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「ほら、そろそろ一人目の客が来る時間だろ? この仕事は最初が肝心なんだから、準備した方が良いんじゃねーの?」
 柳瀬の言葉に、幸介は感情を殺して頷いた。「どうして指輪には笑うくせに、先輩の俺には笑顔の一つ見せないのかねえ」という嫌味に気持ちばかりの笑みを送り、幸介はデスクに散らばる資料を一つに纏めて事務所を後にする。
 応接室の扉を開けると、そこには既に、額に汗を滲ませた、四十歳半ばの小柄な男性が立っていた。落ち着かない様子で部屋のあちらこちらに視線を動かしていたが、幸介の存在に気が付くと、男は「あ、すみません」と姿勢を正す。
 幸介は指輪以外に向けられた、柳瀬仕込みの自然な作り笑顔で出迎える。
「お待たせしました。どうぞ、こちらにお掛けください」
「す……すみません。失礼します」
 男は幸介に言われた席に腰を下ろし、トレーナーの袖で汗を拭う。「宜しければ、こちらを」と、幸介が小さなタオル地のハンカチを差し出すと、まるで名刺を受け取るように「頂戴します」と言って、額と首の後ろの汗を拭いた。
「なんかすみません……ありがとうございます」
「いえ、初めてこちらに来られた方は、皆さん同じような反応をされますから」
「そうなんですか……」
 男はうつむき加減で、首だけをヘコヘコと上下に動かした。
『総合コーディネーター』
 それが、幸介の仕事だった。総合コーディネーターとは、この世界に来たばかりの人間に、住む場所やこの世の理をかいつまんで説明する役割を担っている。
 端的に言えばそれだけの仕事ではあるが、ここへ来たばかりの人にとっては非常に重要な時間となり、今後に大きな影響を与えるといっても過言ではない。事実、幸介もここへ来たばかりの頃は叶と共に何度もここへ足を運び、世話になった。幸介がこの仕事を選んだのも、少なからずここでの出会いが影響している。
「えー、田浦啓二さん。まず単刀直入に伺いますが、あなたはここへ来る前の記憶を覚えていますか?」
 できる限り優しく、自然に、笑顔で。それが、人の心に一番刺さり、効果的に訴える――らしい。真相は定かではないが、幸介もその印象だけで柳瀬のことを覚えていたこともあり、ここだけは柳瀬の教えを忠実に守っている。
「いえ、それが全く……。気が付いたら周りに何もない、真っ白なところに一人で立っていて。それで、私の後ろには変な扉があったので、もしかしたら、酔っぱらってこの扉の中に入っちゃったのかなって、扉を押したり引いたり、横にスライドさせたりしたんですけど――」
「ビクともしなかった?」
「はい。それで仕方なく歩き始めたら、急にこの場所を記す看板が見えて」
 田浦は思い出しながら話しているのか、視線が常に動いている。不安な気持ちに駆られているのだろう。その間にも、田浦の額からは汗が内側からこちらを覗くように、次々と顔を出していた。
「田浦さん、ご安心ください。ここに居る者はみな、田浦さんと同じ道を歩んでここに来た者たちです。右も左もわからぬまま、ただ足を前に動かして来たのです。良いですか? あなたは決して、一人じゃありません」
「みな……ということは、あなたも?」
「もちろんです。私も田浦さんと同じように扉の前に立ち、ここへと来ました」
「そうでしたか」と、少し安堵の表情を浮かべながら、田浦は吐き出す息とともに肩を下ろす。そして、間髪入れずに「ところで」と切り出した。
「ここは一体、どういう――」
 その言葉だけで、幸介は全てを理解する。
「失礼しました。ここは田浦さんが見た通り、『扉の中の世界』です。特に名称は無いので、ここに暮らす人々は『中の世界』と呼んでいます」
「中の……世界?」
 田浦は幸介の言葉の意味、おかれた状況を整理しようとするような表情を浮かべると、言葉を発することなく、瞬きの回数だけが増えていく。
「中の世界に居る人たちもみな、田浦さんと同じく過去の記憶がありません。最初に私がした質問も、単なる確認作業に過ぎません。私たちは自分がどのような生い立ちで、どんな過去を背負い、どれほどの未来を描いていたのかを知らないのです。だからこそ、ここでは全てが『自由』です。趣味や仕事、更には恋愛も。記憶はありませんが、幸いにも身体は動き、感情は働きます。変に記憶が残っているより、余程建設的だと思いませんか?」
 田浦の瞬きが止まる。程なくして、話を受け入れるようにゆっくり頷くと、真っすぐ幸介の目を見てから口を開く。
「それは確かに……そうなんですかね。あなたの話が真実であるなら、色々な成長過程をすっ飛ばして、新しい人生を手にしたようなモノですから」
「ええ、おっしゃる通りです。そして、私の話が真実であるかどうかは、これから田浦さんご自身の目で確かめていけば良い」
 田浦の顔から困惑の色が消えていく。代わりに、希望にも似た笑みが浮かび始めた。
「私は何をしても自由――なのですね?」
「縛られるモノはありません。やりたい時に、好きなことをしてください。ちなみに、味覚や嗅覚は残っていますが空腹になることはなく、中の世界では食べ物を食べなくとも問題ありません。交通事故などで外的損傷を受けても大丈夫です」
「え、それってどういう――?」
「どのようなことが起きようと、ここで死ぬことはないという意味です」
 儚い希望が散るように、田浦は再び表情を曇らせた。眉根を寄せ、次の言葉を待っている。
「もうお気づきかもしれませんが、我々の居る『中の世界』とは、すなわち『その後の世界』であり、言ってしまえば〝死後の世界〟なんです。ですから、もうこれ以上、命を落とすことはありません。但し――」
 この「間」は幸介によって意図的に設けられたモノだったが、田浦の緊張を煽るには十分な効力があった。田浦は瞬きもせずに幸介を見つめ、唾を飲み込む。
「田浦さんの元に〝手紙〟が届いた時、あなたはあの扉の先へと、戻らねばなりません」
「それは、つまり――」
「『外の世界』へ行く。ということです」
「外の世界……」
 田浦は幸介の言葉を繰り返し口にする。しばらく目を泳がせながら考える素振りを見せた後、田浦は言った。
「私はまた――生き返るということでしょうか?」
 その瞳には、ぬか喜びはしない、という強い意思が込められているようだった。幸介は表情を崩すことなく、田浦の問いに応えていく。
「生とはリセット。死とは継続です。捉え方によっては、それらが循環しているように映るかもしれません。ですが、正確には違います。外の世界へと旅立つ時。それがあなたの、本当の意味での最期ということになります」
「『生』が……本当の意味での最期ですか?」
 田浦の気持ちに蓋をするように、幸介は静かに頷いた。
「で、では〝手紙〟とは? その手紙は、いつ頃届くんです?」
 乾いた唇を尖らせ、田浦は身を乗り出す。ここに来た全ての人が見せるその表情は、幸介の脳裏に、「あの日」の出来事を蘇らせる。
「それは――私たちにもわかりません。手紙は何の前触れもなく、中の世界において自由の象徴といわれる伝書鳩によって、突然、運ばれてくるのです。わかっているのは、〝誰の元にも、いつかは必ず「その日」が来る〟ということ。そして、私たちは『その日』を目標に、精一杯の『自由』を生きていく必要があるのです」
 田浦の視線は凄みを増し、感情を言葉に乗せて吐き出した。
「目標って……そんな制限がついていては、とてもじゃないが自由とは言えないじゃないですか。先が決まっていて、その中の自由を謳歌しろなんて……あなたの言うことは、机上の空論に過ぎませんよ」
「それはそうなのかもしれません」幸介は田浦に同意するように、頷きながら下を向き、ゆっくり深い息を吐く。そして再び、柳瀬直伝の笑顔を田浦へと向けた。
「ですが、限られた自由だからこそ、精一杯生きる価値があるのです。田浦さん。私はそう言われるみなさんに、いつもこの話を贈っています。私が生きる、〝等身大の自由の話〟を」
 そう言って、幸介は「あの日」のことを口にした。

