ディオグに自由に過ごせと言われて困った七瀬は、その日のところは宮殿の見学をして過ごすことにした。
本は嫌いではなかったので、書庫に行けば適当に時間を潰せるのではないだろうかと七瀬は思った。
しかし、その考えは甘かった。
書庫に詰まっていたのは、よくわからない記号のような文字が刻まれた木簡であり、見ていてもまったく面白くはなかった。リウンもまた文字を読むことができなかったので、七瀬は書庫を後にした。
仕方がないので、七瀬はリウンに宮殿の他の棟を案内してもらった。
七瀬は廊下を歩きながら、この世界に来てからずっと側にいるリウンの以前の様子が気になって尋ねた。
「リウンは、私を迎えにくる前は何をやっていたの?」
「陛下を護衛し、そのご沙汰をお助けするのが普段の役目です。命じられれば、戦場へ行くこともあります」
「へぇ……。何だか大変そうだね」
(あんまりそういうの向いてなさそうなのに、お気の毒に……)
七瀬はリウンに同情しながら、その隣をついて行った。
宮殿には、官吏たちが仕事をしている政庁に神官が星を見る天文台、楽士が練習をしている会堂など、多様な場所があった。
それらを巡っている間に、七瀬は大勢の人を見た。官吏や女官、兵士は昨日も見たが、調理人や芸人、医官など宮殿には他にもいろいろな職業の人がいる。
彼らの役割はばらばらであった。だが七瀬は、どこにいても人々が異常に他人を気にして、お互いに牽制している気がしてしまった。
昨晩の宴の雰囲気を引きずっているからそう思うのかもしれないと思いつつも、七瀬はつぶやいた。
「何だか、皆が監視しあっている雰囲気なような……」
「監視……というよりも、それぞれよく観察しあっています。同僚の罪や過ちを報告しなかった場合、見落とした者も咎められますので」
リウンは七瀬の批判をフォローしているらしかった。
だが七瀬には、まったくそうは聞こえない。
(恐怖政治の上に密告社会ってことね)
七瀬はリウンの言葉に、ディオグの歪んだ支配方法の一端を見た気がした。
その後宮殿を一通り回った二人は、宮殿に隣接して設けられた庭園を歩いた。
季節が良いのかそれなりに花も咲き、思ったよりは楽しめた。どことなく南方風の雰囲気が漂う花々は、鮮やかな赤や黄色の花弁を大きく広げている。
ある程度庭園を進むと、見晴らしのいい場所に東屋があった。
七瀬は歩き疲れたので、そこで休憩することにした。屋根の下に置かれた座席に座れば、青空の下で咲く花々とその向こうに立つ宮殿が一望できた。
七瀬は極彩色の宮殿を眺めながら、やることもなく暇を感じていた。
するとめずらしく、リウンが七瀬に質問をしてきた。
「ナナセ様。あなたの住んでいた世界は、どんな場所なんですか?」
リウンは席に座らず隣に立って、不思議そうに七瀬を見つめていた。
どうやら七瀬にとってこの世界がよくわからないように、リウンにとっての七瀬も奇異な存在であるらしい。
自分の属している世界について説明を求められるという経験は普通ないので、七瀬は少し悩みながら答えた。
「うーん、文明はもっと進んでるかな。電気っていう便利な力があって、夜も明るかったり遠くの人と話せたりするよ。あと身分の違いみたいなのもここより大分小さいね。何だかんだで貧富の差は結構あるけど」
「ナナセ様は、そこで何をされてたんですか?」
「何を? 何をって、勉強かな……?」
七瀬は勉強熱心な方ではない。だがとりあえず学生であるので、何をしているのかと問われれば答えはやはり勉学だと思った。
「……何だか、とてもすごい世界に聞こえます」
どれくらい理解しているのかは不明だが、リウンは七瀬の世界の話に感心していた。
「そんなに素敵な場所からいらっしゃったなら、帰れる日が待ち遠しいですね」
そう言ったリウンの目に、七瀬はわずかだが羨望を感じた。
だがおそらくリウン自身も気づいていないその感情は、七瀬の世界に対して向けられたものではなかった。
(そうか。リウンは、私が帰れることが羨ましいんだ)
七瀬は、宮殿から出ることを許されず手首を切り落とされた昨晩の女官を思い出した。リウンもまたその女官と同じように故郷に帰ることができない存在なのだろうと、七瀬は推測する。
しかしそれに気づいたところで、七瀬には言えることもできることもない。
そうしているうちにやっと日が傾いてきたので、七瀬は自室に戻ることにした。
七瀬は長い一日をもてあまして、異世界での滞在二日目を終えた。
◆
三日目もディオグに再び夜の宴に誘われている他は何もなく、昼は暇だった。
そのため朝食後、七瀬は無駄かもしれないと思いつつもリウンに尋ねた。
