今日は最悪な一日だった。
 推しが芸能活動を休止に追い込まれてしまった。
 推しているのは男装アイドルのキョウ。クールな切れ長の瞳に長身でスタイル抜群。
 男性には真似できない美しさの極みをコンセプトに中性的なルックスで人々を魅了していた。
 出身地も性別も年齢も明かさないで活動をしていたが、あるスキャンダルがきっかけで女性であるということがバレてしまった。
 ファンの中には男性だと思って推していたという人もいて、それはそれで涙を流す者もいた。
 どっちでも応援するというファンもいたが、女性だと感づいていたファンもいた。
 宝塚の男役のスターを思い浮かべればいいかもしれない。
 キョウの場合は、メイクはナチュラルだったし、服装もいたってカジュアルで親近感が持てるアイドルだった。
 スキャンダルの内容は、アイドルキョウは女性だった!! あの大物女優の夫と不倫!!
 キョウの事務所側のコメントは既婚者だとは知らなかった。
 ましてや大物女優の夫だということは知らなかったということだった。
 大物女優Aは独身美人を売りにしており、夫が一般人であったため、あえて発表はしていなかった。
 ネットで見た夫の画像というのは思っていたよりもずっと地味で、なんで美しい人とばかり恋愛関係になれるのかわからない雰囲気だった。

 とにかく、しがない田舎町のOLである小野美里(おのみさと)はキョウが芸能活動を休止してしまい、大物女優の圧力により芸能界を干される可能性が高いという事実にショックを受けていた。とは言っても、美里の日常が何か変わるわけではなく、日々の仕事をこなし、帰宅して夕食を食べて入浴をして洗濯をして眠る。それ以外の何かがあるわけではなかった。どんなに落ち込んでも仕事をしなきゃいけないわけで、ご飯だって食べるわけで、結局推しがどうなっても美里には何もできないわけで。

 美里には人とは違う部分があった。
 補聴器がないと聞こえないということ。
 生まれ持ったもので、補聴器があれば一般的な生活を送ることができる。
 聴力が弱いせいで、一般の人と比べると発音や活舌が悪いことが難点だった。
 そのせいで、小中学校時代はよくいじめられた。
 自分にはどうすることもできない聴力や言葉の発音のことで、ずっと肩身の狭い思いをしていた。

 スマホに保存しているキョウの美しい姿を眺める。
 そして、帰路につく。いつも通り、駅から歩き、スーパーで食材を買って古いアパートに帰るだけ。
 恋愛する相手がいるわけでもないし、特に趣味があるわけでもない。
 
 推し活を始めたのは、憧れていた中学校時代の同級生がアイドルになったことを知った時だった。
 だから、美里はキョウが女性で本名が間宮響香(まみやきょうか)だということを知っていた。
 でも、ずっと憧れていた人で好きだと思っていた人だったから、男装をしていてもすぐに気づいた。響香とは同じクラスだった。田舎町には珍しい透き通るような美しい女性だった。美里にとってはキョウが男性でも女性でもどっちでもよかった。

 中学時代にいじめられていた時に、響香は美里をかばってくれた。
 男子よりも高い身長だったし、男っぽい風貌の少し低めのハスキーな声は他の男子を圧巻させていた。
 響香は女子からも人気があったため、美里はなんとか女子のグループにも入ることができた。
 響香がいなかったら、その世界線はなかったと思う。

 響香は中学時代は髪が長かった。
 でも、中学卒業と同時に親の都合で引っ越していった。
 噂では児童養護施設に引き取られたということだった。
 家が複雑で、美容院代の節約のために髪を切らずに伸ばしていたという話も聞いていた。
 でも、清潔感ある凛としたたたずまいは他の誰よりも美しかった。

 一番悲しかったのは、週刊誌にキョウの生い立ちが複雑で児童養護施設出身だということまで書かれていたことだ。不倫は悪いことかもしれない。でも、もし本当に不倫だと思わずに交際していたら、キョウは被害者だ。なぜ生い立ちまで面白おかしく書かれてしまうのだろう。なぜ貧乏で苦しい時代をさらされなければいけないのだろう。

 響香はキョウとして別人として世に羽ばたいたはずなのに、今更他人が間宮響香のことをそんなに悪く書くのだろう。プライバシーがない。芸能人は自分の個人情報すら守ることができない運命なのだろうか。目立つ仕事につくということはそれだけ足を引っ張るものがいるということだ。

