先程まで鳴り響いていたリハーサルの音も止み、あとは本番を待つばかりとなった。
リハが終わった後の、わずかに弛緩した空気が好きだ。本番に向けて高まっていく緊張感が、少しだけ落ちつく時間。開場してオーディエンスを迎えれば、否が応 にも緊張が高まってしまう。
ここキラービーのバックステージは、空想クロワールの四人が陣どるだけで手狭に感じてしまう。ステージ裏の通路のような空間が、この老舗ライブハウスの楽屋なのだ。
両方の壁面には合計四面の鏡が備えられ、辛うじてここが通路や物置ではなく楽屋なのだと主張している。そしてボクたち四人は背中合わせで両壁の鏡に向かい、本番に向けた身支度を整えているという訳だ。
「ジュンちゃん、メイク手伝おうか?」
髪を巻きおえたユキホが、背中ごしに鏡を覗き込む。
衣装はゴシックロリータに着替え終わってるし、メイクだってほぼ終わっているのだ。あとは髪をセットすれば完成だ。
「大丈夫。一人でできるよ」
ユキホと付き合い始めて、三ヶ月ほどが経っただろうか。幼馴じみと付き合うだなんて、最初はどうなることかと思ったけど意外と順調だ。考えてみれば幼い頃からずっと一緒に居るのだ。相性が悪い訳がない。
唯一の問題はと言えば、付き合いが長すぎて恋人らしい振る舞いができないことだろうか。二人の間に甘い雰囲気が漂いそうになると、思わず顔を見合わせて吹きだしてしまう。どこまで行っても、いつもの幼馴染の二人なのだ。
それでも今までとはまた、違った関係になっているのではなかいと感じる。ボクたち二人の関係は、まだまだ手探りだ。でもそれでいい。ゆっくり二人で歩いていければいいと思っている。
楽屋を見回せば壁のいたる所に、そして天井にまで歴代出演バンドのバックステージパスが貼り付けられている。ここキラービーのパスは、名刺大の布シールだ。バンド名を書き込んで、左胸に貼ることになっている。ライブ後に使命を終えたパスを、皆が出演の記念にと壁に貼り残していくのだ。
パスの中には、メジャーに進出して成功を収めているバンドの名もある。そのバンドのパスには、「いつかは武道館!」と意気込みが綴られていた。しかし武道館どころか、今や全国のドームをツアーでまわるビッグネームになっているじゃないか。夢は叶う。初めてこのパスを見たときそう思った。しかし志半ばで夢を諦めたバンドのパスの方が、圧倒的に多いはずだ。成功と挫折が混在する壁面。何が両者を分かつのか。この壁を見るたび、そんなことを考えてしまう。
リハーサルを終えたスナッフアウトの三人が、楽屋へ戻ってくる。そう、今日の対バンは、なんとシドさんたちだ。フェスで優勝したバンドと対バンしてやる、シドさんはそう言った。その約束を、律儀にも守ってくれたのだ。
「相変わらず、いい音出してんじゃん」
そう言ってヒデさんが、シドさんと拳を合わせる。
「客は俺たちが温めてやるから心配すんな」
マルボロに火を点けながら、シドさんがつぶやく。
「本当にウチがトリでいいの?」
「まだ言ってんのかよ。実力的に充分だろ」
ヒデさんが珍しく、不安そうな声を上げている。
実力的にも経験的にも、スナッフアウトの方が上だ。そしてこのライブハウスの慣例では、その日一番の実力バンドがトリを務めることになっている。
今日のライブでシドさんたちとの対バンが決まったとき、誰もがスナッフアウトがトリだと思っていた。でもシドさんが、トリは空想クロワールに演らせろと、アキさんにねじ込んだのだ。
アキさんはアキさんで、何か打算があったのだろう。シドさんのゴリ押しを快諾してしまった。心配していた通りライブのフライヤーには「あのスナッフアウトを超える新人バンド」と煽り文句が踊り、チケットもよく売れたのだそうだ。誇大広告にもほどがある。
マルボロの煙を吐きながら、シドさんが一瞬ボクを見遣る。そして背中合わせに鏡に向かう四人の間をすり抜け、ボクの横に立った。
「ジュン、ライブ演るの何回目だ?」
「五回目ですかね」
立ち昇る紫煙の向こう側に、シドさんの表情を伺う。
未だにシドさんには気圧されてしまう。圧倒的なカリスマなんて言うと、表現が安っぽいだろうか。でも、そう評するのがピッタリなのだから仕方がない。
それにシドさんは、ユキホのお兄さんでもあるのだ。もしかすると、可愛い妹をたぶらかした悪者のように思われているんじゃないかと不安になってしまう。
「お前とは、対バン初めてだよな」
