本堂の裏手、離れの横に、墓地はあった。
 高台の傾斜を利用して作られた敷地に、町を見下ろす形で段々に墓石が立ち並んでいる。大小さまざまの墓石が初夏の光を反射して静かな光を広げるそこには、墓地特有の線香の懐かしい香りがうっすらと漂っていた。
 ここに彼はいるという。
 家族らしい数人とすれ違い、墓地を見回した麻人は、本堂から一番離れた場所、墓地の端、傾斜の最下部に設けられた木戸の前にいる彼を見つけた。
 背中を木戸に預け、彼はぼんやりと空を仰いでいるようだ。けれど、ぽかんと開いた彼の瞳は、寺の屋根の先にあるくっきりとした青に当てられていながらも、それを映してはいないように麻人には見えた。
 かける言葉を持たず、それでも立ち去ることもできなくて、そろそろと坂を下って歩み寄ると、ふっと香坂が中空に向けていた瞳をこちらに向けてきた。
 その目は少し、赤かった。
「泣いてたのか」
 言わずもがなのことを言うと、香坂はついっと顔を背けた。
「なにか用ですか」
 声が硬い。怒らせているのはわかっていたけれど、こんなときどう言えばいいかが皆目わからない。
 随分前、博人に言われた。兄貴は本をたくさん読んでいるくせに、使い方を知らないと。その通りだと思う。思いやりを込めた台詞を探しても、よろしければお気持ちを詳しくお聞かせいただけないでしょうか、なんて、妙ちきりんなビジネス会話のセンテンスしか浮かんでこない。
 でも、ここで黙りこくっているのは、卑怯なことだと感じていた。
 だって、目の前のこいつは、全力でぶつかってきたのだから。麻人にも想像はできる。自分の想いを包み隠さず口にすることがどれほど怖いか。けれど彼は偽らずに、気持ちを正々堂々と伝えてきた。
 こいつは、そういうやつなのだ。
 だから。
「訂正したいことがある」
 声が震える。大きく息を吸って言うと、香坂は無言のままこちらを見返してきた。感情の読めない視線が注がれて、いたたまれなさを覚えたけれど、ここでやめるわけにはいかなかった。
「嫌いって言ったこと、訂正したい」
 香坂は黙っている。眼差しの色は変わらない。ああ、まったく、と香坂の口癖を頭の中で呟いて、麻人は呼吸を整える。
「嫌いじゃない。その、ええと」
 だが、麻人の言葉を遮るようなタイミングで、ふいと瞳が逸らされた。横顔をこちらに向けた彼の唇は、いびつに吊り上げられていた。
「無理しなくていいですよ」
「無理ってなに」
「無理に慰めてくれなくていいってことです」
 疲れた顔で笑い、香坂は木戸から身を起こす。
「杉村先輩は優しいから、追いかけてきてくれたんでしょう? でもそういうのは、本当に優しいのとは違いますよ」
 こちらに向けられた瞳が、困った者を見るように細められる。
「癇癪を起こしてしまって。すみません」
 声は穏やかだ。けれどどうしようもなく中身のないもののように聞こえた。
「清衣が待ってるし、戻りましょうか」
 とどめのように明るさをまとった声で言われ、麻人の中でなにかが切れた。脇を行き過ぎようとした香坂の二の腕を手荒に引っ掴む。
「先輩?」
「お前の、そういうとこ、嫌いだよ」
「そういうとこって?」
 香坂が大きな目を眇める。醒めた大人の顔だ。憤りのせいで声が止められなかった。
「自分で勝手に完結するとこ。変に我慢強いとこ。やけに大人なとこ」
「たくさんあるんですね、嫌いなところが」
 香坂が苦笑いする。その表情にも苛立ちを覚えた。
「そういう笑い方も嫌いだ」
「すみません」
 麻人が怒鳴るように付け足すと、ぼそりと香坂が謝った。その不貞腐れたような口ぶりに麻人は少しほっとした。ああ、こいつはやっぱり素直なやつだ、と思った。
「訊きたいんだが。俺のどこを好きなのか」
「……そんなこと、訊いてどうするんですか」
 香坂が僅かに赤くなる。こちらまで頬が熱くなったが、それでも訊いておきたかった。
「また怒鳴られそうだが……あのな、俺はあんまり自分が好きじゃない。人と接することも怖い」
 香坂は突如語りだした麻人を、呆然と見つめている。彼の視線から逃れるように目を逸らし、麻人はこれまで誰にも告げてこなかった話を、彼に向けて話し始めた。
「俺たちには親がいない。母親は俺たちを生んですぐ死んだ。父親は……傷害事件を起こして、今は服役している。お前、知ってるんだろ、俺の耳のこと」