 イライラした美里は缶ビールとおつまみを買い、アパートへ向かう。
 そこにはいつもと違う風景が広がっていた。
 裏に雑木林が広がるような古いアパートの前にこの地域には不似合いな人が立っていた。
 帽子を目深にかぶり、背が高く、長い足がジーンズ越しに見える。
 黒縁の眼鏡に白いシャツブラウス。
 ショートカットの茶髪。
 目の前にいたのは芸能人のキョウだった。

「ひさしぶり」
「キョウちゃん?」
 目の前にいたのはずっと応援していた間宮響香ことキョウだった。
「色々あってさ、地元に戻って来たんだけど、親もいないし、友達もいなくて。美里ちゃんの実家に聞いてここまで来ちゃった」
 ぎこちない笑い方。申し訳なさそうに長身をかがめる。
 実家は同じ町にあるけど、一人暮らしをしたいと古いアパートを借りた。
 もう実物を見ることもないかもしれないと思っていたキョウが目の前にいた。
 会話することもないだろうと思っていたし、連絡先も知らなかった。
 中学の卒業以来の再会。
 学生時代から憧れていた人。八頭身でモデル体型。
 本当はかわいい洋服が好きだけど、あえて中性的な売り出し方をしたというのも知っている。
 透き通るような雰囲気は他の人には真似ができないオーラだった。

「しばらくここに泊めてくれないかな。もちろん、お金は払うから」
 いきなりで驚いた。でも、世間が騒いでいるから大変なことも、帰る場所がないことも知っていた。
 だから、お金なんか払わなくても受け入れたい、あの時の恩を返したい。
「いいよ。ずっとここにいてよ」
 快諾だった。

「やっぱり美里は男前だね」
 男装アイドルに男前なんて言われるほど、美里はかっこいい容姿ではない。
 でも、この世界で美里を頼ってくれたというのは嬉しい事実だった。
 この部屋の中にグッズやポスターがたくさんある。
 本人に見せたら引くかな。
「ちょっと待ってて。片づけるから」
 とりあえず、グッズを箱にしまって、ポスターは剥がそうとしたところ――。
「すごい!! 僕がたくさんいるじゃん」
 キョウは僕と自分のことを呼ぶ。
 中学生時代は「あたし」という一人称だったが、芸能界では中性キャラ故、キャラとして引き立てるためなのか僕というのが口癖になっているようだった。

「ごめん。このグッズは、キョウのファンをやってたから、たくさん買ったんだよね。引くよね」
 キョウは笑って答える。
「実物がいるってどんな感じ?」
 ポスターと並んで笑う。
 ワイドショーで色々言われている人と同一人物とは思えないような笑顔だ。
 最初に会った苦笑いは消えていた。
「推し活してたんだよね」
「知ってたよ。ファンレター送ってくれてたでしょ。嬉しかったよ」
 本人に言われると無性に照れる。
「個人的な連絡は事務所から禁止されてたし、思ったよりも芸能界って忙しくて連絡できなかった。ごめんね」
「いいよ。私は再会できたことが嬉しいから」

 こうして女二人の共同生活が始まった。
 キョウは仕事はゼロの状態だったし、家事が得意なので、家のことをしてもらうことにした。家事全般は幼少期からこなしていたらしく、苦にならないらしい。見かけによらず主婦業が得意。
 掃除も料理も子ども時代からしなければいけないという状態だったとかで、慣れていた。
 大人になって凝った料理も作れるようになったらしい。
 インタビューに休日は料理を作っていると答えていたが本当だったらしい。

「とりあえず再会にかんぱーい」
「乾杯」
 二人はとりあえず買ってきたおつまみと総菜で夕食を済ませた。
 ひととおり懐かしい話をして、あまり深くはお互いに聞かなかった。
 ときおり見せるキョウの辛そうな顔が少し気になった。

「中学の時、背が高くて男っぽいって言われたことがずっとコンプレックスだったんだ」
 初めて聞く推しのコンプレックス。全然気づかなかった。
 家族に問題があったことも当時は全然気づかなかった。
 きっと気づかれないようにいつも笑顔を作っていたのかもしれない。
 芸能界でも同じで、きっと辛いことを覚られないようにしていたのかもしれない。