初めてステージを踏んだのが、六月のことだ。そこからビーチフェスを経て、月一回のペースでライブを重ねてきた。ツアー中のスナッフアウトは、その間に柚子崎でライブを演ることはなかったのだ。対バンが初めてと言うよりも、スナッフアウトのライブに触れることすら初めてだ。
「ウチの客は荒いけど、音を聴く耳は確かだよ」
そう言ってシドさんは、マルボロの煙を吐いた。
「は、はい?」
「解らねぇか? うちの客をさらうつもりで歌えって言ってるんだよ」
眼前に突き出された拳に、ボクは恐る恐る拳を合わせる。
スナッフアウトが出演する日のキラービーは、テーブルもチェアも撤去されオールスタンディングになる。おそらく今日も、五〇〇人を超えるオーディエンスがシドさんたち目当てにホールを埋め尽くすだろう。
スナッフアウトのステージが終わった後、きっとそのまま空想クロワールのステージも観てくれるはずだ。でも、ボクたちの音に心惹かれるものがなければ、ライブの途中で帰ってしまうかもしれない。
いや、帰らなかったとしても、ボクたちがオーディエンスを沸かせることができなければ……寒々しい状況を想像して、思わず身震いしてしまう。そんな状況を避けるためにも、通常ならば一番実力のあるバンドがトリを務めるのだ。いまさらのように、ヒデさんが不安を口にした意味を理解する。
「まぁ、気負わずやれや」
ボクの不安を知ってか知らずか、そう言い残してシドさんは楽屋を後にした。
スナッフアウトの三人が去った楽屋に、静寂が残される。
「気負わずやれだとさ」
ヒデさんとノリさんが、顔を見合わせて肩をすくめた。
その隣でユキホが、「アニキ、カッコええわぁ」とまるで空気を読まない台詞を吐きながらメイクを直している。
「今日の客ってさ、スナッフアウトからトリを奪った奴等はどれほどのもんだ、なんて値踏みしてくるんだろうな」
身支度を整え終えたノリさんが、チューナーにシールドをつなぎながらつぶやいた。
「まぁ、そうだろうな」
「ビーチフェスで優勝したっていっても、スナッフアウトのファンが皆、俺たちを知ってる訳じゃないしな……」
「そのお客を、ウチのファンにするだけの簡単なお仕事だろ? シドさんも実力充分って言ってたし、イケるイケる……知らんけど」
呑気な声を上げながら、ヒデさんがヘアスプレーの缶を振っている。
「ここまで来たら、覚悟決めるかね……」
ベースの弦を爪弾き、チューナーの針を確かめながらノリさんがペグを巻いていく。
覚悟なんて、最初から決まっているような口ぶりだ。
ヒデさんとノリさんは、ボクとは違って何年もステージに立ち続けているのだ。活動の中で培われた自信があるのだろう。僕の中には残念ながら、そこまでの自信はまだない。
「調子どないや? 観に来たったで」
そう言いながら姿を現したのは、なんとリンカさんだった。
「え? どうして? まさか大阪から!?」
「そやで。観に来たったんやんか。わざわざ大阪から。わさわざな」
やけに恩着せがましい……。
「フェスのとき、絶対見に来たるって約束したやんか。ウチはけっこう義理堅いんやで」
そしてさらに恩着せがましい……。
「それにな、空想クロワールとスナッフアウト、夢の対決なんやろ? 勝負の行方が、気になるやないの」
「違うし。対決じゃないし。普通に対バンだし」
「はぁ? ちゃうの? フライヤーで煽っとったやん」
「ははは。それ、アキさんが……ね」
「あのブッキングマネージャーか。なるほどな」
以前キラービーに出演したとき、アキさんの言動に思うところがあったのだろう。名前を出しただけで、リンカさんは納得してくれた。
「ほんで、シドは居てへんの?」
「さっきリハ終わって外へ……」
「なんや、入れ違いかいな。ウチはまだ、対バン諦めてへんからな。シドが帰ってきたら、対バン申し込みに来とった言うといてや!」
「はい……」
相変わらずの勢いに、思わず苦笑してしまう。
「そや。これ、差し入れや」
そう言ってリンカさんが差し出したのは、グリーンがかったモノトーンの手提げだった。ビニール製の手提げ袋には、二棟の建物の写真がプリントされている。
「ケーニヒスクローネのスティックパイやで。皆で食べてや」
「え、ケーニ……? なにそれ?」
「知らんの? 手土産いうたらコレやん。ド定番やん!」
それってきっと関西での話、とは思ったけど口に出さずにおいた。リンカさんからの心尽くしを、ありがたく頂戴する。
「今日も気合入ったトコ見せてくれるんやろな」
「うん、期待して!」
「スナッフアウトに負けとったら、しょうちせぇへんで!」
相変わらず好戦的な人だ。思わず苦笑する。
「ほな、客席行くわ。気張りや!」