 訊ねると、香坂は息を呑んだ。その顔を見て思わず麻人は微笑んでしまった。
 知っていてもずっと触れずにいてくれた。そこに目の前のこいつの優しさを見た気がして胸が熱くなった。
「俺の右耳が聞こえないのも、父親にビール瓶で殴られたとき負った怪我のせいなんだ」
 香坂は口を閉じ、麻人の顔を凝視している。その澄み切った目が、彼の気質そのものに思えて眩しくて、麻人は目線を足元へと落とした。
「あれ以来、俺は人を信用できない。親父はとてもしっかりした人だったはずなのに、突然、壊れていった。他の人間も、あるいは自分だってそうなんじゃないか……そう思ってしまう。だから俺は、人と接することがうまくできない。右耳が聞こえないことも周りに覚られまいとしてきた。知られれば、相手の態度が変わる。同情かからかいか。過度な気遣いか。いずれにしてもこれまでとは違う感情を向けられるようになる。それが俺は、怖かったんだ」
 掴んだままの彼の腕。自分より細いけれど、握りしめるとじわり、と熱が掌に染みた。その温もりにすがるように、麻人は大きく息を吸った。
「そんなふうに考えている自分が俺は嫌いなんだ。だから……お前が、自分を卑下する俺を嫌いと言ったこと……驚いて……訊きたくなったんだ。俺のどこに好きになれるところがあるのか」
「先輩がそんなにたくさん自分のこと話すの、初めてだ」
 うっとりと言われ、麻人は真っ赤になって彼の腕から手を離す。
「うるさい! とっとと教えろ」
「それ、人にものを頼む態度じゃないです。けど、そう、ですね」
 香坂は躊躇うように睫毛の下で目を彷徨わせてから、ふいっとこちらを見る。透明度の高い目に空の青が映っていた。
「真面目なところ。いつも一生懸命なところ。頑張っているのにそれを誰にも見せないところ。すごく、人のことを考えているところ」
「俺はそんな良いやつじゃない……」
「訊いておいて否定することもないでしょうに」
 呆れた顔をしてから、香坂はふうっと微笑んだ。
「先輩は覚えてないでしょうけど、俺と先輩が会ったの、部活でが初めてじゃないんですよ」
「え、いつ」
「もっと前。俺が中三のころ。受験前に学校見ておこうって思って、菊塚に来たことがあるんです」
 香坂は風によってさらりと流された前髪を軽く手で払う。髪の隙間から見えた形の良いおでこに、どきりとした。
「正門前の階段を上ってるとき、銀杏並木が綺麗で、つい見とれてて……俺は、足を踏み外して階段を落ちて。でも怪我をせずに済んだ。下から上ってきた人が、受け止めてくれたから」
 思い出すように、香坂の目が細められた。
「その人は、俺を支えてくれながら、とんでもない剣幕で怒鳴ったんですよ。ふらふらするな、怪我したらどうするんだ、馬鹿者って。それが先輩だった。覚えてます?」
 そういえばそんなことがあったような気がする。だが……わからない。
「どうしてそれで俺を好きになる」
「俺ね、あんまり叱られたことなくて」
 香坂の目がゆっくりと本堂に向けられる。法要が本格的に始まったのか、木魚の音、読経が空気を縫うようにこちらへも広がってくる。
「俺も、親がいません。生まれてすぐ、ここに、この木戸のところに捨てられてて、それをここの住職である今の父が拾って育ててくれたんです。墓地に捨てるなんて、ほんと、生みの親はひどい親だったんだろうって思うし、だからこそ、そんな俺を育ててくれた今の父親に感謝してもしきれない。そんな父を困らせたくなくて、絶対に叱られるようなことしちゃいけないって思ってて。実際、叱られたこと、ほとんどなくて」
 だから、と香坂は目を伏せる。白い頬に睫毛の影が落ちた。
「怒鳴られて、それがうれしかった。先輩は迷惑だったのかもしれないけど、あんな長い階段で、それでも走って受け止めてくれて。この人は優しい人だと思った。その人と文芸部で会って、運命かもって、思って」
 香坂の頬に朱が差す。俯いて、彼はぼそぼそと言った。
「でも先輩は周りとの間にいつも線を引いている人で、なにを考えているのか、全然わからなかった。先輩のことが知りたくて、先輩が書いた評論を何度も読みました。硬い文体だったけど、この人はとても実直で裏がない人だなって、それがなんか、読んでてわかった気がして」
 麻人の評論は確かに直線的だ。厳しすぎると東野などによく言われるが、香坂はそれを、裏がない、と感じたと言う。
