たまには握手を求められることもある。そしてサインを求められることや、記念撮影を求められることだってある。サインなんて考えていなかったから何を書けばいいのか解らず、何の工夫もなくカタカナで『ジュン』と書いた。ヒデさんやリンカさんは当然のようにスラスラと、まるで芸能人のようなサインを書いていた。さすがに場なれしている。
 半分ほど残るアイスコーヒーを手に取りストローを回すと、溶け切りそうな氷がグラスに当たって頼りない音を立てた。もちろんコーヒーには、ガムシロップを四つ入れた。そしてミルクも四つだ。いつものことだからうちのメンバーは驚かないけど、アウスレンダーの三人はたいそう驚いていた。そして驚くだけでなく、激しくツッコミを入れてきた。おい待てや! 入れすぎやろ! どんだけ入れんねん! まだ入れるんかーい! さすがは関西人。ツッコミに余念がない。
「しかし、ウチらが負けるとはな……」
 リンカさんがこのセリフを口にするのは、もう何度目だろうか。ことあるごとに溜息を吐いては、この言葉を口にしている。
「接戦でしたね。それでもボクたちが勝つって思ってましたけどね……」
 あんなに怖かったリンカさんが、今は何だか可愛らしく見える。
「もう、何なんこの子。いきなり女の子になっとるし、なんか生意気になっとるし、なにこれキショイ……」
「キショくないです!」
「すまん、すまん。……おっと、もう時間やな。そろそろ行くわ」
 アウスレンダーの三人が席を立つ。
「花火、観ていかないんです?」
「大阪まで帰らんとあかんからな……残念やけど」
 ボクたちも立ち上がって、彼女たちを見送る。
「シドとの対バン、楽しみにしとくわ。絶対に観に来たるからな」
 そう言ってリンカさんが、握手を求めて右手を差しだす。
「最高のライブ、約束しますよ」
 差し出された手を強くにぎる。
「もう、何なんこの子。めっちゃ言うやん。キショイわぁ」
「キショくないです!」
 リンカさんたちが笑っている。つられてボクたちも笑う。
「ほなな。次は負けへんからな!」
 そう言い残して、アウスレンダーの三人はフェス会場を後にしていった。彼女たちの後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと三人を見送っていた。

 ボクたちのフェスが終わった。
 この三ヶ月間、全てを捧げたフェスが終わってしまった。
 優勝という最高の形で。
「終わっちゃいましたね……」
「あぁ、終わったな……」
「終わったよな……」
「終わっちゃたね……」
 ボクたち四人は夕日に照らされながら、交わす言葉も少なく物悲しさに浸っていた。
 祭の後は、いつだって悲しい。
 夏祭りや縁日の後はもちろん、学校行事だってそうだ。終わってしまえば物悲しさだけが残る。そう、体育祭の後や、文化祭の後はいつだって物悲しい。目標に向かって突っ走った後の、そして目的地にたどり着いた後の爽快感や達成感、そんなものとバランスを取るかのように物悲しさは襲ってくる。
 幼い頃、縁日の帰り道で泣いていた記憶がある。神社の境内いっぱいに立ち並んだ屋台。楽しげに行き交う人々。夢のような時間はあっという間に過ぎ去り、手を引かれながら物悲しさに涙を流していたような気がする。
「一旦コテージに戻るわ」
 ノリさんが席を立つ。
「オッケー。オレはこの辺に居るから」
「花火までに帰ってくるよ」
 そう言ってノリさんは背を向け、ビーチを歩いていった。
「それじゃワタシも、コテージに戻ってくるかな」
 ノリさんに続いて、ユキホも行ってしまった。
 ヒデさんと二人、席に残された。
 二人きりだなんて、なんだか緊張してしまう。不意にあの夜の約束を思い出した。ヒデさんは、憶えているだろうか。あの夜、フェスで優勝したら付き合うと約束してくれたことを。心なしか、ヒデさんも緊張しているように見える。
 あの約束を憶えていますか。その一言が言えず、気まずい雰囲気のまま二人で無言の時を過ごした。
「少し歩くか?」
 沈黙を破ったのは、ヒデさんだった。
 誘われるがまま、夕日に輝く波打ち際を並んで歩く。
 フェス会場を背に、コテージの方向へと向かう。
 肩を並べて歩いていると、ときおり指先が触れた。
「ジュン、あの夜の約束、憶えてる?」
「……も、もちろんですよ」
 おもむろに、ヒデさんが約束のことを口にした。
 フェス会場の喧騒はすでに遠のき、足元で波が弾ける音が聞こえる。
 刻々と沈みゆく夕日に、闇が濃さを増していく。
「あのときオレ、救われたんだ」
「救われた?」
「オマエが好きだと言ってくれたことにだよ。それから、あの一言にも……」
「何か言いましたっけ?」
「言ってくれたじゃん。一緒に震えてくれるって」