そう言うと、リンカさんは楽屋から駆け出していった。
リハが終わった後の、わずかに弛緩した空気が好きだ。本番に向けて高まっていく緊張感が、少しだけ落ちつく時間。開場してオーディエンスを迎えれば、否が応 にも緊張が高まってしまう。
ここキラービーのバックステージは、空想クロワールの四人が陣どるだけで手狭に感じてしまう。ステージ裏の通路のような空間が、この老舗ライブハウスの楽屋なのだ。
両方の壁面には合計四面の鏡が備えられ、辛うじてここが通路や物置ではなく楽屋なのだと主張している。そしてボクたち四人は背中合わせで両壁の鏡に向かい、本番に向けた身支度を整えているという訳だ。
「ジュンちゃん、メイク手伝おうか?」
髪を巻きおえたユキホが、背中ごしに鏡を覗き込む。
衣装はゴシックロリータに着替え終わってるし、メイクだってほぼ終わっているのだ。あとは髪をセットすれば完成だ。
「大丈夫。一人でできるよ」
ユキホと付き合い始めて、三ヶ月ほどが経っただろうか。幼馴じみと付き合うだなんて、最初はどうなることかと思ったけど意外と順調だ。考えてみれば幼い頃からずっと一緒に居るのだ。相性が悪い訳がない。
唯一の問題はと言えば、付き合いが長すぎて恋人らしい振る舞いができないことだろうか。二人の間に甘い雰囲気が漂いそうになると、思わず顔を見合わせて吹きだしてしまう。どこまで行っても、いつもの幼馴染の二人なのだ。
それでも今までとはまた、違った関係になっているのではなかいと感じる。ボクたち二人の関係は、まだまだ手探りだ。でもそれでいい。ゆっくり二人で歩いていければいいと思っている。
楽屋を見回せば壁のいたる所に、そして天井にまで歴代出演バンドのバックステージパスが貼り付けられている。ここキラービーのパスは、名刺大の布シールだ。バンド名を書き込んで、左胸に貼ることになっている。ライブ後に使命を終えたパスを、皆が出演の記念にと壁に貼り残していくのだ。
パスの中には、メジャーに進出して成功を収めているバンドの名もある。そのバンドのパスには、「いつかは武道館!」と意気込みが綴られていた。しかし武道館どころか、今や全国のドームをツアーでまわるビッグネームになっているじゃないか。夢は叶う。初めてこのパスを見たときそう思った。しかし志半ばで夢を諦めたバンドのパスの方が、圧倒的に多いはずだ。成功と挫折が混在する壁面。何が両者を分かつのか。この壁を見るたび、そんなことを考えてしまう。
リハーサルを終えたスナッフアウトの三人が、楽屋へ戻ってくる。そう、今日の対バンは、なんとシドさんたちだ。フェスで優勝したバンドと対バンしてやる、シドさんはそう言った。その約束を、律儀にも守ってくれたのだ。
「相変わらず、いい音出してんじゃん」
そう言ってヒデさんが、シドさんと拳を合わせる。
「客は俺たちが温めてやるから心配すんな」
マルボロに火を点けながら、シドさんがつぶやく。
「本当にウチがトリでいいの?」
「まだ言ってんのかよ。実力的に充分だろ」
ヒデさんが珍しく、不安そうな声を上げている。
実力的にも経験的にも、スナッフアウトの方が上だ。そしてこのライブハウスの慣例では、その日一番の実力バンドがトリを務めることになっている。
今日のライブでシドさんたちとの対バンが決まったとき、誰もがスナッフアウトがトリだと思っていた。でもシドさんが、トリは空想クロワールに演らせろと、アキさんにねじ込んだのだ。
アキさんはアキさんで、何か打算があったのだろう。シドさんのゴリ押しを快諾してしまった。心配していた通りライブのフライヤーには「あのスナッフアウトを超える新人バンド」と煽り文句が踊り、チケットもよく売れたのだそうだ。誇大広告にもほどがある。
マルボロの煙を吐きながら、シドさんが一瞬ボクを見遣る。そして背中合わせに鏡に向かう四人の間をすり抜け、ボクの横に立った。
「ジュン、ライブ演るの何回目だ?」
「五回目ですかね」
立ち昇る紫煙の向こう側に、シドさんの表情を伺う。
未だにシドさんには気圧されてしまう。圧倒的なカリスマなんて言うと、表現が安っぽいだろうか。でも、そう評するのがピッタリなのだから仕方がない。
それにシドさんは、ユキホのお兄さんでもあるのだ。もしかすると、可愛い妹をたぶらかした悪者のように思われているんじゃないかと不安になってしまう。
「お前とは、対バン初めてだよな」
初めてステージを踏んだのが、六月のことだ。そこからビーチフェスを経て、月一回のペースでライブを重ねてきた。ツアー中のスナッフアウトは、その間に柚子崎でライブを演ることはなかったのだ。対バンが初めてと言うよりも、スナッフアウトのライブに触れることすら初めてだ。
