――父はその翌日から昏睡状態に(おちい)り、母が呼んだ救急車で後藤先生が勤務されていた大学病院に搬送された。いくら本人が入院を拒否していたとはいえ、この時ばかりはそんなことに構っていられなかったのだ。

 そして、年明け間もない一月三日の朝――。

「――一月三日、八時十七分。死亡確認しました。……本当に残念です」

 先生からの連絡で朝早くから病院に駆けつけていた母とわたしは、後藤先生から父の永眠を伝えられ、母はその場でわたしにしがみついて泣き崩れた。でも、わたしは泣かなかった。もちろん悲しかったけど、いちばん悲しいのは母だと思うと申し訳なくて泣けなかった。

 ベッドの上に横たわっていた父の亡骸(なきがら)は、ただ眠っているだけのように安らかだった。また目を覚まして、わたしたちに「おはよう」と笑いかけてくれるんじゃないか……。ついそんなことを考えてしまった。

「私は医師として、患者の最期は何度も看取ってきたはずなんですが……。井上の死は本当に残念でなりません。医者が泣いてはいけないと分かってはいるんですが……」

 後藤先生もショックを受けてしゃくり上げていた。確かに、医師が患者の死を看取るたびに泣いていたんじゃキリがないだろうし、冷静に受け止めなきゃいけないんだろうけれど。さすがに親友が旅立ってまで冷静沈着ではいられないだろう。親友である父のために、もっとできることがあったんじゃないかと後悔の念に(さいな)まれていたに違いない。

「先生、顔を上げて下さい。先生は最後まで、父の治療を頑張ってくれたじゃないですか。おかげで父は安らかに旅立っていけたと思います。本当にありがとうございました。父が、お世話になりました」

 本当なら母が言うべきだったことを、わたしは号泣していた母に代わって言い、先生に頭を下げた。それでも涙は出なくて、自分でも何て冷たい娘だろうと思ってしまった。

「――パパ、今までホントにありがとう。お疲れさま。もう苦しまなくていいからね。後のことはわたしに任せて、天国でゆっくり休んでね。……バイバイ、パパ」

 わたしは精一杯の別れの挨拶をして、「ママ、そろそろ帰ろう」と背中をさすりながら母を促した。母は喪主となり、葬儀社の手配やグループの顧問弁護士の先生などに連絡したりしなければならなかったからだ。

 そして、一族の中で母や父のことを(うと)ましく思っている人たちと、後継者の座を巡って争うことになるだろうと、わたしはとてつもなく()()()()()がしていた。