 ――叶と結婚してから三ヶ月後。
 幸介はいつもと変わらぬ朝を迎えていた。ベッドから身体を起こすと、ほのかにコーヒーの香りが漂っている。
「おはよう。今日もいい天気だね」
 食卓にはトーストと目玉焼き、それから昨夜のホワイトシチューが並べてある。叶は食器を洗う手を止め、一日の始まりを教える笑顔をくれた。
 食べなくとも死ぬことはないが、二人で共有するこの時間にこそ意味がある。
「おはよう、幸介。ちょうど今、コーヒーが入ったとこ」
 水色とピンクのマグカップ。幸介がプロポーズをした日の帰り道、たまたま見つけた雑貨屋で購入した物だった。これを見る度、あの時の「温度」を思い出す。
「ありがとう。んー、良い匂いだね」
 その香りを楽しむように、幸介は大きく息を吸った。
「あ、そうだ。今朝ね、郵便受けに〝手紙〟があって」
「手紙? 誰から……?」
 「手紙」という言葉に、胸の奥がチクリと痛む。
「それがなんと……あの時の神父さん」
 胸を撫で下ろす幸介とは裏腹に、叶は嬉しそうに手紙を抽斗から取り出し、幸介へと手渡した。そこには二人の結婚式の写真と、簡単なメッセージが添えられている。
「うわ、本当だ。そうか、今日は結婚式をした日からちょうど一ヶ月……。こんな粋な事をしてくれる神父さんが居るんだね」
「素敵よね。あの日の言葉、私、今でも夢に見ちゃうもの」
「俺もだよ。確か――」
 二人は神父の言葉を口にする。
「命とは、心の炎が宿ること。結婚とは、心の炎をわかつこと。さあ、目を閉じて、相手のことを想いなさい。新たに授かりし心の炎は、やがて互いの胸に光を灯すでしょう。そして、灯った光を信じなさい。さすればいつまでも、互いを感じることができるでしょう」

