「おい、杉村、杉村ってば!」
 階段を下っていると、上から声が降ってきた。
 億劫な顔を隠さず見上げる。見覚えのある顔がこちらを見下ろしていた。廊下の窓から差し込む夕日に、銀縁眼鏡の縁が光っている。
「何回呼ばせるんだよ」
「なにか用か」
 渋い顔で抗議する彼に、麻人も仏頂面で返事をする。
「用がなければ呼んじゃだめなのか」
 踊り場からこちらを見下ろしていたのは、東野雪弥だった。切れ長の目を眼鏡の奥で細くし、麻人を眺めてから、東野は手すりから身を乗り出した。
「香坂に聞いたんだけど、伊藤まだ原稿上げてないんだって?」
「ああ」
 苦々しく頷くと、東野は皮肉に笑ってみせた。
「そもそもにおいて伊藤が部長ってのがわからないんだけど。お前がやればいいだろ」
「お前は俺が嫌いなんだろうが」
「嫌いだけど。それがなに」
 心底嫌そうに吐き捨ててから、東野はため息交じりに言った。
「少なくとも、伊藤よりお前のほうがきちんと俺の文章を読んでいると思う」
「…………なんでそう思う」
 もしや、こいつの小説を読んで、うっかり涙ぐんだ姿を目撃されていたのか。ひやっとしながらも口調だけは冷淡に問い返すと、東野はふいっと横を向いた。
「お前の評論、ムカつくから読みたくないんだけど、それでもつい読んでしまう。お前がけなすところは俺がいつもだめだと感じているところだから」
 ぼそぼそと言ってから、東野はこちらに視線を戻した。
「けど、今回はそう簡単にはけなさせないからな。今度のやつ、結構自信があるんだ。きっちり読んでくれ」
 もう読んださ、しかも泣かされたぜこのやろう、と思ったが、麻人は顔に出さず、ああ、と短く頷いた。
 正直、驚いていた。
 東野雪弥は、顔がものすごく良い。だがそれに反比例するように性格はかなり変だ。変人と言っていいだろう。
 理数系クラスで常にトップクラスの成績を修めているが、本人の趣味は、泣ける恋愛小説を書くこと。図書室のあらゆる本を読み漁り、貸出履歴に彼の名前を見ない本はないと言ってもきっと過言ではない。性格は偏屈で特定の人間としか一切話さず、気に入らない授業をする教師には、わざと教師ですら答えられないような難解な質問をして授業を妨害する。ようするに非常に厄介なやつだ。
 その東野に麻人は猛烈に嫌われている。麻人は態度が大きく、口が悪く、評論で自分の作品を正面からけなすからだ。
 友好的な態度など、期待できるはずもなく、顔を合わせれば冷たい言葉の応酬になるのが常だった。
 ようは相性が最悪なのだ。しかも東野は麻人を嫌っていることを公言している。
 その東野がだ。この自分に、きっちり読んでくれ、などと言うとは。
「前から聞きたかったんだけど、なんでお前が恋愛小説?」
 踊り場を見上げて問うと、東野は眼鏡の縁に手をやった。
「変かな」
「変だろ。恋愛に興味あるなら、言い寄ってくるやつらにもっと優しくしてやればいいだろうに」
 東野は信じられないほどもてる。彼の性格を知っている自分などは、性格抜きに外見だけで愛情を抱けるなんて、彼女たちは菩薩かなにかなのだろうか、とただただ感心するばかりなのだが。
「お前馬鹿か」
 東野はせせら笑い、手すりに寄りかかった。
「小説なんてのは全部虚構だ。現実に起きなさそうな幻想だからこそ、人はそれに希望や夢や憧れを抱く。現実とは対極にあるものだからこそ書く価値がある。それに比べれば現実の、しかも高校生同士の恋愛なんて、興味が持てるわけないだろ」
「そういうものか」
 わけがわからない上にやっぱり鼻につくやつだ。会話を切り上げ、階段を下ろうとした麻人に、なあ、と東野が声をかけてきた。
「あいつにはそういうの訊いてみたことないのか」
「あいつ?」
「香坂」
 さらりと告げられた名前に、麻人は首を傾げる。
「なんでここにあいつの名前が?」
「言っちゃなんだけど、あいつの短歌にしろ詩にしろ、あいつのキャラ的にあり得ないだろ。あいつってどっちかって言うと俺寄りの人間だと思うから」
「お前寄りってなんだよ」
「人に興味がない。合理的で冷淡」
「お前、自分のことそんなふうに思ってるのか」
 呆れ顔を隠さずに言うと、東野は、ふん、と鼻を鳴らした。
