!」
「ってことは、これって……」
「そうよ。持ち帰り限定のシュークリームよ」
「やった! 食べていい? ねぇ、食べていい?」
「どうぞどうぞ。喧嘩せずに分けるのよ」
サアヤさんが言い終わるより早く、ユキホは自分のシュークリームを取り出した。
柚子乃茶屋は、最近駅前にできたカフェだ。和洋折衷の雰囲気がウケたのか、季節感あふれるスイーツがウケたのか、それとも一日二百個限定のシュークリームがウケたのか……オープンからもう何ヶ月も経つというのに、未だに行列が途切れない人気店だ。二人で店の前を通るたび、ユキホはいつも長蛇の列を横目に「あそこのシュークリーム食べたいな」と呟いていた。
「くー、美味しいわ! ずっと食べたかったのよね」
大口を開けてシュークリームに齧り付くユキホは、念願が叶って嬉しそうだ。
「行列、すごかったんじゃないですか?」
「えぇ、並びましたとも。アナタたちのためにね」
どうしたことだろう。今日はなんだかサアヤさんまでもが恩きせがましい。
「早く食べないと、ワタシが食べちゃうぞ」
ユキホの言葉に、慌ててシュークリームを頬ばる。粉砂糖がまぶされた皮を齧るとサクリとした食感が心地よく、口の中にバターの香りが広がる。こんなに風合いが軽いのは、作り立てだからだろうか。それとも何か特別な生地だったりするのだろうか。カスタードクリームも見事なもので、鮮烈なまでのバニラの香りが鼻孔をくすぐるし、卵の風味と牛乳の甘みが活きている。
「サアヤさん、これ、すごく美味しい!」
「そう。良かったわね」
微笑みながら、サアヤさんはシュークリームを食べるボクをじっと見詰めている。
「そんなに見られると、食べ難いですよ……」
二口目を頬張ったとき、クリームがはみ出して口元を汚した。慌てるボクを制して、サアヤさんは口元のクリームを指先ですくい、そのまま自らの口へと運んでしまった。
「ホントだ。美味しいわね」
「ちょっと! 人の彼女に粉かけないでもらえます?」
間髪入れず、ユキホがサアヤさんに詰め寄る。サアヤさんは余裕の表情でユキホに微笑みを向けると、シュークリームの紙袋を指差して言った。
「アタシの分も食べていいよ」
「え、マジ? じゃ、その娘、好きにしてもらっていいんで」
売られた……。ボク、シュークリーム一個で売られた……。
「食べ終わったら、髪の毛セットしてあげるからね」
サアヤさんの手が、クシャクシャとボクの頭を撫でる。
「ジュンくん、髪の毛伸びたわね」
「ボブだったら、ウイッグ無くてもイケますよ」
「スケベは髪の毛伸びるの早いって言うわよ?」
「ボク、そんなんじゃないですし……」
「ヒデくんも、髪の毛伸びるの早いね」
「オレはスケベじゃなくて、どエロだから」
「何それ、気持ち悪い……」
「あー、ウチの客、どれくらい来るかのぉ……」
「外の入場待ちの列、すごかったわよ」
「今日はシドさんトコと一緒っすからねぇ」
「あー、シドくんトコのお客?」
「大半はそうじゃないっすかね」
「でも、トリはアナタたちなんでしょ?」
「あー、サアヤさんまでそれ言うんだ」
「何よ。プレッシャーでも感じてるの?」
「感じてないと言えば、嘘にななるけど……」
「……けど?」
「まぁ、シドさんがくれた折角のチャンスだし」
「あいつ、見かけによらず面倒見がいいのよね」
「見かけによらずって何だよ……」
「あら、シドくん。帰ったの? 久しぶりね」
「フェスのとき会ったばかりだろ」
「そうだっけ?」
「もうボケちまったか?」
「ボケてねぇし」
「あー、歳はとりたくねぇな」
「ブッ殺す!」
「サアヤさんって、たまにガラ悪いですよね……」
「え? ちょ? ジュンくんなに言ってるの」
「たまに? いつもだろ? 最近は猫かぶってんのか?」
「かぶってません。大人になったんですぅ」
「確かに、この中じゃダントツで大人だよな」
「ブッ殺す!」
「サアヤさん、怖い……」
「えー、ジュンくん、怖くない、怖くないよ。大丈夫だよ」
「あ、シドさん。リンカさん来てましたよ。対バン申し込みに」
「まだ諦めてねぇのかよ。しつこい奴だな」
「対バンしてあげたら?」
「アイツは勝った負けたと、面倒くせえんだよ」
「わかります。その気持」
「ユキホ、客の様子見てこいよ。もう開場してんだろ?」
「やだよ。面倒くさい」
「ユキホちゃん、シュークリームもう一個食べていいよ」
「え、行ってくる!」
「餌づけされやがって……」
「うるさいよ、アニキ」
「今日も前列は、モッシュ大会かね」
「こらこら。モッシュもダイブも危ないから禁止だぞ」
「真っ先にダイブする人が、何か言ってるー」
「俺なんてまだ青いよ。シドさんなんか……」
「おいおい。オレはダイブなんかしねぇぞ?」
「客席にシンバル投げ込んだことがあるんだぞ!」
「ヒデ、その話はやめろ……」
「フリスビーみたいによく飛んだってさ」
「さすがに出禁くらったよ」
「よく怪我人が出なかったですね……」
「ウチの客は、そういうの慣れてるからな」
「スナッフアウトのお客さんも大変ですね……」
「見てきた! 超満員だったよ!」
「だろうな……」