「この時を持って、汝の心に、想い人の炎は揺れる」

 その言葉を言い終えた――時だった。
 あの時と同じ穏やかな風が室内へと流れ込み、その風に乗るように、一羽の鳩が「何か」を口に挟んで飛んできた。鳩はそれを叶の机の前に置き、再び来た道を音もなく帰って行く。
「これって、もしかして……」
「うん。きちゃった……みたいだね」
 机に置かれた「何か」は、〝手紙〟だった。平常を取り戻したはずの心臓が、身体から飛び出さんとばかりに暴れ出す。一方で、叶は落ち着いた様子のままに、手紙を読み進めていく。幸介にはその表情が希望にも、絶望にも映っていた。
 手紙を読み終えると、温かな朝食もそのままに家を出る。向かった先は――あの扉の前だった。
「『生とはリセット、死とは継続』かぁ」
 扉の前で、叶は扉を見つめたまま呟いた。
「『継続』って言っても、当時の記憶はないわけじゃない? そう考えると、『継続』って言葉を使うのは変だと思わない?」
「確かに……そうだね」
「結婚式で誓いの言葉を言った時、幸介は言ったよね? 『「絶対」とか「誓う」とか、そんな不確かなモノは「信じる気持ち」で補われているんだ』って」
 幸介は言葉にすることなく、力なく頷いた。
「だからさ……私、信じてみようかなって思うんだ。ここで幸介と出会って、夫婦になれたのは、『外の世界からの継続』だったんだって。私たちはきっと、『あっちの世界』でも出会ってた。ここでまた出会えたのは、あっちの世界で灯った光のお陰なのかもしれないね。……あなたの光を感じられて、私は本当に幸せでした。またどこかで――会えたら良いな」
 叶は静かに、扉を閉めた。
 最後の言葉を、中の世界に残して。

 〝そう信じて生きていくことも自由〟でしょ?

「君は一足先に、新しい心の炎が灯ったんだね……」
 幸介は扉に向かって、涙ながらに呟いた。
 ――そっちで君が迷わないように、これからもずっと、君を想うよ。


 絶対と誓った、「生」がふたりを、分かつまで。