新聞部からの依頼であるコラム執筆を引き受けることとなり、話し合った結果、文芸部全員で月ごとに持ち回りで書く、ということで話はまとまった。
 ただ、新聞であるということ、連続小説となると一人への負担がかさむことから、基本読み切りで書くことが決まった。
 今月は言いだしっぺの東野が書く予定だ。次の月には香坂、その次の月には麻人に回ってくる。アンカーは部長の伊藤だ。文字数は八百字。少ないだけにまとめるのが難しい。
「伊藤先輩はぶーぶー言ってましたけど」
 笑って言いながら、香坂は読書に勤しんでいる。いつもの放課後だ。正直、まだ落ち着かない。でも、麻人は部室に通っている。
 意識してしまっていて、集中できていないのだが、だからと言って活動をおろそかにすることはできない。
 しかし、動揺を胸に飼ったまま過ごす麻人とは対照的に、香坂の表情はいつも凪いでいた。曇りも焦りもまったくない。
 にこやかで、毒舌で、生意気な、後輩のままだ。
「東野は、コラム大丈夫そうか」
「苦戦しているらしいですけど。でも、あの人のことだから期日には上げてくれますよ。ただ一応、落ちた場合を考えて、予備は用意しておいたほうがいいかもですね。初めてのことですし」
 淡々と返しながら、彼は本のページをめくる。今日の本は、安部公房の砂の女だ。
 こいつはなにを考えているのだろう。
 自分も本を開きながら、麻人はそっと香坂を窺う。彼はまったく気づかぬ様子で、読書に没頭している。
 なんだかどきどきしてしまっている自分が、馬鹿のようだ。
 大体、本気で好きなんて今でも思っているのだろうか。部活と恋愛は別と彼は言った。でも、それは真実だろうか。
 ふっと香坂が目を上げる。彼から慌てて目を逸らし、麻人は本に目を落とす。香坂もなにも言わず、黙って読書に戻る。
 変な感じだ。
 やはり、前とは少し違う気がする。
 からり、と音を立てて引き戸が開いたのはそのときだった。
「千影」
 呼ばれた名前になぜかどきりとする。顔を上げると、見たことのある男子生徒が佇んでいた。
 あれは確か、香坂と同じクラスの矢島だ。
「あれ、清衣(きよえ)
「あれ、じゃなくて。今日、一緒に帰る約束してたと思うけど。LINEも送ったのに」
 香坂がふっと本を置いて立ち上がる。そうだっけと呟いてスマホカバーを、ぱかり、と開く。表にフクロウが印字されたスマホカバーだった。
「ほんとだ。来てた」
「スマホの意味ないじゃん」
 呆れ果てた顔をした矢島が、今気づいたと言いたげにこちらに視線を向けてくる。
「あ、杉村さん」
 矢島の顔に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
 矢島 清衣。香坂と同じクラスのこいつは、かなりの問題児だ。
 以前はそうでもなかったはずだが、一年の終わりごろから問題を起こすようになった、
 深夜、繁華街で歳の離れた大人たちの中に混じって遊び回っているとか、他の学校のやつともめごとを起こしてけんかをしたとか、良くない噂を常に背負っている。さぼりの常習でもあり、麻人自身、授業終わりでもないのに、悠々と校門を出て行こうとする現場に出くわして、風紀委員として厳しく注意したことがある。
 そんなに素行が悪いくせに、矢島は少しもすれた外見をしていなかった。制服だって着崩さず、髪色も黒いままだ。黙って立っていれば、絵の中の少年のような清廉な見た目をしている。
 ただし、東野といい、こいつといい、姿が綺麗なものは、中身に難があるのが基本なのだろうか。性格はかなり悪い。
「杉村さんって文芸部だったんだ。知らなかった。なんか開店休業中って雰囲気ですね、ここ」
 コーヒーが注がれたマグカップを見て目を眇める矢島に、香坂がため息交じりに声をかける。
「今行く。っていうか、そもそもお前、俺のノートちゃんと読んだ? 次追試引っかかったら留年だってのに」
「そうなると困るから、勉強教えてって頼んだんじゃん」