「まあね。だからこそ、あいつの作品読むと、こいつはなにを思ってこれを書くのかと気になるんだ。虚構だからこそ価値があると思う俺とは違うものが、あいつの短歌にはあるような気がしてさ」
「訊いてみたらいいだろ。本人に」
「訊いたさ。でも教えてくれなかった」
 東野は軽く手を広げて首を振る。芝居がかった仕草だが、嫌になるほどさまになっている。
「あいつでも恋しているとかそういうことかもしれないけどな」
「あいつが?」
「あり得ない話でもないだろ。お前、あいつをなんだと思ってるわけ。高校生男子だし、好きな人くらいいるだろ」
「いないとおかしいみたいな言い方はどうなんだ」
「そこまでは言ってない。けど、まあ、確かに自分の台詞が自分に跳ね返ってはくるな」
 苦い口ぶりで返してから、さて、と言って、東野は踊り場から頭を引っ込めた。ひらひらっと手だけが振ってよこされる。
「まあ、部誌についてはあと任せたし。しっかり頼むわ」
 言われなくても、と思いつつ、階段を下り始めた麻人の脳内では、先ほどの東野との会話がリプレイされていた。
 香坂が恋。
 考えられないことではないが、それにしてもどうも妙な感じだ。
 そもそも恋ってなんなのだろう。言ってはなんだが、この年になるまで麻人は恋らしい恋をした覚えがない。恋愛小説は知識程度には読んだことがあるものの、どうもぴんと来ないし、恋愛にこれといって必要を感じたこともない。
 香坂はそんな麻人とは違うだろうが、いつもはきはきと物怖じしないあいつが、小説のように悩んだり不安になったり赤くなったり青くなったりするところなんて、想像がつかない。
 実際のところ、どうなのだろう。
「杉村先輩!」
 声にふっと視線を転じると、件の香坂が階段の下からこちらを見上げていた。
「あれ、今東野先輩もいました?」
「…………ああ」
 さっきの会話をよもや聞かれてはいまいな、と麻人は気まずく目を逸らす。香坂は怪訝そうに首を傾げてから身軽に階段を上ってきて、麻人の横に並んだ。
「確認したいことがあるんですけど。今、ちょっといいですか」
「ああ」
「文芸部の本、郷土研究会の展示と一緒に展示することになりましたけど、問題ありませんよね」
 報告された内容に麻人は渋面を作る。
「郷土研究会って……お前、それ、配る気ないだろう」
「いいえ、大ありですけど」
 郷土研究会とはその名の通り、この地域に伝わる、伝説やら、わらべ歌やら、郷土料理やらを調査している、非常にマイナーな同好会である。年に一回研究成果の発表のため、会報の発行を行うところは文芸部と同じだが、それに加えて文化祭にはパネル展示を特別教室の一角で行うのが常だ。が、いつも展示スペースには引くほど閑古鳥が鳴いている。その郷土研究会の展示室に、文芸部の本も並ぶと香坂は言う。
「そもそもうちみたいにこそっと部誌を出すような地味な部に、展示場所をあれこれ言える権利なんてないでしょう」
「だからって郷土研究会はないだろ。あそこ、まったくやる気なくて、毎年、去年の使い回しのパネル展示するだけだろうに」
「今年の部長はそうでもなさそうでしたよ。知ってます? 二年の宮川さくら。彼女が今年の郷土研究会の部長で」
「部長じゃなくて会長だろ」
「細かいですね」
 香坂は顔をしかめてから、気を取り直すように続けた。
「その会長の彼女、俺と同じクラスですけど、結構な切れ者で、今回の展示場所もなんと、バスケ部のメイドカフェの隣なんですよ」
「去年も思ったが、毎年毎年、メイドカフェ多すぎじゃないのか。第一、バスケ部ってあそこ男ばっかりだろ。女バスは確か今は活動してないよな」
 うんざりしながら言うと、香坂は大きく頷いた。
「まあ、去年も女装系とか男装系とか着ぐるみとか? いろいろありましたよね。けど、重要なのはそこではなくて、バスケ部がやるってとこなんですよ。うちのバスケ部、かなり強いですからね。だからこそ注目されてるんですよ。そのバスケ部の隣の部屋を郷土研究会が引き当てたそうで。これなら客足も見込めるはずです」
 胸を張った香坂に麻人はちょっと驚く。この情熱はどこから湧いてくるのだろう。自分なんかよりよっぽど部誌を配ろうと必死なように見える。