「もう前列にサークルできてた!」
「おいおい、元気だな……」
「待ちきれないんでしょ?」
「本番に体力残しとけっつーの」
「そろそろアタシ、客席に行くね」
「差し入れ、ありがとね」
「頑張ってね。楽しみにしてる!」
高まりゆくオーディエンスの熱気が、楽屋まで伝わってくる。
他愛もない会話を交わしながらも、本番に向けて空気が張り詰めていく。
「開演五分前です!」
楽屋に響くスタッフの声に促され、スナッフアウトの三人がステージへと向かう。舞台袖まで見送ったボクたちは、そのまま袖からシドさんたちのライブを見守る。
スナッフアウトのステージは、今までに観たどんなライブよりも熱く、どんなライブよりも暴力的で、そしてどんなライブよりも驚きに満ちていた。
スリーピースの構成は、決して音が薄いことと同義ではないと思い知らされる。それどころかシンプルであるがゆえに、ダイレクトに心へと突き刺さる。
殴りかかるが如き低音のリズムが腹の底を震わせ、重々しいギターのリフとデスボイスが蠢き、絡み、溶け合っていく。
地の底を這うような重厚なノイズに酩酊を覚えていると、突如として楽曲は疾走感あふれるビートを刻み、降るように煌めくアルペジオに乗って澄み渡るハイトーンボイスが響き渡る。
緩急巧みな音律に、歌声に、パフォーマンスに、一時だって目を離すことができない。三人の織り成すサウンドに、ホール全体が巻きこまれていく。
プレイヤーとオーディエンスが、一体となった狂乱。すでにレッドゾーンへと振り切った観客の熱気に、まだだ、まだ足りないと三人があおる。もっとだ! お前らの熱量はそんなものか! お前らの本気を見せろ! 俺たちの音に喰らいついてこい!
前列は今や巨大なモッシュピットと化し、オーディエンス同士が激しくぶつかり合っている。いたる所でリフトが立ち、オーディエンスの海へとダイブし、波に翻弄されるがごとくホールを揺蕩う。中列にできたサークルの内側では、ツーステップを踏む者やウインドミルを舞う者が、次々と現れては人の波間へと消えて行く。
激しさを増すモッシュに揉まれ続け、疲弊している観客も少なくない。それでもオーディエンスは止まらない。もっとだ、もっと寄越せとステージに押し寄せる。もっと激しいリズムを! もっと熱いハーモニーを! もっと突き刺さるメロディーを! もっとだ、もっと寄越せ! もっともっと奮い立たせてくれ!
ステージも終盤となり、ボクたちは準備のため楽屋へ戻る。
狂気すら感じるスナッフアウトのステージ、ボクたちにあんなパフォーマンスができるのだろうか。あの苛烈なオーディエンスを前にして、ボクはどんなステージを演ればいいというのだろうか。
「どうした、ジュン」
鏡の前でうなだれるボクを、ヒデさんが覗き込む。
「ちょっと、シドさんたちがすごすぎて……」
「あー、初めて観ると衝撃だよな」
「ボク、どんなステージ演ればいいのか……」
「今まで通りだよ。俺たちは、俺たちのステージを演ればいいんじゃね?」
ヒデさんの指が、ボクの顎先に触れる。
「俺たちにしか出せない音が、あるはずだろ?」
顎を持ち上げられ、そのままヒデくんと見詰め合う。
「ストップ! なんで人の彼女に顎クイしてんのよ!」
ヒデさんの背後で、ユキホが仁王立ちしている。肩をすくめて退散するヒデさんに代わって、ボクの彼女が目の前に立つ。
「ジュンちゃん、気負い過ぎだよ。後ろ向いてごらん」
背を向けて座ると、ユキホの両手が背中をさする。
「自分たちがいいって思う音を出してさ、それを気に入ってくれる人が居てさ、またライブにも来てくれるようになってさ、それだけでいいじゃん。刺さる人にだけ刺さればいいんだよ。出来ることだけやればいいんだよ」
さする手が止まり次の瞬間、背中に強い衝撃を受けた。
「気合入った?」
背中に張り手を喰らった。
気合注入だなんて、まったくボクの彼女は相変わらず男前だ。
オーディエンスの興奮が最高潮に達し、スナッフアウトのステージが終わる。
鳴り止まない拍手と歓声に応えながら、シドさんたち三人がステージを降りる。舞台袖で二つのバンドのメンバーが、拳を突き合わせながらすれ違った。ボクたちの拳にはリスペクトを込めて。シドさんたちの拳にはきっとエールが込こめられている。
ボクがシドさんと拳を合わせた次の瞬間、背中に強い衝撃を受けた。
「気合入ったかよ。全力でぶつかってこい!」
まったく、兄妹揃って同じことを……。思わず苦笑してしまう。
照明が落ちたステージの上、セッティングを急ぐボクたちにオーディエンスの注目が集まる。値踏みするかのように絡み付く視線に思わず緊張してしまうけど、ここまで来てしまえば緊張もまた心地がいい。
セッティングが終わり、PAにサインを送る。
BGMがフェードアウトして、ホールの照明が落とされる。
刹那の静寂。
メンバーとオーディエンスが共に、薄闇の中に沈む。
緊張に高鳴る心音が、驚くほど大きく聞こえる。
闇の中で目を閉じ、大きく息を吸い込む。
さぁ、始めよう!
これが空想クロワールのステージだ!
さぁ、聴いてくれ!
これがボクたちの音楽だ!
(了)