「ネットニュースにもなってるけどさ、相手はただの相談相手。僕、芸能界でやっていける自信がなくて、力づけてくれた芸能関係者だったんだ。好きだとは思っていたけど、僕の片思い。付き合っていたわけじゃないし、ただ一緒にいただけなのにね」

 ただ一緒にいただけの写真が不倫と書かれていただけなのかもしれない。
 片思いだったのに、不倫扱いされてしまっただけなのかもしれない。
 マスコミに追われ、休業宣言をして田舎に帰ってきたキョウはしばらく響香として生活を送ることとなった。
 その日は特別疲れていたらしく、少し食べるとキョウは来客用の布団で眠ってしまった。
 来客用とはいっても美里の親しか使ったことのない出番のない布団だった。

 推しで同級生のヒーローとの同居は美里の乾いた生活に潤いを与えてくれた。

 耳に手をかざす。
 両耳につけていないと生活できない補聴器。小学生時代の内向的な美里はいじめの対象となった。
 特に男子がわざと外すいたずらをしたり、背後から音もなく近づき驚かすようなことをしてきた。
 ないと不便なのにあるといじられるものが補聴器だった。
 女子たちの間でも言葉が変だとかひやかしは結構あった。

 中学生になって他の小学校から転校してきた響香は陰口が嫌いで、曲がったことが嫌いだった。
 学級委員も推薦されるような人望のある生徒だった。
 かっこいい女子というのは間宮響香のことを言うのだろう。
 ずっとそう思っていた。助けられるだけの存在だった美里が初めて助ける番となった。
 キョウの寝顔をほほえましく見つめる。
 彼女の顔立ちはあの頃と全然変わらなかった。
 近くで見ると肌はきめ細やかできれいだった。
 透明感のある肌色だなと改めて見惚れる。
 化粧なんてしなくても素肌がきれいだな。

 あの時、一見同じ要素のない二人だったけど、二人はきっと困っているという点で共通していたのだと思う。
 響香は家庭のことで困っていて、美里はいじめられたことで困っていた。
 困っていた二人が今につながった。

 推しのお手製の晩御飯が待っている。
 中小企業の事務の仕事に就いてから初めて心を躍らせながら帰宅をする。
 まるで恋人ができたみたいな感じ。
 ずっと彼氏もいないし、体に障がいがあると結婚は難しいことにも気づいていた。
 狭い世界だけで生きていた美里。
 少人数の社員。生き返りの電車。いつも買い物するスーパー。その程度の人間関係。
 学生時代に仲良くなったというほどの友達はいなかった。
 一緒の教室で勉強しただけ。
 卒業したら会う関係でもなくなっていた。

 社会人になった頃にキョウが大ブレイクしてしょっちゅうテレビで見かけるようになった。
 ドラマが当たり役だったのか、ネットでも公式動画チャンネルが大人気となっていた。
 今は大人数のアイドルが普通だけど、キョウは個人活動のアイドルのような位置にいた。
 本人が言ったわけではないけど、いつのまにかキョウはアイドルという括りになっていた。
 見た目がかっこいいし、演技がうまいし、モデルとしても映える。
 キョウと同居をしていること。
 絶対に会社の人には秘密だ。
 でも、キョウは当たり前のように普通に近くのスーパーで買い物をしてくる。
 一応かつらを持っていて、変装はしているらしい。
 連日テレビのワイドショーで取り上げられたら、芸能人に疎い田舎のおばちゃんにもばれるかもしれない。
 
「今日は鍋をつつこうよ」
 帰宅すると今が旬の野菜をきれいに切って土鍋で煮込んでいた。
「牡蠣鍋なんかどお? きのこもたっぷりでますます肌がつるつるになっちゃうよ。実は牡蠣がタイムセールしていてさ」
 エプロン姿も様になる。キョウは弱みを見せない。
 キョウの美肌の秘訣は料理なのかもしれない。

「しばらく、ここで過ごしたら東京に戻るの?」
「芸能界は厳しい世界だからね。言い訳しても信じてくれないよ。世間は面白いネタが欲しいだけだと思うし、もっと面白いネタが見つかったらそっちに注目の対象が変わるんだよ」
 あっけらかんとしている。
「無期限休養って言っておいて忘れた頃に復活するのが定番。今、事務所経由で出版社から連絡が入っているみたい」
「本を出すの?」
「実は前からエッセイは書いていたんだけど、小説も書き溜めてたりするんだよね。こんな時だから、暴露本みたいなものを求められているみたいなんだけど、暴露はしたくないんだよね。小説として実話を交えて書くならいいって答えておいたよ。それを読んだ人には不倫をしていないってことが伝わると思うし。でも、出版社側は不倫をしたって書いてほしいみたいでね」