「俺じゃなくてもいいだろ。別に」
「千影に、教えてもらいたいんだよ」
 くすっと笑って矢島が言う。その言葉になぜか麻人はどきっとした。
 千影に……。
 しょうがないな、と首を振ってから、香坂は本をぱたりと閉じ、こちらを振り返る。
「先輩、すみません。今日はこれで失礼してよろしいですか」
「あ、ああ」
 ぎくしゃくと頷くと、香坂は、すみません、ともう一度頭を下げてから本を片手に立ち上がった。
「ごめん、鞄、教室だ。ちょっと待ってて」
「わかった」
 ひらひらっと矢島が手を振る。香坂はその彼の脇を通り過ぎて、科学準備室を足早に出て行った。
 振り返ることなく、あっさりと。
「杉村さん」
 ぼんやりと戸口を見送っていた麻人は、呼びかけられて我に返った。え、とそちらを向くと、戸口横の壁に背中をもたせかけた矢島がこちらを見ていた。
「ちょっと訊きたいことがあるんですけど」
「なに」
 矢島はしげしげとこちらを見つめてから、唐突に言った。
「千影のこと、どう思ってます?」
 なんでこいつがそんなことを訊いてくるのだろう。
 黙りこんだ麻人をじいっと矢島は見つめる。その彼の唇が皮肉な笑みを形作った。
「杉村さんって、風紀委員のときはなんでもはっきり言う気持ち良い人なのに、仕事離れると、結構卑怯なんですね」
「なにを言ってる」
 やけに引っかかる言い方だ。むっとして言い返すと、矢島は、だって、とせせら笑ってきた。
「千影、告白したんじゃないんですか? あなたに。なのに、なんにも返してあげないんですね。好きとも嫌いとも。どっちつかずで。最低ですよね。そういうの」
 一気に押し寄せてきた言葉にフリーズしてしまった。
 こいつがなんで、告白のことを知っているのだろう。香坂が話したのか? なんで。
 ぐるぐるしつつも、苛立ちに胸の内が支配されていくことは止められなかった。
「なんでお前にそんなことを言われなきゃならない」
 怒りのせいで声が震える。だが、矢島は動じた様子もなく、軽く肩をすくめた。
「悪いですけど、千影はあなたといるより、俺といるときのほうが楽しそうにしてますよ。これ、どういう意味かわかります?」
「知らん。だから、どうした」
「どうした、か」
 ため息交じりにそう言った矢島の顔から、すっと笑みが消えた。
「そんなんじゃ、千影、もらっちゃいますけど」
 もらっちゃう?
 がたん、と思わず椅子を蹴立てて立ち上がったときだった。扉が開き、香坂が顔を出した。
「悪い、待たせて。どうかした?」
「なんでも」
 気のない様子で矢島はそう言い、すたすたと扉を抜け、廊下へと向かう。出て行く間際、ちらっとこちらを流し見たのがわかった。
「先輩?」
 香坂が不思議そうに声をかけてくる。そうされて、まだ腰を浮かせたままだったことにいまさら気がついた。
「いや」
 首を振って、のろのろと椅子に座り直すと、香坂は一瞬、なにか言いたげな目をした。が、結局なにも言わず、軽く会釈して出て行った。
 閉じた扉の向こう、楽しげに話しながら遠ざかっていく声がする。切れ切れに聞こえるそれを遠ざけたくて、麻人は無意識に手を上げ、左耳を覆った。
 千影、とあいつは呼んだ。そして香坂も彼を苗字ではなく名前で呼んだ。
 それがどうしたと思う。普通のことだ。まして、香坂は自分と違って社交的だし、皆に慕われている。名前で呼び合うことになんの違和感もない。そう思うのに、なんでだか、空気がうまく胸に入っていかない。
「しっかりしろよ」
 呟いて麻人は額を押さえる。
 これじゃあまるで、物語の世界で言うところの恋する乙女のようだ。
 過った思いに、自分で自分に狼狽した。
 あり得るはずがない。そんなこと。
 一度空気を入れ換えようと立ち上がり、窓を開けた麻人の目に、校門を出て行く二人連れの姿が映った。
 楽しそうに笑いながら歩く、香坂と矢島だった。
 音を立てて窓を閉め、麻人は呼吸を整える。
 これは本当に、ヤバいかもしれない。