鮮烈なオレンジの光を瞼の内側に感じる。

 真珠(ましろ)は腰を抜かしていた。瞼の上下をゆっくりはがすように目を開ける。体がぎしぎししてぎこちない。

 尻もちを着いたまま、ぐるっと周りを見渡してみる。目の前に広がるのは三百六十度の青。足元は真珠が寝ていた病室のシーツのように白い。

 暖かさの元を探すようにして上を向くと、オレンジの日差しが真珠の真上にあった。電球の明るさとは比べものにならない。

 風が体に優しくまとわりついて、真珠を撫ぜる。

 ――気持ちいい……。

「ようこそ! 我らの同志、真珠嬢よ!」

 真珠は我に返って声の主を見た。

 ――そうだったわ! マッシュの手をつかんだら、急にパチンって水球に包まれてはじけて……。

 座り込んだままの真珠にマッシュが満足げな表情で声をかける。

「外の世界はいかがかな?」
「ここは?」
「おお! そうだった。まずは我が友を紹介しなくては。今日からは真珠嬢の友でもある、フランクだ」

 マッシュは胸を張って、持っていたステッキで地面を二~三度軽く突いた。

「フランク、今日から我々の旅に加わってくれる真珠嬢だ」

 マッシュがそう言うと地面がゆっくりと大きく動き出し、少し離れたところで突然、水の柱が突き出した。

 真珠には、それがすぐに水とはわからなかった。

 ――噴水?

 マッシュは持っていたステッキを、足元でこつんとワンクッション跳ねさせると、天に向けて掲げた。ステッキの先から帆のようなものが開き、傘になって二人を覆う。

 噴水が早かったのか、マッシュの傘が早かったのか、どちらが先だったかわからなかった。よくある光景なのだろう。マッシュは手慣れていた。

 水柱は高く高く上っていき、随分上で花火のように散らばった。空で放たれた細かい水しぶきが、虹色に輝きながら、雨になって降ってくる。

 真珠は誘われるように、マッシュの傘から外へ出ていた。水しぶきの中にある、虹のかけらを受け止めるように両手を開く。マッシュが病室で跳ねた青とピンクのジェリービーンズが、くるくる舞うのを少し思い出しながら。

「ハハハ、男二人のむさ苦しい旅での紅一点、彼も喜んでいるな」

 マッシュは姿勢よく、真上にステッキを向けたまま傘を閉じた。

 白い地面の振動を感じる。

(……ニチハ……)

 ――何か聞こえ……る?

 真珠は周りを見回した。マッシュ以外には誰もいない。何か聞こえなかったか訊ねようとする真珠に、マッシュは『シィー』とするようなジェスチャーをして微笑んでいる。

「心に語りかける声に耳を傾けるんだ。誰かが君に語りかけたいと思う気持ちを、君が聞き逃すことのないように……」

 マッシュはひそひそと喋った。大きな唇は動いていたのか動いていなかったのかわからなかった。

 真珠はマッシュの言葉を頼りに、再び目を閉じ耳を澄ます。

 誰かがわたしに語りかけたい……?

 少し時間が経ったような気がした。

(コンニチハ、ハジメマシテ……)

 とてもゆったりとした、心が落ち着くような声が真珠の中から聞こえてくる。

 ――わあ……。

「ぼくの名前はフランク!」

 急に鮮明な声が弾んだ。それは明るくうきうきした声。小さな少年のようだ。

「わっ……わたしは真珠! よろしくね。フランク!」

 真珠はきょろきょろしながら挨拶する。どこを見ればいいのかわからない。

「よろしくね、真珠! びっくりした? 驚かせてゴメンネ。ぼくは白クジラのフランク。名前はマッシュがつけてくれたんだ。真珠とマッシュはぼくの上に立っているんだ! ぼくら白クジラは、君たちとは違って心でコミュニケーションを取るんだよ」

 ぼくの上に立っている?

