まだ朝霧の残る中、複雑さを増す足元を進んでいく。細かい木の根がいくつも重なり合うようにして、地面から盛り上がっている。木々から折れ下がった枝が、二人を邪魔する。

 朝霧は晴れるどころかますます深くなり、視界が奪われていく。苔の足元、ゴツゴツの斜面、枝葉がしなって顔や体をはじく。

 二人がその道なき坂を登って進んでいた時、真珠が急に足を踏み外した。「キャアア!」とすごい声を上げ、坂を転落して落ちていく。その声はすごい勢いで遠のいていった。

「真珠!?」

 マッシュは慌てて振り返り、坂を走り降りた。

「真珠ー!」

 大声で叫ぶ。真珠を探すが見つからない。なんてことだ! 何も見えない!

 真珠を呼ぶ自分の声だけが森に響く。森の中は相変わらず霧深く、視界はほとんどなかった。

 どれくらいさ迷い歩いたのか、ポケットの懐中時計は既に夜の十時を指していた。

 マッシュは真珠を呼び続けた。

 視界の悪い中マッシュは延々と彷徨い歩き、気力も体力ももはや限界を感じていた。

(……マ……シ、ロッ!……)

 マッシュは声にならない声で、真珠の名をかすれ呼ぶ。

 マッシュは、彼女をこのエルセトラに連れて来てしまったことを深く後悔していた。

 自分があの病院から真珠を連れ出さなければ、彼女にこんな思いをさせずに済んだ!

 異世界のあの青色のカーテンの向こうで、ふて腐れていた少女を見たあの日から、あの狭い病室から連れ出すことが彼女の幸せだと信じて疑わなかった。

 私は彼女の希望を聞いていたか。自分はなぜ冒険に出たのか。こんな結果を招くことを自分は望んでいたのか。

 混沌とする意識の中、視界も平衡感覚までも、すべてが朦朧とする。

 マッシュはついに力尽き、その場に倒れ込んだ。


 どれくらい気を失っていたのか、マッシュを呼ぶ声が微かに聞こえる。

(……マッシュ……おい、マッシュ!……)

 聞き覚えのある懐かしい声だった。

(マッシュ! 起きろ! マッシュ!……)

 この声は……パット先生?

 だんだんとその声がはっきりと大きく聞こえてきた。

「マッシュ! しっかりしろ! この未熟な弟子めが!」

 この声はやはりパット先生だ。そう確信し、マッシュは目を覚ました。慌てて跳ね起きて、おぼろげな気持ちを奮い起こすように激しく首を振って前を向く。そこには確かに自らの師匠が立っていた。

「パッ、パット先生! なぜここに!?」
「まったく! フラシアスから連絡を受けて心配になって来てみれば!」
「あぁ! 私はッ!……私はッ!」

 マッシュは、この森で起きた大変な出来事と、師匠であるパットに出会えた安心感から、抑えられぬ感情が込み上げる。嗚咽が走った。

「もういい……もういいんだ。おまえが無事だったことが私にはなによりも幸運なことなのだから……」

 マッシュの感情は爆発し、まるで小さな子どものように声を上げて泣きじゃくった。言葉にならない思い出が脳裏を駆け巡る。散々泣いて頭の中が空っぽになった頃、パットが言った。

「少しは落ち着いたか?」
「……ぶぁぃ!……」

 マッシュは真っ赤な目をこすり、パットを仰ぎ見た。鼻をスンスンとさせながらパットに訊ねる。

「パット先生! これからどうすれば?」
「とにかくこの霧では迂闊に動くのは危険だ。今はこの場に留まった方が良い」
「でも先生! 真珠はきっと私の助けを待っています!」
「だろうな。しかし今、私たちにできることはない」

「でも、だからって、ここで留まって何もしなければ真珠はますます危険な目に遭ってしまいます!」

 すがるように見つめるマッシュをパットは一蹴した。強く厳しい口調で言い放つ。

「自惚れるな! この未熟者めが!」

 マッシュはその声に震え、再び目に涙が溢れた。パットは続ける。

「なぜこうなった? よく考えてみろ! ろくに準備もせず、霧の中を軽はずみに移動し、この森を甘く見たおまえの力不足から来た結果ではないのか!?」

 マッシュはワァワァ泣きながらパットに答えた。

「でも! でも! フラシアス先生はこの森について何も教えてくれませんでした!」
「だから自分は悪くない、悪いのはすべてフラシアスだとでも言いたいのか?」
「ちっ、違いますけど! ……でもッ……! でもッ!」