「ウチの客は荒いけど、音を聴く耳は確かだよ」
そう言ってシドさんは、マルボロの煙を吐いた。
「は、はい?」
「解らねぇか? うちの客をさらうつもりで歌えって言ってるんだよ」
眼前に突き出された拳に、ボクは恐る恐る拳を合わせる。
スナッフアウトが出演する日のキラービーは、テーブルもチェアも撤去されオールスタンディングになる。おそらく今日も、五〇〇人を超えるオーディエンスがシドさんたち目当てにホールを埋め尽くすだろう。
スナッフアウトのステージが終わった後、きっとそのまま空想クロワールのステージも観てくれるはずだ。でも、ボクたちの音に心惹かれるものがなければ、ライブの途中で帰ってしまうかもしれない。
いや、帰らなかったとしても、ボクたちがオーディエンスを沸かせることができなければ……寒々しい状況を想像して、思わず身震いしてしまう。そんな状況を避けるためにも、通常ならば一番実力のあるバンドがトリを務めるのだ。いまさらのように、ヒデさんが不安を口にした意味を理解する。
「まぁ、気負わずやれや」
ボクの不安を知ってか知らずか、そう言い残してシドさんは楽屋を後にした。
スナッフアウトの三人が去った楽屋に、静寂が残される。
「気負わずやれだとさ」
ヒデさんとノリさんが、顔を見合わせて肩をすくめた。
その隣でユキホが、「アニキ、カッコええわぁ」とまるで空気を読まない台詞を吐きながらメイクを直している。
「今日の客ってさ、スナッフアウトからトリを奪った奴等はどれほどのもんだ、なんて値踏みしてくるんだろうな」
身支度を整え終えたノリさんが、チューナーにシールドをつなぎながらつぶやいた。
「まぁ、そうだろうな」
「ビーチフェスで優勝したっていっても、スナッフアウトのファンが皆、俺たちを知ってる訳じゃないしな……」
「そのお客を、ウチのファンにするだけの簡単なお仕事だろ? シドさんも実力充分って言ってたし、イケるイケる……知らんけど」
呑気な声を上げながら、ヒデさんがヘアスプレーの缶を振っている。
「ここまで来たら、覚悟決めるかね……」
ベースの弦を爪弾き、チューナーの針を確かめながらノリさんがペグを巻いていく。
覚悟なんて、最初から決まっているような口ぶりだ。
ヒデさんとノリさんは、ボクとは違って何年もステージに立ち続けているのだ。活動の中で培われた自信があるのだろう。僕の中には残念ながら、そこまでの自信はまだない。
「調子どないや? 観に来たったで」
そう言いながら姿を現したのは、なんとリンカさんだった。
「え? どうして? まさか大阪から!?」
「そやで。観に来たったんやんか。わざわざ大阪から。わさわざな」
やけに恩着せがましい……。
「フェスのとき、絶対見に来たるって約束したやんか。ウチはけっこう義理堅いんやで」
そしてさらに恩着せがましい……。
「それにな、空想クロワールとスナッフアウト、夢の対決なんやろ? 勝負の行方が、気になるやないの」
「違うし。対決じゃないし。普通に対バンだし」
「はぁ? ちゃうの? フライヤーで煽っとったやん」
「ははは。それ、アキさんが……ね」
「あのブッキングマネージャーか。なるほどな」
以前キラービーに出演したとき、アキさんの言動に思うところがあったのだろう。名前を出しただけで、リンカさんは納得してくれた。
「ほんで、シドは居てへんの?」
「さっきリハ終わって外へ……」
「なんや、入れ違いかいな。ウチはまだ、対バン諦めてへんからな。シドが帰ってきたら、対バン申し込みに来とった言うといてや!」
「はい……」
相変わらずの勢いに、思わず苦笑してしまう。
「そや。これ、差し入れや」
そう言ってリンカさんが差し出したのは、グリーンがかったモノトーンの手提げだった。ビニール製の手提げ袋には、二棟の建物の写真がプリントされている。
「ケーニヒスクローネのスティックパイやで。皆で食べてや」
「え、ケーニ……? なにそれ?」
「知らんの? 手土産いうたらコレやん。ド定番やん!」
それってきっと関西での話、とは思ったけど口に出さずにおいた。リンカさんからの心尽くしを、ありがたく頂戴する。
「今日も気合入ったトコ見せてくれるんやろな」
「うん、期待して!」
「スナッフアウトに負けとったら、しょうちせぇへんで!」
相変わらず好戦的な人だ。思わず苦笑する。
「ほな、客席行くわ。気張りや!」
そう言うと、リンカさんは楽屋から駆け出していった。