「してないのに嘘つくのはおかしいでしょ?」

 二人は牡蠣鍋をつつきながら、ビールを飲む。
 冷えたビールと温かい鍋の対比が体に沁みる。
 買ってくれた食材は見切り品の野菜を使っているらしい。
 そうは思えないようなシャキシャキした白菜やしめじを口に運ぶ。多分、こういう瞬間が幸せというのかもしれない。味付けは醤油系であっさりしていた。キョウがスタイルがいいのは野菜をたくさん摂取して体にいい食べ物を取り入れているからなのかもしれない。
 節約家なのは育ちなのかもしれない。
 まだまだキョウのことは知らないことでいっぱいだった。

 次の日からキョウは書き溜めていた小説と実話を絡めて小説を書き始めた。
 ノートパソコンは持参していた。
 元々個人的に動画を配信していたこともあったけど、今は活動ができない。
 こんな時は、水面下での仕事をするしかない。

「頼れる親もいないから、とにかく仕事、何かはしないとね」
 お金の大切さを知っているから貯金は怠っていなかったという。
 質素な手料理に質素な服装は華やかな芸能人のイメージとはかけ離れていた。
 パソコンのキーボードが動くのが見える。
 小さな音は美里には聞こえないけど、きっといい文章が紡ぎだされているのだろう。
 エッセイとかコラムはちゃんと読んでいた。
 昔からキョウは小説を読むのが好きで、紡ぎだされる文章が読みやすく洗練されていると感じていた。
 ショートカットの似合う後ろ姿はやっぱり素敵だなと見惚れてしまう。

 耳が悪い美里にとって視覚からの情報は入りやすい。
 視力は幸いいい方なので、活字として本になるならすごく嬉しいと思った。
 不倫の事実はなかったと世間の人にいずれわかってほしい。

 キョウは美里が仕事に行っている間、動画を見ながらヨガをしたり筋トレをして体を維持していた。
 家事をして夕食の準備をする合間に小説を執筆していた。
 夕食の時間、キョウが提案した。

「久しぶりに通っていた中学校に行ってみたいな」
「中学生に見つかったら大変だよ」
「じゃあみんながいない時間がいいね。日曜日の夕方なら部活やってる人もいなさそうだよね」

 今日は焼き魚のさんま。今が旬で塩をつけて焼くだけで食欲が増す。
 雑穀米にして小松菜の味噌汁は程よい塩加減だ。
 あっさりしてるのにだしが効いていてうまみがある。
 芸能人は一般人よりもヘルシーなのかもしれないと勝手に思う。
 キョウの料理はあまり多く油を使わないし、旬の食材をうまく体に取り入れている。

「旬の食材って人間にいいんだって」
 キョウが何気に夕食を食べながら言い出す。
「夏は体を冷やすようにしてくれる食べ物が多くて、冬は体を温めてくれる食べ物が多いんだよ。今は年中売ってる野菜も多いけど、本当は旬の物はいいっておばあちゃんに聞いたことがあってさ。僕、おばあちゃん子なんだ」
 中学の時におばあちゃんが面談に来ていた記憶があった。

「高校生になるころに、おばあちゃん突然死んじゃってさ。児童養護施設に引き取られたんだよ。でも、案外楽し語り食べ物にも困らないし、良い場所だった」
「ずっとおばあちゃんと二人暮らしだったの?」
「小学生の頃はお母さんと暮らしていたこともあったんだけどね。ネグレクトっていうのかな。家事とか自分でやらなゃいけなくなって。おばあちゃんも時々手伝いに来てくれてたんだけど、頑なに母子家庭を貫きたいとか言ってて。結局彼氏と家出して、僕は捨てられたんだ。結局、中学生の時は、おばあちゃんと暮らしてたんだよ」

 複雑な人間関係。きっとキョウの親は外見は美しかったのかもしれない。
 彼女の遺伝子がそれを物語っている。
 でも、心は美しくなかった。だから、子どもを捨てた。
 せつなくなって涙が出た。

