右耳が音を拾えなくなったのは、八歳のころからだ。左耳は問題なく聞こえるが、右耳に関しては完全に機能が失われてしまっていた。
 苦労はあった。だが、耳が聞こえない、そのことで、人から同情されるなんてまっぴらだったから、必要を感じない限り、自分から伝えることはなかった。聴力に関するトラブルが煩わしかったために、人を遠ざけるようにもなった。
 しかし、まったく人と関わらないわけにもいかない。スムーズに生活したくて唇を読む術は身に着けた。それでも時々、かけられた言葉を拾いきれないことはある。そうならないために、極力、正面から人と接するようにしてきた。どうしても隣り合わせで話をしなければならないときは、左側を向けて話すように心がけていた。
 けれど、思い返してみれば、その努力を、香坂の前ではした覚えがない。
 気づいていてもよさそうなものなのに、まったく気づかなかった。
 それは多分、香坂があまりにも自然に左隣にいたから。
 そう気づいてから、どうしても香坂に会えない。
 文芸部に籍を置いて以来、委員会や、バイト、やむを得ぬ用事がない限りは部活へ出ていたが、文化祭が終わってこの一週間、部室に顔を出せずにいる。
 どんな顔をしていいのか、本気でわからないのだ。
「杉村」
 今日は雨だ。渡り廊下で、軒下から滴り落ちる雫を眺めていると、声が聞こえた。声を辿ると、東野が立っていた。
「ああ、なに」
「部誌読んだ。今回もけなしてくれてどうも」
「ああ、どういたしまして」
 投げ捨てるように返事をする。東野はむっとした顔をしたが、苛立ちを口に出すことはせず、渡り廊下の手すりに背中を押し当ててこちらを見た。
「部誌の話はともかくさ、ちょっと相談があるんだけど」
「お前が? 俺に?」
「なに、その言い方」
 東野が嫌そうに眉間にしわを寄せる。そう言われても、東野が相談などと自分に言ってきたことなど、これまで一度もなかった。唖然としながらもとりあえず促してみる。
「相談って?」
「部誌、好評だったの、聞いてる?」
 手すりに寄りかかり前髪を掻き上げて東野が問いかけてくる。
「そうなのか」
「杉村って本当に周りの噂とか興味ないんだな」
 呆れた顔をしながら、東野は肩に落ちてきた雨の雫を片手で払う。
「地味ながらもなかなか面白いものを書くってんで、そこそこ噂になってるよ。まあ、やっぱり伊藤のミステリーが一番人気みたいだけど」
「そうか」
 当たり障りなく相槌を打つ。東野は咳払いをして続けた。
「本題に入ると、新聞部から、コラムを書いてみないかって話があってさ」
「新聞部? なんで」
 校内新聞は月一回発行されていて、校区内で起こったニュース、誰それが書道のコンクールで入賞したとか、物理の安田先生に女の赤ちゃんが、とか、近隣の商店街にてイベント開催とか、ローカル情報を細々と掲載しているものだ。読者はそれほど多くないが、ほのぼのとしたカラーは校内で肯定的に捉えられている。
「俺のクラスに新聞部の部長がいてね、文芸部の部誌を読んで、新聞部の感性とは違う風を入れてみるのも面白いだろうって。一応コラムってことにしてるけど、紙面のその部分は好きに使っていいって話だ」 
「へえ……」
「へえじゃなくて。面白いと思うんだけど。やってみないか」
 呆れた顔をしつつ、東野が身を乗り出してくる。
「それ、伊藤には?」
 確認すると、東野は目に見えて嫌な顔をした。
「何度言わせる。あのお飾りの部長に言うよりお前に言うほうが早いだろう」
「……香坂には」
 香坂、と名前を口にするとき、なぜか緊張した。ぎこちなく響いただろうその名前に、東野はさして異変を感じなかったのか、けろりとした顔で頷いた。
「話した。さっき会ったから。いいと思いますが、杉村先輩に相談してみてくださいって」
「……そうか」
 あいつらしい答え方だ。
「とりあえず、お前と香坂で詳細話してみてくれ。必要であれば俺も書くし」
 さて話は終わった、と言いたげに手すりから身を起こした東野を、内心慌てながら麻人は引き留めた。
「新聞部の部長から言われたのはお前だろ。お前が詳細詰めればいいだろうが」
「俺にはそういうのは向かない。知ってるだろう」
「丸投げか」
「丸投げじゃない。適材適所で動くべきだと言っただけだ。もともとうちの部はほとんど活動らしい活動なんてしてないんだから問題ないだろ」
 こいつ、なんてこと言いやがる。
 気分を害した麻人は、憤然と言い返す。
「お前は活動していないと言っているが、活動はしている。研究発表も隔週でしている」
「杉村と香坂だけだろ。それやってるの」
 鼻で笑われ、むっとしたものの、言い返せなかった。確かに真面目に活動しているのは自分と香坂だけだ。
──香坂は……やはり俺が好きだから、文芸部にいるのだろうか。俺と一緒にいたいから、隔週の研究発表も面倒な顏一つせず毎回行っていたのだろうか。
 もしそうだとしたら、文芸に対する冒涜だ。
 拳を握りしめる麻人になど頓着せず、東野は話をまとめにかかる。
「まあそういうわけだから、あとはそっちで決めてくれ」
「いや……それは……困る」
「なんで」
 東野が面倒そうに目を細める。いや、と口ごもった麻人をしばらく眺めてから、はあっとため息をついて、東野は手すりにもう一度背中を預けた。
「俺たちは三年だし、もうすぐ引退だけど、後輩のためにも、文化祭以外での発表の場っていうの、考えてやってもいいんじゃないのか。俺たちが卒業しても香坂は残るんだから」
 東野の言葉がまっすぐに胸に突き刺さり、麻人は目を見開いた。
 東野がそんな先輩らしいことを考えているなんて、思いもしなかった。
──俺は本当にだめだ。
 香坂が先輩への思慕から文芸部に入部したのだとしても、彼が文芸部に貢献してきた 事実は変わらない。
 彼は……この自分が倒れた後も、必死に部誌を作るため奔走してくれたのだ。おそらくとても忙しかったろうに、それでも働き続けた。
 自分たちが卒業した後、香坂はこの部をどうするのだろう。考えてみたがわからなかった。
 だが、今、東野が言ったことは、頭を殴られるくらいの衝撃だった。
 理由はどうあれ、香坂は文芸部の部員だ。
 彼がこの先、この部をつぶそうと、活動を休止することになろうと、それは彼の自由だ。けれども、もしも続けていきたいと思うのならば、その機会を摘み取っていいわけがない。
 自分は……香坂の先輩なのだ。彼を、先輩として指導する立場にあるのに。
 どうかしていた。
「香坂と……話してみる」
「おう」
 頼んだ、と軽く片手を上げると、東野はすたすたと渡り廊下を遠ざかっていく。
 雨粒が、軒先を流れ落ちる。激しさを増した雨をもう一度見てから、麻人はそっと呼吸を整えた。