 あの夜、ヒデさんはステージに立つことが怖いと言った。怖くて眠れない夜があると。そしてボクは一緒に震えてあげると言って、ヒデさんの失笑を買ってしまった。
「自分のことを理解してくれるヤツが居るって、いいもんだって思ったよ。気持ちを分かち合ってくれるヤツが居るのって、本当に心強いよな。たった一人でいいんだよ。たった一人の理解者が居るだけで何でもできる、そんな気がしたよ」
 そんな風に思ってくれただなんて、思ってもみなかった。
 ヒデさんが心細いとき、そっと寄り添うことができればいいなって思う。嬉しいことや楽しいことだって、二人で分かち合っていくんだ。それって、とても素敵なことなんじゃないかと思う。
「ありがとな、ジュン」
 そう言うとヒデさんは、不意に立ち止まった。
 そして憂いを含んだ目でボクを見詰めながら、静かに告げる。
「でも、あの約束は守れない」
 その言葉に、時が止まる気がした。
 波の音すら聞こえなくなってしまう。
「でも、ボク、ヒデさんが好きで、だからあの夜だって……」
 どういう意味なのか訊きたいのに、巧く言葉にならなかった。
「ジュンに必要なのは、オレじゃない。そうだろ?」
 ボクはこんなにもヒデさんを必要としているのに、どうしてそんなことを。
 そのとき、不意にノリさんの声が響く。
「お、合流できた」
 夕闇の向こう側から姿を現したノリさんに、珍しくヒデさんが舌打ちをする。
「タイミング悪いよ、オマエ」
「なに。お邪魔なら消えるけど?」
 のんびりのしたノリさんの声に、場を支配していた緊張が緩む。
「ノリ、一人なの?」
「そうだけど、なんで?」
「ユキホもコテージ行ったから」
「いや、見てないけど?」
 ノリさんが席を立った後、ユキホも確かにコテージへ行くと言って席を立った。
「ユキホ、まさか……」
 思わず唇を噛む。
 きっとボクとヒデさんを二人きりにするために、ユキホは席を立ったのだ。まったく余計な気づかいを……。
 でもそれじゃ、ユキホは一体どこへ行ったのか……。
「ボク、メッセージ送ってみます」
 不安に駆られて、ユキホのスマホにメッセージを送る。
 けれども返信はなかった。
 きっと泣いている……。
 なぜかそう思った。
 そう思った瞬間、不意に記憶が蘇える。
 幼い頃の縁日。ユキホと二人、手をつないで神社から帰った。祭りの後の物悲しさに耐え切れず、帰り道で涙を流していたのはボクじゃない。ユキホだ。あんまりユキホが泣くものだから、ボクはつられて涙を流していただけだ。
 きっとどこかで、ユキホが泣いている……。
 そう思うと、居ても立ってもいられなくなる。
「行ってやれよ」
 ヒデさんの言葉が、優しく背中を押す。
「でも、ボク……」
「ユキホにはジュンが必要だし、ジュンにだってユキホが必要だ。そうだろ?」
「そ、それは子供の頃から一緒だし、家も近くて……」
 しどろもどろになってしまうボクの言葉を、ヒデさんがさえぎる。
「幼馴染みってさ、気付きにくいよな。こういう感情」
 その言葉に、ようやくボクは思い至る。
 ボクの側には、いつだってユキホが居た。幼い頃からずっと一緒だったから、そのことが当たり前になっていた。だから二人の距離を、恋愛感情で測ったことなんてなかった。
 ボクが辛いとき、悲しいとき、心細いとき、いつもユキホが寄り添ってくれた。それじゃユキホが心細いときは、誰が寄り添ってやるんだ?
 ボクしか居ないじゃないか。
 ボクがユキホに寄り添わないで、誰が寄り添うんだ。
「行かなきゃ……」
 駆け出そうとして思い留まる。
 それじゃ、ヒデさんはどうなる?
 ボクの言葉に救われたと言ってくれたヒデさん。
 ボクのことを、大切だと言ってくれたヒデさん。
 そんなヒデさんを裏切るだなんて、ボクにできる訳がない。
「好きなんだろ? ユキホのこと」
 問われてすぐに、答えることができなかった。
 自分の気持ちに自信がないからじゃない。
 この言葉で言い表すことに、慣れていないからだ。
「……はい。好きです」
 言葉にして、ようやく自分の気持を理解する。
 ボクはずっと、ユキホのことが好きだったんだ……。
 ヒデさんの手が、優しくボクの頭を撫でる。
 思わず涙があふれ出した。
 ボクはヒデさんを裏切ってしまう。
 申し訳なくて、ヒデさんの顔を見ることができなかった。
 それでも伝えなくてはならない。自分の言葉で伝えるべきだ。
「ヒデさん……」
「ん?」
 無理やり顔を上げ、涙声で告げる。
「ごめんなさい! あの夜の約束は守れません」
 心の底から、ボクは詫びる。
 ごめんなさい、ヒデさん。本当にごめんなさい……。
「いいから、早く行ってやれって」
 返事すらできず、その場から走り去った。
 心の中でずっと、ヒデさんに謝り続けながら。