「私、生まれつき耳が悪いから、いじめられていて、キョウちゃんのおかげで私は楽しく中学時代を生活できた。恩人なんだよ。高校にもなんとか通えたし、突然キョウちゃんがいなくなって寂しかったよ。もう会えないと思ってた。だから、テレビで見かけた時に、すごく嬉しかった。日本のどこかでキョウちゃんも頑張ってるって」

「実は僕も美里の二次創作の小説をずっと読んでたんだよ。フォローして、更新されると通知が来る設定にしてたんだけどね」
「中学の時のペンネーム覚えてくれていたんだ?」
「更新されなくなって、元気かなとは思っていたんだけど、連絡するのも気が引けてね」

 美里は中学時代にアニメにはまって二次創作をしていた。
 社会人になるまではペースは遅いけど、好きなアニメのキャラを使って小説を書いていた。

「なかなかファンなんてつかないし、読まれてないし、忙しくなって辞めちゃったんだけどね。アカウントは残してるよ」

「僕も本名や芸名では登録できないから、ゲストとして登録してたんだけどね」

「これから本を出すような人が読むような代物ではないよ」
「でも、誰かが読んでくれたら書き手としては嬉しいだろ? 僕は書いてるからわかるんだけどね」

 女二人のきままな生活が当たり前になった。
 久しぶりの中学校の校舎を目の当たりにする。
 夕方近くになって、サッカーゴールと鉄棒がある校庭に足を踏み入れた。
 一応長い髪のかつらをつけていてバレないようにはしていた。
 黒縁メガネにロングスカートはキョウとは思えないような印象を与えていた。

「何も変わっていないね。変わったのは僕たちなのかな」

 その一言がとても深い意味を感じてしまい、美里は何も言えなくなった。
 美里はあの頃と何も変わっていないと思っていた。
 ただ年齢を重ねただけで、学生ではないだけ。
 本質は何一つかわっていないと思っていた。
 でも、キョウは芸能人になって有名人になっていた。
 あの校舎で勉強していた時とは変わっているのは当然だ。
 あの時よりも少し古くなった校舎の壁。
 でも、同じ場所なのにもう同級生は誰もいない。
 同じ制服を着て、同じように授業を受けていたとしても、知り合いはもういない。
 先生も全員変わっているだろう。
 カラスが鳴いている夕暮れは、下校時刻のあの空気を思い出す。
 茜色の空は燃えるような色合いで、赤とんぼがただ空を飛んでいる。
 二人は時の流れを感じていた。

 とてもなつかしくてどこかくすぐったいような気持ちになる。
 母校というのはいつでもおかえりなさいといってくれる母なる存在なのかもしれない。
 ここから始まった友情。
 ここはスタートの場所。
 すごく心地がいい。
 中学校の校舎のまわりを一周して変わったところを無意識に探していた。
 草が生い茂っていた校舎裏は今はきれいに整備されており、時の流れを感じていた。
 誰もいない校庭は少しさびしいような気もしたけど、隣に大切な友達がいるから寂しくはなかった。

 中学校へ遊びに行った帰りにマスコミらしき人に写真を撮られた。
 突撃インタビューをされる。

「写真は勝手に使わないでください。彼女はただの友達なので、迷惑はかけられません」
 キョウは静かだけどすごく迫力があった。
 穏やかな中に棘がある感じがする声の抑揚。

「こっちも仕事だからね。不倫は事実なの?」
「既婚者だとは知りませんでした。もうあの人と会うことはありません」

 こんな田舎町にいることを突き止められて、私たちの平穏な毎日が壊されてしまうような気がして、美里はとても不安になった。

「大丈夫だよ。取材されたとしても、事務所を通して記事になるから。勝手に掲載はされないことになってるんだ。事務所には今は掲載をしないようにお願いしている。なるべく僕のことを忘れてもらうためには記事にされては困るから」

