――「彼女」と関わったきっかけは、昼休みに本を読んでいたことだった。

 作家志望の俺は毎日速攻で昼食を済ませて、残りの時間は読書に全て充てていた。執筆は書くばかりでは上達しない。同じぐらいかそれ以上に読むことも重要なトレーニングになる。

 俺は他者とまともなコミュニケーションが出来ないので、どうせまともな社会人は無理だ。早くにそう気付いた俺は、卒業後は作家になって一人だけで仕事が出来るよう、高校生活の時間を執筆に全振りしてやろうと思っていた。

 幸いにして俺は読書が苦ではなく、いくつもの本を読んでいる内に「俺にも書けるかも」と思って小説を書きはじめたクチだった。ミステリにラノベ、ホラーも好きだし恋愛小説だってたまには読む。どんなジャンルでも俺の滋養となり血肉になる。そう思って読書を楽しんできた。決して夢ばかりのワナビではない……と自分でも信じたい。

 神聖なる読書の時間を誰にも邪魔をされたくなくて、自分の本をいくつも持って図書室に来ていた。そこなら基本的には静かにしていないと怒られるし、カースト上位のウザい奴らもわざわざ退屈な場所には来ないからだ。

 そうして図書室で静かなる読書に勤しんでいた頃、たまたま岡莉奈と居合わせた。そのまま芸能界にでも送り出せそうな容姿を持ち、何よりも清楚なのがいい。ただかわいいという理由だけで望まずクラスカーストの上位へと食い込んだせいか、他者を見下した感じもない。

 セミロングの髪が微風に揺れる。風になびく髪を見ているだけで、胸が変な感じになる。それは制服を着たJKというステータスを差し引いても圧倒的な美貌だった。

 まさに天使。きっとクラスの男子は半分以上彼女が好きなのではないか。

 そんな天使がいきなり目の前に現れたのだから大変だ。ましてや前触れもなく話しかけられたのだ。陰キャの典型である俺はそんな状況を想定すらしていない。

「ど、ど、ど、どうしたの?」

 思わずどもる。しょうがない。いきなり目の前に天使が現れたら誰だってそうなる。

「鬼頭君、いつもここで本を読んでいるよね」

 岡さんは興味津々といった目で俺を見つめる。

「こ、ここなら、静かに本を読めるから」
「本が好きなんだ?」
「ああ、まあ……」

 岡さんが笑顔で小首をかしげる。かわいい。

 俺は早くも彼女の魅力にノックアウトされつつあった。チョロいのは分かっている。だけど、彼女を前にしたら誰だってチョロくなる。それは間違いない。

 この日をきっかけに俺と岡さんは図書室でたびたび会うようになった。せいぜい軽い会話や本の話をする程度だけど、それでも陰キャのまま高校生活を終えると思っていた俺にとっては幸せな時間だった。

 昼休みに図書室へ来る生徒は稀だったので、ほとんどの生徒は俺たちの関係を知らなかったのではないか。

 岡さんも読書が好きだったそうで、ごく自然な流れでお互いの読む本について語らうことになった。

 俺はいかにもなラノベやミステリが好きだったが、岡さんは恋愛小説が好きでよく読んでいるという話だった。あんな美少女でも、ドラマみたいな恋がしてみたいと人並みに思うこともあるそうだ。そんなの、いくらでも可能だと思うが。

 あくまで自己申告だが、誰かと付き合ったことはないらしい。高嶺の花過ぎて誰も手を出さないのか、それとも他に問題があるのか、陰キャの俺には知るよしもない。

 クラスカーストのトップにいる割には珍しい人間だと思った。鮫島賢司を含め、恋愛慣れをしているイケメンだったら身近にいくらでもいるだろうに。

 何回目かに会った時、なんとなしにクラスメイトの話になった。なんでそんな話になったのも憶えていない。ただ、超絶美少女の彼女がスクールカースト上位にいる奴らをどんな目で見ているのかに興味があった。

 やはり高校生のせいか、誰と誰が付き合っているみたいな話も出たりする。

 ここぞとばかりに「鮫島君とは付き合っているの?」と訊いてみた。誰とも付き合っていないとは言っていたが、どうせ嘘だろう。アイドルが彼氏はいないと公言するのと同じ理由だ。

 冗談交じりの口調で訊いたつもりだったが、声は震えていた気がする。もちろん独り言では鮫島「君」なんて絶対に呼ばない。

「うーん。鮫島君はたしかにカッコいいかもしれないけど、なんか違うかな」

 彼女は意外な答えを返してから苦笑いを浮かべた。

「そうなんだ」

 心の中で「ざまあ」と叫んでいた。鮫島が岡さんを好きなのは知っている。鮫島よ、俺の質問で勝手にフられたな。

 しかし世の中はままならないものだ。誰もが憧れる高嶺の花、それに釣り合う男性をクラスで探したら客観的に見ても鮫島ぐらいしかいない気がする。嫌いな奴だけど、イケメンで高身長、運動神経も抜群とくれば第三者的な目で見て異性を惹きつける魅力は抜群のはずだ。