 真珠は慌てて足元を見た。病院のスリッパが、びしょびしょになっている。真珠はスリッパを脱ぎながらフランクに訊ねた。

「空を泳いでいるのね? 顔が見たいわ」

 真珠がそう言うと、フランクの潮が追加で漏れるように噴き出してきた。マッシュが迷惑そうに、でも少し楽しそうにしぶきを避けている。

「えー? ちょっとハズカシイな」

 フランクは照れながら、その背中を大きく捻れるように揺らして、背中の端から顔を起こして真珠を見ると、恥ずかしそうにパチンと斜めにウィンクした。

「ハハ!」

 マッシュが右のポケットにステッキを引っ掛けながら口を挟んだ。

「フランクはわけあって他の白クジラたちとはぐれてしまってね。そこで困っていたフランクに出会った私が、彼の仲間を探す旅を買って出たのだよ」
「そうだったの」

 慰める言葉を真珠はあまり知らない。真珠がもどかしげに次の言葉を探していると、マッシュが言葉を繋いだ。

「そこで偶然立ち寄った先の君も外に出たいと言うし、我々の利益は一致している。どうだろう? 真珠、君もフランクが彼の仲間に会えるように手助けしてくれないだろうか?」

 手助け? 真珠は急に話の矛先が自分に向けられたことに戸惑いながら言った。

「助けるなんて! わたしには何もできないわ。だって体も弱いし、あんまり動けないし、学校にだって行ってないし……」

 そうよ何を言っているのかしら。無理に決まってる。

 そんな真珠の様子は関係ない、といったていでマッシュは寛いでいた。旅の同行がすっかり決まったかのように満足げだ。

「お願い! 一緒に来てよ」

 変わり映えのしないやりとりがしばらく続く。

 フランクはウキウキしている。マッシュは何度もジェリービーンズをピンピン跳ねさせる。真珠は断るのに疲れてきた。

「わかったわ。わたしもフランクが他の仲間に会えるように頑張ってみる」

 マッシュは一段落したとでもいうように、澄ました顔でごそごそと何か始めた。

「マッシュ! 仲間が増えたね! やった!」

 フランクがウキウキする度に、潮が漏れ出てくる。

 潮をかぶったら、フランクのウキウキ病がうつってしまいそうだわ。真珠は思わず笑った。

「決まりだね!」

 フランクがもう一度盛大に潮を吹くと、マッシュは黙ってステッキの傘を掲げた。

 フランクの真っ白い背中の上には、湖やらヤシの木、ビーチパラソルやらテーブルが並べられていた。

「居住スペースの紹介をしたいところだが……。まずは着替えなければ」

 裸足でずぶ濡れになっている真珠を見て、マッシュはステッキを一回転させて手招きした。

「確か、彼の置いていった着替えがこの中に……」

 ブツブツ言いながら衣装箪笥を開いて、中を物色している。

「ああ! あった! あった!」

 取り出したのは淡いブラウンのウェスタンシャツとデニムのサロペット。

「それは?」
「ああ。以前一緒に旅をしていた者がいたんだが、彼は別の目的のためにここを離れることになったのだよ」
「それで……その人はどこへ行ったの?」

 マッシュは懐かしそうに服を広げて、ほつれた袖口やら、あちこちをしきりに見つめている。ひとしきり見つめ終わると、服を真珠に渡しながら答えた。

「何でも偉大な魔法使いに脳みそを貰いにいくとか言ってたな。私が思うに、彼にはそんなもの必要ではなかったのだがね」

 真珠は服を受けとると、着替えるところを目で探した。それに応えるようにマッシュが傘を開き、真珠を視界から隠す。

「着替えたわ。ありがとう」
「うむ。少し大きいようだね。袖と裾を巻くるといい。鳥に突つかれないように気をつけて」

 マッシュはステッキをしまいながら脅すように言った。真珠は少し怖くなって辺りを見回す。

 フランクの潮が笑うように噴き出した。

「よく似合っているよ! 真珠!」

 マッシュが背中を向け喉を膨らまして言った。

「さあ出発だ!」

 一行は青空の中進み始めた。