ただの、後輩だったはずなのだ。
 少し前までは確かにそうだった。
 でも、いつからだろう。いつから、変わってきたのか。
 自分の気持ちもわからない。けれど、何よりわからないのは、そのただの後輩の側の気持ちだ。
 彼はなぜ、嫌われ者である俺にキスしてきたのか。
 人気者の彼が、なぜ。
 杉村麻人(すぎむらあさと)はすぐ目の前にある、つややかな目を見返す。
 通常の先輩後輩ではあり得ない距離からこちらに向けられてくるそれを。
「言ったじゃないですか。こんなことしちゃうくらい好きなんで」
 麻人の口から唇を離し、彼はそう言い放った。
 ただの後輩が、頬を上気させながら、そう言った。


☆☆☆

 忙しい。
 忙しいという漢字は、心がなくなると書くから口に出すのはよくない、と使い古された言葉でしたり顔で言ったのは、弟の博人(ひろと)だ。が、忙しいものは忙しい。
「先輩」
 まったく、この書類の山は一体なんなんだ。そもそもにおいてこれを処理すべき部長はどこへ行った。少しは部長らしい行いをしようとは思わんのか。
「先輩って」
 県立菊塚高等学校の文化祭は毎年六月の中旬に行われる。この時期に行われる理由は、諸説あって定かではないが、一番有力なのは、梅雨時の一番鬱陶しい時期こそ、学生らしく梅雨の鬱屈した空気を払う活動をすべきと、何代目かの校長が言ったからだとか。理由はともかく、この時期の開催は、生徒にはかなりきつい。学校の決めたスケジュールとはいえ、当然、他の高校と同じように中間テストがあり、その後すぐに文化祭になるからだ。しかも菊塚の文化祭は近隣高校からも注目されるほど、活発で、派手だ。各部主催の出し物においては、部間で熾烈な注目度争いが勃発しており、他の部よりいかに突出した内容にするか、部活の本来の活動そっちのけでしのぎを削っている。しかも、文化祭の準備というのは、部だけではむろんなく、各クラスでの出し物の準備も同時進行で行われるものだ。文化祭に命をかけているような部に所属し、なおかつクラスの実行委員を掛け持ちでもしようものなら、学校への泊まり込みも余儀なくされる。
 ここ、文芸部においてももちろん、文化祭の準備をしなければならない。が、文芸部は、派手好きの菊塚にあっても極めて地味、かつ消極的で、文化祭のこの時期に部誌を発行する程度の活動しかしていなかった。他の部に比べれば、それほど過酷な環境ではないのだ。断じて。にもかかわらず。
「部長自らが原稿上げずにふらついて行方不明って意味不明だろうが!」
「杉村先輩ってば!」
 ぱかんと肩を叩かれ、麻人は剣呑な目つきで振り返った。
「なに」
「いらいらしすぎです」
 言いながら肩をすくめたのは、部員の一人、香坂千影(こうさかちかげ)だった。色素が薄く、やたら目が大きい。黙って立っていると、血統書付きの猫のように見える。だが、麻人はこいつが苦手だ。
「うるさい。いらいらして当然だろうが。お前、暇なら部長探してこいよ」
「探してますけど、見つかりません」
 あっさりと首を振る香坂に、麻人はちっと舌打ちをした。
「使えないな」
 香坂は麻人をまじまじと見つめてから、ため息をついた。
「言っておきますけど、先輩の人使いの荒さについていけてるの俺くらいだと思います」
「そんな理不尽なことを言ってはいないだろうが」
「……先輩」
 はあっとさらに盛大な息を吐いて、香坂は手にした名簿を麻人の目前に突きつけた。
「見てください。今年に入って三人も辞めました。部員数はいまや四人。あと二人いなくなったら部ではなく、同好会へ格下げなんです」
「それが俺のせいだと?」
「違うとでも?」
 きっぱりと切り返されて、麻人は口を噤む。確かに自分は口が悪い。多分、ものすごく。
 中学の頃の級友に、成績は悪いけれど、明るくて人気者のやつがいた。そいつは麻人にもよく話しかけてきて、テスト前になると、勉強を教えろと付きまとってきた。しぶしぶ教えてやったものの、あまりの出来の悪さにうんざりしてつい、「お前、学校には給食のためだけに来ているのか」と言って以来、誰とでも分け隔てなく接するやつだったはずのそいつが、卒業までついに一度も麻人に話しかけてこなくなった。