 だが、そんな鮫島でさえ岡さんには「なんか違う」で一蹴されてしまう。世の無常を感じ取った気がした。他人事だからだけど。

「そういえばだけどさ」

 ニヤつきそうなのを堪えていると、だしぬけに岡さんが口を開く。

「鬼頭君は小説を書いているの?」
「え? いや、その……」

 まさかの不意打ちにしどろもどろになる。

 なぜだ? 執筆については一切触れず、ただの本好きとして振舞っていたはずなのに。

「どうしてそう思ったのかな?」
「っていうことは、やっぱり書いてるんだ」

 ――はい論破(違う)。

 天使は無垢な顔で微笑む。

 やはり頭のいい人と駆け引きなんてするものじゃない。わずかなやり取りで、密かに小説を書いていることを見抜かれた。まあ、日頃から隙だらけだからヒントを大量に出していたんだろうな。

 まあ、別にエロゲにハマっているのがバレたわけでもない。小説を書く趣味自体は少しも恥じる必要はないはずだ。

「まあ、趣味。趣味程度だからね」

 予防線を張りながら、どうしても早口になってしまう。陰キャ丸出しというより、取り調べで追い詰められた被疑者みたいだった。

 岡さんは目をキラキラと輝かせる。

「すごい! わたし、小説が書ける人って尊敬しているんだ」
「ああ、そうなの。そうですか……」

 もはや自分でも何を言っているのか分からない。ただただ前のめりになる岡さんに圧倒されている。

「ネットで発表してるの?」
「ああ、うん。だけどホラ、誰でも書けるし、素人でも出せるんだから……ね?」

 さらに予防線を張りまくる。

「ねえ」
「うん」
「鬼頭君の作品、読ませてよ」
「えっ」

 想定外の言葉でフリーズする。なんだ? 何が起こった?

「で、なんてペンネームなの?」

 岡さんは狼狽しまくる俺のことなど知らず、どんどん話を進めてくる。

「いや、それは、その……」

 思わず言葉がよどむ。それも仕方のないことだった。

 ペンネームはネット上の攻撃から身を守る上でも重要な役割を担っていて、これがあるからこそうっかり不謹慎な作品を書いて炎上したり性癖がバレてもリアルの世界で攻撃されない部分がある。

 逆に言えば、それを相手に教えるということは身バレの確率が増すことになる。たとえばその人が軽い気持ちで友人や家族にペンネームの話をしたとしよう。そんなことをすれば一巻の終わりだ。

 その「秘密」は他者へと口外しないように伝えたとしても、似たような形であちこちへと広がっていく。結果として俺の筆名が本名とセットであちこちに伝播する危険性がある。

 その流れで知らぬ間に自分のペンネームが不特定多数の人々に共有されており、それによって攻撃されたりすることも十分に考えられる。

 だが――

 まあ、目の前の天使がそんなにバカなはずがないし、ついさっきにわずかなやり取りで俺を手玉に取ったぐらいだから、身バレを助長するような愚かしい行為は取らないだろう。そう判断した。

 俺は岡さんに鬼塚攻(おにづか こう)のペンネームを教えた。自分の名前を強そうにもじっただけだ。守ってばかりだと耐えるみたいで嫌なので、たまには攻めてみようとして付けた名前だ。大した捻りはない。

 そんなセンスのないペンネームを知った岡さんはどうしてか嬉しそうだった。おそらく身近な存在に作家がいたような気分を味わっているだろうが、騙しているようで申し訳ない気分になった。自称作家であればネットに世界には星の数ほどの人がいる。多くは輝く星にはなれない。

 まあいい。読んだら俺の作品がどの程度なのかもすぐ分かるだろう。ガッカリするなら早い方がいい。そう諦めた。

「帰ったらさっそく読んでみるね」

 楽しそうに図書室を後にする岡さん。

 ――ごめんね。俺の書く作品って、バイオレンスや人の嫌な部分ばかりが描かれているんだ。きっと君が楽しみにしているようなスパダリの出てくる恋愛小説なんかは書いていないんだよ。というか、そもそもそういう作品は書けないんだ。楳図かずおがディズニーのマンガを描けないように。

 頭の中だけで謝罪をしつつ、彼女の背中を見送る。

 さて、何かとんでもない過ちを犯した気がしないでもない。誰もいなくなった図書室で、遅れてやってきた冷静さが心の奥底で警鐘を鳴らす。

「まあ、大丈夫さ」

 押し寄せる不安を振り切るかのように呟く。

 だが、俺はこの時知らなかった。

 俺が彼女にペンネームを教えたことが、本当に致命的なミスになるとは。