真珠(ましろ)はいつの間にか眠ってしまった。

 コンコン。

 音がする。検温の時間? 誰も入ってこない。

 コンコン。

 瞼を開いてドアを見る。誰も入ってこない。

 コンコン。

 窓から音がするみたいに思えて、真珠は起き上がった。

 ――なにかしら。

 真珠がカーテンを開けると、窓の外でテカテカとしたカエルがシルクハットを少し浮かせてにっこりと会釈している。真珠はぎょっとした。

「お嬢さん、中に入っても?」

 真珠が慌てて窓を開けると、カエルは、

「ありがとうマドモアゼル……」

 そう言いながらひらりと窓から飛び降りて、病室に入ってきた。改めて真珠に向き直り、胸に手を置く。

「お名前を頂戴してもよろしいかな?」
「まっ、真珠よ」

 カエルは笑いながら名前を復唱する。

「マドモアゼル・マシロ。お嬢さん。愛らしい名前だ。これは失礼。大変驚かせた様子」

 カエルは、燕尾服にシルクハットを被っていた。動作が仰々しい。真珠を見つめ、うやうやしい態度で胸を張る。

「私は、ルイ・マッシュ・ギャレットⅡ世。マッシュと呼んでくれて結構。外から見たこの部屋の目の覚めるようなカーテンに興味が湧いてね、どうしても立ち寄ってみたくなったのだよ。この世界は実にそっけなく、色も香りもあまりないのでね、長居は無用と思っていたのだけれど、どうだろう。灰色の建物の中で目の覚めるような青色が私を誘っているではないか。これはぜひご挨拶に伺わねばと思ってね」

 ――この世界? 色がない?

 真珠は何を答えていいかわからなかった。
 ただなんとなくこのカエルに賛同しないといけないような気がして、思いつくままに早口で喋った。

 ずっとこの部屋にいること。昨日は朝から晩まで検査で、ストレッチャーに乗せられて、ガタガタ移動ばかりしていたこと。薬ばっかりで外で走ることもできないこと。
 だから空を見るのはこのカーテン越しくらいだってこと。

 マッシュと名乗るカエルは、真珠の言葉を遮るようにして、胸ポケットから長方形のブリキ缶を取り出した。

 それを耳元の辺りでカシャカシャ鳴らすと、指で器用に蓋をスライドさせて、中から何かをピンと跳ねて口に放り込む。一粒取り出したそれは、空色カーテンと同じ目の覚めるような青色のジェリービーンズだった。

 カエルは得意気に、二~三度喉を膨らます。

「マドモアゼル・マシロ。伺うところによるとあなたはこの状況に満足していない様子。ではなぜこんなに狭い部屋に閉じこもっているのかい? 外の世界はここより比べものにならないほど広いのに、君の世界はこの小さな私でも窮屈と感じてしまうほど小さい」

「わ、わたしは病気で身体も不自由なんだもの。だからここから出る力もないわ」

 真珠は言い訳のように慌てた。――そうよ、わたしだって出たいわよ。そう。誰よりもね!

 マッシュが、ベッドサイドにある伏せた写真立てに目をやった。真珠はマッシュの視線の先に気づいて、言葉を止めて下を向く。

「それはあなたの事情も知らずに失礼した。それではこうしてはどうだろう。私と私の相棒とともに広い世界に出よう! なに、心配することは何もない」

 マッシュは両手を広げた。

「ソレはココではない場所。そう遠くない世界。君の目にその世界のすべてが摩訶不思議に映ったとしても、それは至極当然。だってソコはココではない場所なのだから!」

 ――これは夢?

 真珠は急に不安になってきた。

 ――カエルが尻尾のついた黒いスーツを着て、わたしの病室にいて、広い世界に出ようって言ってる。それに二本脚で立って、ジェリービーンズを食べてる。第一どうして喋ってるの?

 マッシュはシルクハットをポンッと頭に置き直し、ジェリービーンズの缶を胸ポケットに戻しながら、しかめ面でジロリと尋ねた。

「私の話が信じられないかね?」
「え、えぇ。ごっ、ごめんなさい。その、なんていうか、わたし昔から病気がちで、体も弱かったから、他の子のようにあまり外で遊んだこともなくて、それに、あなたのような人とお話するのも初めてだから、その……ごめんなさい、混乱してて……」

 カエルは聞いているのかいないのか、喉を何度も膨らませたりしぼめたりしている。 
 真珠は、謝ったのは変だったかしら、どうしよう、傷つけたかしらと必要以上に悩みながら繰り返した。

「ごめんなさい! 信じられないって言ってるんじゃなくて……」

 カシャカシャ。

 言い終わるか終わらないかのうちに、マッシュはまた胸ポケットからジェリービーンズのブリキ缶を手に取り、耳元でカシャカシャ鳴らして一粒はじいた。ピンとはじいた今回のそれは、鮮やかなピンク。

 真珠は、そのビーンズがくるくると宙に舞い、マッシュの長い舌で絡めとられて口の中に収まるのを見つめた。――このカエル、わたしの話聞いてたかしら。

「ソコへ行くには、ココから出ようと思うほんの少しの勇気と、信じる気持ちがあればいい!」

 マッシュが手を差し延べる。

「さあ! 同志よ!」

 いつの間にか真珠はマッシュの視線に操られるように、その手をつかんでいた。
 マッシュが喉を膨らますと、大きな水泡がどこからともなく現れて二人を包んでパチンとはじけた。