 取材くらいで微動だにしないキョウはやっぱりすごいなと思う。

「帰りにラーメンでも食べて帰ろうよ。ネットの口コミで良さそうなところ調べておいたから」
「キョウちゃんってラーメン食べるの? なんか意外。ヘルシーな食事がきめ細やかな肌と美しいスタイルの秘訣なのかと思ってた」
「人間時々本能のままに高カロリーの食事を摂取しないとダメなんだよ。ヘルシーな生活の維持って難しいんだよね」
「たしかに。私も週末にドカ食いすると普段はあっさりした食事で平気かもしれない」
「僕も時々思いっきりスイーツを食べたり、塩分が高いと言われる食事を摂取してるんだよ。これがスタイル維持の秘訣」
 にこっと笑うキョウ。
 一緒に入ったのは老舗のラーメン店でお世辞にもおしゃれとは程遠い感じがした。
 メニューも少ないお店だったけど注文したラーメンはつやつやした麺が光っており、スープはあっさりしているのにこくがある醤油味だった。スープは黄金色をしていて澄んだ色合いだった。隠れた名店発見!! とテンションが上がる。麺のコシ、歯ごたえがちょうどいい。麺の太さも好みだった。ラーメンにも相性があると思う。人間と同じなのかもしれない。

「まずは醤油ラーメンが基本だろ。東京でもここはという店を探して一人で食べに行っていたんだよ」
「今日は二人だね」
「一人より二人のほうがおいしいと思うんだよ」

 二人の麺をすする音は案外よく響き、補聴器越しにもおいしそうな音が聞こえていた。

「恋愛って足枷になるような気がするんだよな」
 ふと、キョウが言う。
「足枷って?」
「僕のお母さんは恋愛に溺れて家出をした。残された子どもにとって大迷惑だった。今度は僕自身、恋愛のスキャンダルで仕事ができなくなってしまった」
「私の場合、恋愛自体したことないんだよね。だから、そういうときめきみたいなものに憧れるかな」
「でも、ときめきの先に悪いことが待っていたら?」

 考えてもみなかった。たいていのドラマや小説の世界ではいつも都合よく美男美女が出会って、ときめいた先に幸せがあった。でも、現実はそうとは限らない。

「この歳で、恋愛自体わかんないって痛いかなって思ってたんだよね。でも、それも運命なのかもしれないね」

 運命という形で片づけられる恋愛。
 でも、恋愛する相手に出会わないのも運命。
 無理して背伸びをする必要はなにもないんだ。

「もし、恋愛ができるときがあれば、それが自然の流れだし、できなければそれでいいんじゃないか?」
 キョウはラーメンをすすりながら正論を突きつける。

「今この瞬間が一番幸せが続いたら、ずっと幸せじゃん?」
「たしかに」
「僕は今この瞬間が幸せだと思ってる。気づけば幸せは目の前にあるもんだろ」
「恋愛の予感もないけど、毎日おいしいものを食べて、普通に働いて、キョウちゃんがいる。この生活が幸せだね」

 二人の視線は同じ方向を向いていた。
 今が幸せ。おいしいラーメンがあって、楽しい会話がある。
 その日食べたラーメンは人生で一番美味しかった。

 それから、キョウと美里は時々色々なラーメン屋に行ったり、深夜にお菓子を食べることもあった。
 もちろん、普段は美味しくてヘルシーな料理が中心だけど、自分へのご褒美を二人は怠らなかった。

 キョウの取材は事務所が法的手段に出るということで誰も来ることはなくなった。
 ただ静かで平凡な毎日がそこにはあった。
 今までグッズでしか見たことのないキョウと同じ風景の中で生活をして、たくさん二人の写真を残していた。
 キョウは貯金がたくさんあるようで、当面生活に困ることもなくのんびりした生活を送っていた。
 ほとんど趣味の延長である小説の執筆はキョウにとってはやり場のない思いをぶつける場所となっていた。
 書くことで自分を表現したい。みんなに理解してもらいたいという気持ちがあったのかもしれない。
 執筆はキョウにとって居場所となっていた。

「編集さんとやりとりしているんだけど、形になってきたよ。事実、不倫をしていないから、主人公である僕の芸能界での葛藤とかそういう暴露本なのかもしれない。表紙は今売れっ子のイラストレーターさんなんだけど」

 表紙をスマホで見せてくれた。
 中性的な人間が少し困っているようなポーズだ。
 星が散りばめられたような背景の中に人間が立っている。

「表紙のイメージは、中立と葛藤というのがテーマなんだって。イメージはキョウ。中性的な売り出し方に少し疑問を持つ女性」

「きれいな表紙だね。表紙の絵に惹かれて買う人もいそうだね」
「中身を読んでがっかりされないようにしないと。気合入れてる」

 キョウの髪の毛はだいぶ伸びて、最近は後ろで一つに結んでいる。
 改めて見ると女性としても美しいなと思う。
 端正でくせのない顔立ち。
 あっさりとした目鼻立ち。
 みんなが惹かれるであろう鼻筋と目元のすずしい印象。