「お前は、変わってる」
「そうですか?」
 香坂は瞳を和ませてこちらを見る。
「さとみってチワワの名前は、先輩の南総里見八犬伝考察を読んでつけました。難しい言葉で書かれていたけれど、先輩が八犬伝をとても好きなこと、すごく伝わったから。先輩のようにまっすぐに育ってほしいと思って」
「俺みたいに育ったら、チワワなのに恐れられるぞ」
 照れ隠しでそう言うと、香坂はゆっくりとかぶりを振った。
「そんなことはありません。俺の目は間違っていない。先輩は、とても優しい人です。俺が好きになった、素敵な人です」
「そ……」
 自分で訊いておいて、麻人は絶句した。まさかそんなにも直球で言われると思っていなかった。
 正直、自分が優しいとはかけらも思えない。だが、俺は優しくない、と否定しても香坂は聞かないだろうなと思った。こいつこそこんな優しげな面立ちをしているくせに頑固なやつだ。本当に人は見た目だけではわからない。
 でも、そんな頑なでまっすぐなところが、自分はとても……。
「フェアじゃないと思うから、俺も言う」
「なにをです?」
「……お前の好きなところ」
 さら、と彼の髪がまたそよぐ。風にかき分けられ、覗いた額を見た瞬間、今度ははっきりと心の内で声がした。
 触ってみたい、と。
 衝動のまま手を伸ばし、前髪の隙間を縫って額に触れる。自分とは違う少し高めの体温にどきり、とする。けれど、手を引っ込めたくはなかった。額からそうっと指を滑らせ、彼の頭に手を落ち着かせたとき、こちらを見つめる香坂と目が合った。
 頬を染めた彼の目は潤んでいて、その目を見たらさらに心音が激しくなったのがわかった。
「が、頑固なところ。まっすぐなところ。明るいところ。愚痴を言わないところ」
 早口でいくつもいくつも言葉を紡ぐ。言いながらどんどん恥ずかしくなってきた。でも、香坂の頭の上に置いた手を離したくはなかった。
「優しい、ところ」
「あの、訊いていいですか」
 声が震えている。びっくりして彼の頭から手を離して顔を覗き込むと、香坂は恥らうように目を伏せた。
「好きってそれ……俺と同じ、意味で……ですか」
 ぎゅっと作務衣の胸元を握り締めた手が震えている。緊張しているらしい彼の様子に、麻人は胸の奥が甘く疼くのを感じた。
 こいつは本当に俺を好きでいてくれるのだ。
「同じ、意味、で」
 一気に顔から火が出そうになったが、香坂の顔を見たとたん、熱は胸を締めつける甘い痛みとなった。
 本当にどうかしていると思う。
 目の前でふわりと綻んだ笑顔を見ただけで、こんなに心臓が破裂しそうになるなんて。
 仁王なんて呼ばれている自分が、こんな心持ちになる日が来るなんて。
 戸惑いながらも、それでも胸に宿った望みは止められず、麻人はそろそろと手を伸ばす。いまだ自身の胸の辺りを握ったままの彼の手に触れると、拳が解けた。麻人より幾分か小さなその手を彼の胸からはがし、掌で包む。応えるようにきゅっと握り返されて、なぜか泣きたくなった。
 香坂、好きだ。
 そう言いたかった。が、麻人より先に口を開いたのは香坂だった。
「清衣が、待ちくたびれていますね」
 彼の顔は赤い。だから……照れ隠しかもしれない。しれないけれども。
「……なんで今、この瞬間に、あいつの名前が出る」
「やきもちですか?」
 くすっと香坂が笑う。馬鹿言え、と口の中で言う麻人の手がぐいっと引っ張られた。
「あいつは大事な友達なんだ。だって、あいつだけは先輩の陰口を一度も言わなかった」
「香坂と矢島って……少し似てるな」
 矢島は問題が多いけれど、それでも曲がったところがない。そのまっすぐさは目の前の彼と重なって見える。
「俺は清衣みたいにイケメンじゃないもん」
 拗ねたような顏で言う彼に、麻人は思わず笑ってしまった。たまらず、握った手と逆の手でぐりぐりと頭を撫でる。
 どうしようもなく……可愛いと思ってしまった。
「お願いがあるんですけど」
 麻人が頭を撫でてしまったために乱れた前髪を細い指で押さえ、香坂が囁く。
「なに」
 首を傾げて問う。声が自分のものとも思えぬほど柔らかく響いてやはり照れ臭い。その麻人の手に重ねられていた香坂の手にわずかに力が込められた。
「名前、呼んでもらえませんか。これからは」
 風がふっと耳元を通り過ぎる。
 固まってしまった麻人に、香坂はまっすぐな目を向けてくる。猫を思わせる瞳には、やはり儚すぎる青が映り込んでいた。