 なんです? と不思議そうに香坂がこちらを見上げてくる。焦って彼から目を逸らし、麻人は言った。
「よくもまあ、諜報員さながらに情報を集めてこられるな。八方美人のお前らしい」
 飛び出した憎まれ口に麻人は少し慌てる。こんな言い方をするつもりはないのに、つい出てしまう。条件反射のようなものだ。
 香坂は黙っている。そろそろと彼の顔を窺うと、やたら大きな目がこちらを食い入るように見ているのに気づいた。
「なに」
 ぶっきらぼうに問う。香坂はしばらく黙ってからなぜか少し笑った。
 思いも寄らぬ反応に唖然とした麻人の前で、微笑んだまま、彼は腕組みをした。
「先輩って、ほんっとうに性格悪いですねえ」
「やかましい」
 まあまあひどい言われようだが、腹は立たなかった。むしろ少しほっとした。
 このあくの強い性格のせいで人が離れていくのだということを、麻人はちゃんとわかっている。問題はあるだろうと思うが、それでも麻人はそれを改めてこなかった。弟の博人に注意されようと、教師に諭されようと。
 背筋を伸ばして、正論だと思うことを言うこと。そこに信念があるのだから、なにも曲げることはないとそう思うから。
 でも、それが万人に受け入れられも、褒められもしない態度であることくらいは理解している。
 実際、香坂に指摘されるまでもなく、文芸部では多くの部員が部を去った。その理由の多くが自分のせいだという自覚もある。責任だって感じないわけではない。皆が思うほど、わかっていないわけではないのだ。
 それでもこの性格は直りそうにない。憎まれ口は磨きがかかっていくし、人には遠巻きにされ続ける。
 唯一笑って話しかけてくる相手と言えば、目の前のこいつだけだろうか。部長の伊藤も、東野も、遠巻きにこそしないが、それでも一線を引いて接していることは感じられるから。
 こいつにはその線さえない。
 だからかもしれない。悪態を突いた自分を、笑って流したこいつに安堵してしまったのは。
 とはいえ、あまり自分らしくない感情だ。
 自身の心境に困惑しながらも、仏頂面のまま、麻人は階段を下り始めた。
「お前のクラスはなにするの」
 世間話程度に訊くと、香坂は軽い口調で答えた。
「うちは占いですね」
「子供っぽいことするのな」
 毎年この手のことをするクラスは多い。占いなんて非科学的なもの、よくもまあ熱中できる。
 馬鹿にしたのが伝わったのか、香坂はちょっと眉を上げてから、涼しい顔で応戦してきた。
「先輩のクラスはあれでしょ、お化け屋敷。そっちのほうが子供っぽいと思いますけど」
「うるさい。俺だってやりたくない」
 お化け屋敷なんてものを高校三年にもなってやるなんて、と反対したのだが、多勢に無勢、押し切られたのだ。
 不機嫌な顔で押し黙った麻人の隣で、香坂も黙っている。なんだよ、とそちらを見たのと同時だった。
「そんなこと言いながらも、先輩は頑張っちゃうんでしょ。みんなより、ずっと」
 さらり、と香坂が言った。いつもとは少し違う、柔らかい声の調子に、え、と驚いて見下ろすと、香坂もこちらを見た。
 香坂の猫のような目がすうっと麻人を映した。
 瞬間、返事が遅れた。黙りこくって彼の目を見返す麻人に、にっこりと香坂は笑い、階段を下りきったところでぺこりと頭を下げた。
「じゃあ俺、クラスのほうの準備あるんでここで」
「ああ……」
 曖昧に頷く麻人を尻目に、香坂はすたすたと軽快な足取りで遠ざかっていく。廊下でクラスメイトらしい女子に声をかけられ、朗らかに会話しながら去っていく彼の背中をしばらく麻人は眺めた。
 麻人は知っている。彼が勉強も運動もかなりできて、頭も切れ、数多のクラブから声がかかっていることを。実際、この自分と渡り合ってやっていけるだけのコミュニケーション能力があるのだ。どこでだって通用するはずなのに。
 なんだってあいつは文芸部にいるのだろう。
 そこまで考えて麻人はふっと我に返った。
 あいつのことなんてどうでもいい。
 文化祭まであと何日もないのだ。余計なことを考えている時間はない。
 麻人は軽く息を吐くと、自身の教室へと足早に歩き出した。