「キョウちゃんはイケメンだよね」
「美里のほうがイケメンだよ」
「顔立ちが万人受けするスタイル抜群のキョウちゃんは自慢の友達だよ」
「実はさ、母親から連絡があったんだ」

 彼氏を作って家出したという母親。親ではなく女を選んだ人だと言っていた。

「連絡先よくわかったね」
「事務所に連絡があって、母親の電話番号と住所が書いてあったよ」
「連絡するの?」
「どうせお金貸してとか言われそうだし、距離をとったままにしたいなって思うんだ。実の親子だから幸せになれるわけじゃない。今の幸せを破壊されたくないから」

「遺伝子はたしかに同じものを持っているんだと思う。でも、同じ人間ではないから、親子でも価値観は違うと思うよ。無理して会うこともないんじゃない?」

「美里に同意を求めたのはやっぱり親への良心とか無意識の愛情が無視していいものではないと言っていたからなんだと思う。ありがとう、これで連絡をしないという決意が固まった」

 ほっとした表情のキョウは微笑んだ。

「どこか自分を捨てた親に対して無視することへの罪悪感が湧き上がっていたんだと思う」

 キョウは優しいから、ひどい相手にも優しくしようとする姿勢がある。
 でも、その優しさに付け込まれたら後戻りができなくなってしまう。

「母親は僕を探して会いに来る可能性もある」
「その時、キョウちゃんはどうするの?」

「お金を貸してしまうかもしれないし、一緒に住もうと言われたら断れないかもしれない。芸能人としてのキョウとはかけ離れた優柔不断な性格なんだよな。芸能人のキョウはクールで冷静なキャラだったから、ファンが知ったらがっかりだよな」

「私はがっかりしないよ。どれも同じキョウちゃんでしょ」

 先程までキョウは台所で野菜を切っていた。出てきたのは野菜たっぷりの野菜スープ。
「最近、お菓子たべたりしてたから、お腹空いた時の間食用に野菜スープを作ってみたんだ。温野菜って体を温めてくれるから体に優しいんだよな。おなかもいっぱいになるし低カロリーの一品」
「まるでキョウちゃんみたい」
「なんだよそれ」

 二人は笑いあう。

「少しおなかが空いた夜食に野菜スープをいただくね」

 夕ご飯を食べてからだいぶ時間が経っていた。お風呂に入って後は寝るだけなのにお腹が空いていた。
 体が冷える冬場は厚着をすることが多かった。
 冷え症には冬は辛い。

「少しショウガを入れると体があたたかくなるんだ。残った野菜を取っておいて、切って入れただけだから家計にも優しい一品だよ。根菜は体を温めてくれるんだって」

「キョウちゃんは食品ロスをしないよね。最後まで使い切るし、野菜もほとんど捨てないよね」

「捨てられる部分には実は栄養があったりするんだ。ちゃんと本を読んで勉強したから」

 本当になんでもちゃんとしている。努力家で堅実で真面目な人。

「もし、お母さんに一緒に住もうって言われたら、私という先約がいるからダメって断ってね。理由があれば心が痛くならないでしょ」

「よく僕のことをわかっているな」

 その夜食べたスープは薄味なのに、野菜のうまみが溶け込んでいて、染み込む美味しさだった。
 隠し味には、キョウの優しさが含まれているのかもしれない。
 捨てられるはずだった部分の野菜は形はいびつだけど、煮込まれていてとてもやわらかく口の中ですぐ溶けていった。じっくりことこと煮込まれたスープは愛情にあふれていた。

 何度も改稿をして仕上がった見本書が届いた。
 キョウの芸能人としての葛藤や芸能界の闇を描いた新作と帯には書いてあった。
 小説という形で一応フィクションとはなっているけれど、ほとんどキョウの歩んできた話だった。
 実物の表紙は画像で見るよりも色が鮮やかで、つい目にとまる色使いだった。
 主人公らしき人物も男なのか女なのかわからない風貌だけどかわいらしい感じに仕上がっていた。
「これが世に出るのか」
 感無量といった感じのキョウの顔は今までのどれとも違うものだった。