 別に悪気があったわけではない。それでも、その気がなくても言葉は刃になって相手を傷つける。漠然とはわかっているが、鎧さながらに身に着いてしまった口調の荒さを直すことは難しい。
「そもそも」
 勢いづいたのか、香坂は手にした書類をばん、と麻人の前に叩きつけ、机に両手をどん、と突いた。
「今日、俺は部誌の充実を図れという先輩の言いつけで、演劇部と天文部、はては園芸部にまで協力を要請し、部誌に掲載するための原稿をかき集めてきたわけです。皆、俺の苦境を汲み取ってか、しぶしぶながらも原稿を入れていただけました。一重に、俺の尽力だと思うわけです」
「もはや文芸部の部誌というくくりでは収まらない内容に成り果ててはいるがな」
 苦々しく呟いた麻人の声を無視し、ますます勢いづいて香坂は身を乗り出した。圧倒され、麻人は思わず背を反らす。
「その俺を、こともあろうに使えないと? 本気でそうおっしゃるわけですか」
「だから、俺のせいでみんな辞めたとは限らないだろうが。お前のその、なんというか押しつけがましい感じが気に入らなかったとか」
 言い返したとたん、香坂は目を剝いた。猫のように大きな目がまん丸になる。
「先輩って……なんでそんなに性格悪いんですか?」
「そう言い切るお前は性格悪くないのか」
 皮肉で切り返した麻人を瞬きなく数秒見つめてから、香坂は姿勢を元に戻し、背筋を伸ばした。
「悪いですよ。そうでなければここにはいられません」
 大体、と言って、香坂は麻人に指を突きつける。
「先輩、陰でなんて呼ばれてるか知ってます?」
「知らない。興味もない」
「そういうところは尊敬するんですけどね」
 やれやれ、と嘆いてみせてから、香坂は、さて、と気持ちを切り替えるように手元の書類に目を落とし、ペンでなにやら書き込みながら報告を再開した。
「とりあえず、部長以外の誌面については埋まりそうですね。東野先輩の原稿も明日までにはいただけそうですし」
「東野こそ、もうちょっとここに来て手伝いをすべきだろうが」
「無理です」
 机の上に散乱している書類を手早くまとめながら、香坂は断言した。
「杉村ってあれ何様? 自分が一番偉いと思ってるわけ。ほんとマジ無理」
 流れるように言われた台詞をしばらく噛みしめてから、麻人はがたんと椅子を蹴立てて立ち上がる。
「おい待て。それ、あの変人がそう言ったのか!」
「いまさら驚くことですか? 東野さんの小説、片っ端からけなしまくって、しかも去年の部誌上でも酷評してましたよね。情景描写の仕方や言葉の言い回し、キャラクター造形の未熟さまで一つ一つをあげつらって。あそこまでして嫌われていないほうがおかしいでしょう」
「それは! だってお前はあいつの書いた小説、どう思うんだよ。内容といい、文章力といい、駄作だろ、あんなの」
「理数系の東野さんがなんで文芸部にいるわけ? と言いたくなるくらい、確かに粗いですし、万人受けするものではないと思いますけど」
「ほら」
 まとめた書類の向きを揃えて麻人の前に置き直し、淡々と感想を述べる香坂に麻人が我が意を得たりという顔をすると、香坂は、だけど、と言った。
「俺は結構好きですよ。救いのある、優しい物語が多いから」
 ふっと目を上げて麻人を見て、彼は首を傾げてみせた。
「杉村先輩こそ、なんでいつもあんなかたっ苦しいものしか書かないんですか? 言葉は難解だし、読むほうも肩が凝っちゃいますよ」
「かたっ苦しくて悪かったな。あれくらいの文章が読み解けないようじゃ、大学入試も危ういな」
「そういうことじゃなくて」
 香坂は腰に軽く手を当てて、麻人を見下ろす。
「東野先輩のようにとまでは言いませんけど、もうちょっと柔らかいもの書いたっていいと思いますけど。あれだけ書ける先輩なんですからお手の物でしょう」
「この俺が、東野みたく優しさ全開のもの書いたら気持ち悪かろうが」
「そうですねえ」
 香坂は書類の山の一つを取り上げて、ぱらぱらとめくる。美術部に頼んで書いてもらった表紙のイラストのサンプルだ。
 どう見ても文芸部の部誌とは言えない、と思いつつ、それも確認しないとな、と言いかけたとき、香坂が不意に微笑んだ。
「俺は読んでみたいですけどね。杉村先輩が書いた優しさ全開のもの」
「はあ?」