 マッシュはしゃくりあげていた。

「すべてはおまえの力不足が引き起こした結果なのだよ。おまえにこの困難を乗り越える力があれば、こうはならなかった」

 マッシュにもう言葉は残っていない。ただただ泣き伏すだけだった。気持ちが潰れていく。

「ここに来るまでに何匹もの腹を空かせてさ迷う狼を見た。残念だが、
霧が晴れても彼女はもう……」

 そう言って、パットは言葉を止めた。

 マッシュは愕然とし、膝を落として地面に手を着いた。立てない。かすれた声からは、泣き声すらも聞こえない、声なき叫びだった。

 辺りを覆い隠していた霧が散り始め、空の闇が目に映る。月はない。

 マッシュは四つん這いになったまま、空に向かって喉を開く。口から息だけが漏れる。声はかすれて音を成さない。

 それからどのくらい経ったのか、辺りを覆う霧はすっかり晴れていた。

「さて、霧も晴れた。そろそろここを発とう」

 マッシュは抜け殻のように這いつくばったままだ。

「いつまでもここにいたら私たちまで危ない。真珠を襲った狼どもがいつこっちに来るかわからないだろう?」

 マッシュはふらふらと立ち上がった。

「よし、行くぞ」

 パットはまっすぐに歩きだす。マッシュはその後を力無く追う。
 木々が風にざわめく。狼の遠吠えが聞こえる。マッシュはビクビクとしながら、ただ先生の背中だけを虚ろに見つめて足跡を辿る。

 どれくらい歩いただろう。随分長く歩いた気がする。足の感覚が無くなりかけている。マッシュは手探りで懐中時計を取り出す。時刻は夜の十時……。

 なんだ……。あれから全然経ってないじゃないか……。きっと壊れたんだな……。

 懐中時計をしまい、再び足を踏み出す。

 三股に枝分かれた大きな木の側を通り、蜘蛛の巣にまみれたまだ子どもの木を横切り、小さな岩が沢山転がる道を進み、急な傾斜の坂道を下り、青白く光が浮かぶ花々の間を通りぬけ、岩肌が剥き出しの坂を降り、木の根が作り出したトンネルをくぐり抜けた。 

 マッシュの脳裏に黒いノイズが走る。マッシュは首を振った。何かが変だ。

 マッシュはパットに問いかけた。

「先生、いったいどこに向かっているのですか?」
「森を出るんだ、帰るんだよ」
「でもクイーンに会わなくてはフランクの仲間のいる場所がわかりません」
「大丈夫だ、白クジラの子なら私が後で責任を持って群れに戻そう。おまえは何も心配しなくていい」
「フランクの群れはどこに? まさかスノーディアを知っているんですか!?」
「もちろんだ。だからおまえは私の元でまた一から学ぶのだ。この教訓を活かすためにも、おまえは私の元に留まり、そして学ばなくてはならない。二度とこんな悲劇を生まなくてすむように賢く、そして強くなるのだ」
 マッシュは立ち止まった。

「どうした? マッシュ」

 パットが振り返る。

「私はあなたに教わった言葉に感銘を受け、そして旅に出た。しかし、そのあなたが今度は自分の元に留まれと言う」

 マッシュはまっすぐにパットを見た。

「何を言っている? 賢く、そして強くなければ広い世界でやっていけるはずがないだろう」
「貴様は誰だ!?」
「おまえの師であるパットだ。血迷ったのか?」

 パットを見定めるマッシュの目に力が戻る。胸ポケットからギャレットケースを取り出し、強く握りしめた。頭の横に腕を挙げ、意を決したようにカシャカシャと鳴らした。

 いったん動きを留め、ジェリービーンズをはじく。宙に舞う赤いビーンズをさらうように舌でつかんで飲み込んだ。

「いいや! 貴様はパット先生の名を語る偽者だ!」

 パットは黙っている。
 マッシュはステッキをパットに向けて叫んだ。

「正体を現せ!」

パットがスローモーションのように口を開く。低い声が二重になる。

「なぜわかった?」
「大海を知らない私に、大海を見て来いと進めたのは他でもない、パット先生だからだ!」

 パットの体に森の暗闇が集まる。周りの闇が放射状に筋を成し、パットに激しく突き刺さるように集束していく。集束し続ける放射状の闇が、これ以上ないほどに闇を増し、いったん限りない膨張を見せたかと思うとパットを飲み込み一瞬にして消えた。

 次の瞬間には、まぶしい陽の光がマッシュの真上から降り注いでいた。

 いったいどうなっているのかとマッシュは混乱し、ポケットの懐中時計を見た。懐中時計の時刻はちょうど正午を指している。夢だったのか?

 その時、懐かしい鳴き声が遠くの方から聞こえてきた。

 ポッポー♪ ……ポッポー♪ ……ポッポー♪ ……