 久々にキョウの記事がネットをざわつかせた。
 キョウから見た芸能界の世界がこの本に詰まっているとかキョウの現在はどうなっているのだろうとかみんなが関心を久々に寄せていた。

 こんな田舎にいるなんて思いもしないだろうし、別に悪いことをしているわけではない。
 不倫の事実はなかったということも書籍からネットを通じて一般人に浸透していた。
 怒っていた女優も特になにもコメントはしていなかった。
 好きだとは思っていたが、ただの片思い。よき相談者というワードが怒る理由を摘み取ったらしい。
 芸能界から干されたとか言われていたけど、事務所には仕事の依頼は来るようになったとのことだ。

「もう少し、休業期間を延長してここにいたいな」
「でも、テレビの仕事ならもっと都会に住んだほうがいいよね」
「あくまでここで生活したいと思ってるんだ。執筆メインで仕事をしたいとも思ってる。仕事の時だけホテルに住んで、ここに戻ってくるっていう生活が理想なんだ。ここは生まれ育った町だから」

 キョウは自分らしく生きる道を模索しているのだろう。

「ここで、ルームシェアするのは僕には合ってるみたいだから。休業が空けたら忙しくなると思う。芸能の仕事はオンとオフの差が激しいんだよね。オフの期間はここで執筆と家事をして過ごしたい。ダメかな?」

「でも、売れっ子のキョウちゃんならもっといいマンションに住んだほうがいいよね? セキュリティーも欲しいところだし」

「実は不動産屋さんで調べたんだけど、この町の中心部にセキュリティーのばっちりないいマンションがあるんだ。しかも、ペットと住めるらしい。もちろん、僕が家賃を払うから、家賃は福利厚生に含まれているってことで。宿付き飯付きのマンションでルームシェアしよう。実はアシスタント兼マネージャーを募集中なんだよね。引き受けてくれないか?」

「でも……」
 申し訳ないと思う。こんな好条件は贅沢すぎるような気がする。

「今回のことで恩を感じてるんだ。僕は収入があるから、家賃を払うのが妥当だろ。ここ、高いけど、一緒に住みたいし」

 甘えてもいいのかなと美里は少し考えてしまった。

「中学の時、子猫が捨てられていたんだよね」
「僕の家は貧乏で猫を飼う余裕はなかったから。貧乏なのもコンプレックスだったな」

 遠い目をして正直に話してくれるキョウは誠実だと思えた。

「私の家で引き取ったけど、すぐに死んじゃって……」
「だから、あの時できなかったけど、今なら猫を飼うこともできるんじゃない?」

 あの時、お金がなくてできなかったこと。
 子どもだからできなかったこと。
 今ならできるんだ。

「じゃあ、猫付きで一緒に暮らさせてください。仕事も転職します。よろしくお願いします」
「こちらこそ」

 最初に再会したときのキョウの表情とは別人のように輝いていた。

 その後すぐに、キョウが書いた自伝小説は大ヒット。
 普段小説を読まないファンたちにも浸透して、ファンでも何でもない人たちも読んでいた。
 この小説は書店員が選ぶナンバーワンとなり、大きな賞を受賞した。
 有名人が書いたというのは大きかったのかもしれないが、読みやすく面白く書いたのはキョウの実力だった。
 推しと同居という生活になるなんて思いもしなかったけど、キョウのアシスタント兼マネージャーとして美里は転職することとなった。それくらいキョウを世間に知らしめた小説となり、生活は一変した。

 こんな時間がずっと続けばいいのに。
 そんなセリフを一生言いながら生きていきたいね。
 二人は口癖のように公私共々支え合う存在となっていた。
 傍らには猫がいる。
 普通よりもハンデがある美里は幸せになるなんて考えてもいなかった。
 結婚して子どもがいる暮らしが幸せなんだと刷り込まれていたような気がする。
 だから、一生幸せになれないような気がしていた。
 今まで、日々の暮らしで精いっぱいだった。
 人生何があるかわからない。
 同級生の推しになって、一緒に住んで一緒に仕事をすることになるなんて。
 絶対にこれは今、幸せだと実感する。

 キョウと一緒に食べるご飯はとってもおいしい。
 一緒に見るマンションからの絶景はとてもきれいだ。

 気づけば幸せは目の前にある。キョウの口癖だ。そして、これがキョウの次回作のタイトルらしい。