 思い切り煙たい顔をすると、香坂は肩をすくめてから、さて、と書類を机に戻す。
「伊藤先輩探してきますー」
 部室にしている科学準備室を、身軽にするりと出て行く香坂を見送り、麻人はひとり、苦虫を噛み潰したような顔をしてしまった。
 俺の書いた優しさ全開のもの、だと。
 心の奥で毒づく。
 あり得ない。
 そもそもにおいて、そんなものを書いて誰が喜ぶのだろう。物珍しさを覚える者はいるだろうが、大半は薄気味悪さに当惑するだけだ。
 さんざん棘のあることを言っておいて、こんなふやけたものを書くなんて理解不能とか、気持ち悪いとか、さんざん言われて敬遠されるのがオチだ。
 当たり前だ。
 軽く首を振って、麻人は香坂が集めてきた原稿をチェックするべく、ノートパソコンを立ち上げる。
 まず開いたのは演劇部の部長が書いた戯曲だ。戦争で離れ離れになった恋人同士。紆余曲折、何度もすれ違い、最後には再会。涙のハッピーエンド。
 さらさらと流し読みしてから、乱暴にパソコンを閉じ、麻人は椅子の背もたれに身を預ける。
 軽く片手を上げて目元を抑えた自分の口から、ちくしょう、と声が漏れた。
 危ないところだった。
 もう少しで泣くところだった。
 学校で泣くなんて絶対、あってはならない。
 首を振って立ち上がり、麻人は窓を開ける。
 簡単に心を揺らされないようにもっと修行が必要だ。

──やめて。

 子どもの泣く声がふっと鼓膜に蘇る。
 湿った畳の匂いまで蘇ってきて、麻人はさらに大きく首を振った。
 五月のさわやかな風に目を細め、心を落ち着けようと深呼吸したとき、背後でドアが開く気配がした。
 振り向いて、麻人は目を尖らせた。
「お前……」
「なに、暇そうじゃん、お前」
 文芸部の部長である、伊藤春樹(いとうはるき)が、いつもの気だるげな口調で言い、後ろ頭を掻きながらすたすたと科学準備室に入ってくるところだった。
 飄々とした態度にふつふつと怒りが湧く。
「香坂にお前を探させていたんだが」
「ああ、知ってる。かわすのに苦労させられたー。あいつしつこいんだもん」
「探されている理由くらい思い当たるよな」
「思い当たりたくないなあ」
 ふざけた物言いをしながら、伊藤は壁際の戸棚を開ける。ビーカーに混じって置かれているマグカップを取り出してから、戸棚の並びに置かれたコーヒーメーカーに目をやる。コーヒーが湧いていないのを確認し、コーヒーないのかよ、とぼやきながら、伊藤は戸棚を探ってインスタントコーヒーの瓶を取り出した。相変わらずの態度と行動だ。
「原稿、どうなってる」
「お前馬鹿だろ」
 伊藤は鼻で笑い、カップにインスタントコーヒーを入れ、窓際に置かれたポットから熱湯を注ぐ。湯気の上がるマグカップを取り上げながら、伊藤は机に行儀悪く腰かける。
「できてたら逃げ回らないだろ」
「いばるな!」
 怒鳴って麻人は机をばん、と叩いた。
「そもそもにおいてだな、お前はなにをやってる。部誌の準備もいまや佳境だ。なのにお前はどうだ。原稿は入れない、部誌の取りまとめに協力もしない、部室に来るのはコーヒーを飲むため。それが部長のすることか。年に一回の部誌の刊行だぞ。部長のお前がきっちり仕切るべきだろうに!」
「だから言ったじゃん、部誌なんてきっちり毎年出さなくてもいいって。文芸部なんてみんな注目してないんだからさ」
「毎年やっていることは毎年やる」
 きっぱり言うと、伊藤は大げさに肩をすくめた。
「出た、無駄に真面目なマニュアル人間」
「誰が!」
「お前」
 即効で切り返し、伊藤はコーヒーに息を吹きかけ熱を冷ましながら目だけを上げた。
「そういう堅物なとこは悪くないと思うけどさ、ごり押しするきつい性格は直さないと周りから弾かれるぞ」
「弾くとかそういう年齢でもなかろう。来年には卒業なんだぞ」
「お前が思うより周りは子供だ」
 苦笑いし、伊藤はコーヒーをちびりちびりと飲む。
「知ってるぞ、結構陰でいろいろ言われてるよな」
「またそれか」
 香坂といい、伊藤といい、どいつもこいつも同じようなことを言いやがる。
「陰で言われることになにか実害でも?」
 香坂に返したときと同様に無表情に言ってのけると、伊藤はしばらくぽかんと麻人を眺めてから、いや、と首を振り、コーヒーをずずっとすすった。