「だめ、でしょうか」
「だめじゃないけど……こっぱずかしい」
「こっぱずかしいって」
 くすくすと香坂が笑う。先輩はいちいち言葉が古い、としつこく笑う彼に、麻人は、笑うな、と憮然とする。
「大体、矢島にも呼ばせてるよな、名前」
「呼ばせてるっていうか、呼ばれてるが正しいですけど。問題ですか?」
「問題じゃないが」
 気に食わない。心の奥で付け加えると、香坂は不思議そうな目でこちらを見上げてから、ええと、と呟いた。
「先輩が嫌ならやめてもらいます」
「嫌だなんて言ってない」
 まるで駄々っ子だ。羞恥心から、語調も荒くなる。香坂は大きな目を数度瞬いて麻人の言葉を受け止めてから、宥めるような手つきで、繋いだ手を上下に振ってみせた。
「清衣はわりと誰のことも名前で呼びますよ」
「俺は呼ばれてない」
「それは先輩だし。大体、あいつがそんなことしてたら、さすがに俺が困ります」
「困るって、なんで」
「いいじゃないですか、別に」
 ぷいと顔を背けてから、とにかく、と香坂は断言した。
「先輩が気にするようなもの、俺と清衣の間にはない。そもそも清衣には忘れられない人がいるんだから」
「俺は、気にしてなんて……」
 言いかけて麻人は反省した。
 偽ることは彼の前ではしたくなかった。
「いや、気にはなる。あいつは悪いやつじゃなさそうだが……なれなれしい。お前に」
 香坂がぽかんと口を開く。
 なに、と彼のほうをそろそろと窺うと、香坂は開いたままだった口を閉じた後、ついと麻人から視線を外した。
「やっぱり先輩は仁王のままでいいです」
「なんだ、それは。意味がわからん」
「わかるでしょ。さすがにわかってほしい」
「いや、本当にわからんし。はっきり言えよ」
「だから! 他の人には先輩の素直で可愛いとこ見せてほしくない、ってこと!」
 言いざま、握られていた手がぽいっと放り出される。そのまま歩き出す彼の、ぴんと背筋が伸びた後姿に、香坂、と呼びかけようとして麻人は思い直した。
「ち……」
 香坂が足を止める。ちかげ。たったの三文字を舌に乗せるだけなのに、続けられない。
 彼はしばらく黙って背中を向けていたが、肩で息を吐くとこちらに向き直った。
「ほら、頑張って」
「うるさい」
 怒鳴ると、やれやれ、と言いたげに首を振って再び彼は歩き出す。遠ざかっていく背中に、麻人の中で焦燥感が湧き上がってきた。
 気がついたら大股で彼を追いかけていた。
 ぐいっと腕を掴むと、香坂が驚いた顔でこちらを見た。
「ちかげ」
 ただでさえ大きな瞳が、ふうっと見開かれる。呼べと言ったのはそっちのくせに慌てているようだ。少し胸がすっとした。
「ま、まいったか」
「なんですか、その変な反応は」
 もう余裕の顔を取り戻している。苛立たしくなって、麻人は歯噛みした。
「お前、生意気だよな」
「嫌いになりましたか?」
 うってかわって不安そうに表情が曇る。矢も盾もたまらず、麻人は手を伸ばした。ぐりぐりと頭を撫でると、香坂ははにかむように一度視線を落としてから、顔を上げた。
 こちらに向けられた彼の顔には、柔らかく、空にほどけてしまいそうな笑顔が浮かんでいた。
 ああ、まったく。
 香坂の口癖を心の中で呟いて、麻人は彼の頭をゆさゆさと揺さぶる。
「頼むから、そういう顔を学校でするな」
「なんでですか?」
「やかましい」
 今日はあまりにもたくさん自分らしくない台詞を吐いてしまった。くすぐったくていたたまれない。香坂の頭から手を引いた麻人は、首の後ろを忙しなく掻く。
「行くぞ」
 素っ気なく言いつつ、もう一度手を差し出すと、はい、とかすかな応えの後、そっと手の中に彼の手が滑り込んできた。

 並木道 偶然触れた 手の熱さ 落ち葉見る度 思い出されて 

 香坂が詠んだ歌がふっと脳裏に蘇ってくる。
 彼は思い出し続けていたのだろうか。初めて会ったあのときに触れた、麻人の手の熱をずっと。
 自分はそれにまったく気づかなかった。
 ごめん、と心の内でそっと謝りつつ、麻人は香坂の手を握る手に力を込める。
 彼の中に残る熱を自分は知ることはできない。
 けれど、思い出の熱をもう、求めなくていいくらい、伝えることはできる。
 だから、これからも繋ごう。俺と。
 心の中で香坂に呼びかけつつ、麻人は坂道をゆっくりと上り始めた。

───了───