「ねぇ、リウン。ここの人たちにとっての一般的な娯楽って何?」
「……男は碁か狩りをすることが多い気がしますが、女性が何をしているのかは存じ上げません」
案の定リウンはそもそもあまり遊ぶことがないらしく、しばらく考えた後に答えた。
「じゃあ、狩りでもしようかな」
七瀬は軽い気持ちで、狩りをしてみようかと考えた。宮殿の雰囲気はあまり好きではなかったので、とりあえず外に出たかった。
「狩り、ですか。ナナセ様は、弓が使えるのですか?」
狩りをしたがる女性はめずらしいのか、リウンが驚いて聞き返す。
「中学のころ部活で弓道やってたから、ちょっとはできるはずなんだけど」
「チュウガクのブカツ……。軍隊のようなものですか?」
「えっと、そうじゃなくて。子供を教育するための組織で、先輩後輩みたいな上下関係があって、一番を決めるために競ったりするんだけど……」
学校という概念も知らないリウンに、七瀬は説明しようとした。
だが、リウンはやっぱりそれは軍隊ではないのだろうかという顔をして聞いていた。
(まぁ、言われてみると部活もある意味軍隊に近いもののような気がしてきたし、それでもいいか)
七瀬は説明をあきらめ、リウンに言った。
「とりあえず適当に外出たいな。狩りじゃなくて乗馬とかでもいいからさ。私、馬乗れないから、できたらリウンが教えてよ」
狩りよりも乗馬の方が得意分野だったらしく、リウンは安心した様子で答えた。
「馬ですね。かしこまりました、すぐ用意させます」
こうして、七瀬はリウンに乗馬を習うことになった。
リウンは乗馬の練習場所として、七瀬を宮殿の近くの丘に案内した。
七瀬に用意されたのは、大人しい白い馬であった。
馬に跨るところから始まり、まずは直進と停止を習う。
リウンの教え方は上手くも下手でもなく、無難にわかりやすかった。乗っている馬が賢いこともあり、習得は順調に進む。
馬を走らせるのは、それなりには楽しかった。
しかし七瀬は馬に乗れば乗るほど、自分の自転車が恋しくなった。
七瀬の自転車はごく普通の学生向けの地味なものであるが、中学生のころからほぼ毎日乗っているので愛着は深い。
(そういえばあの自転車も、川に落ちたのかな。あれもできたら無事だといいなぁ)
七瀬は故郷に思いを馳せつつ、手綱を握った。
慣れてくると、鼻歌をするくらいの余裕も出てきた。
七瀬は半分無意識に鼻歌を歌って馬に乗る。
すると、リウンが馬上から尋ねた。
「それは、あちらの世界の歌ですか?」
「あ、ごめん。聞こえてた?」
慌てて七瀬は、鼻歌を止めた。
歌っていたのは、好きなロックバンドの曲のイントロである。この世界の人にとっては馴染みのないであろう調子の旋律であったが、リウンは興味を示していた。
「お好きな歌なんですね」
「うん。私、この曲を作った人たちのファンで、PVのセンスとか歌詞とか編曲とか全部好きなんだ。インディーズなんだけど、本当にどの曲も良くて……。あ、えっと、リウンも音楽は好き?」
うっかり現代でもなかなか誰にも通じない趣味の話を続けてしまいそうになったので、七瀬は慌ててリウンに話を振った。
「はい。笛も鼓もできませんが、聞くのは好きです」
小さく微笑んで、リウンがうなずく。
リウンに好きなものがまったくないわけではないことに、七瀬は少しほっとした。
(って別にこの人が何にもない人生送っていたとしても、私には何の関係もないんだけどね)
リウンのことを常に気にしつつある自分に気づき、七瀬は慌てて本来の自分を思い出す。
十七年間守り続けてきた他者との距離の取り方を、変えるつもりはまったくなかった。
本は嫌いではなかったので、書庫に行けば適当に時間を潰せるのではないだろうかと七瀬は思った。
しかし、その考えは甘かった。
書庫に詰まっていたのは、よくわからない記号のような文字が刻まれた木簡であり、見ていてもまったく面白くはなかった。リウンもまた文字を読むことができなかったので、七瀬は書庫を後にした。
仕方がないので、七瀬はリウンに宮殿の他の棟を案内してもらった。
七瀬は廊下を歩きながら、この世界に来てからずっと側にいるリウンの以前の様子が気になって尋ねた。
「リウンは、私を迎えにくる前は何をやっていたの?」
「陛下を護衛し、そのご沙汰をお助けするのが普段の役目です。命じられれば、戦場へ行くこともあります」
「へぇ……。何だか大変そうだね」
(あんまりそういうの向いてなさそうなのに、お気の毒に……)
七瀬はリウンに同情しながら、その隣をついて行った。
宮殿には、官吏たちが仕事をしている政庁に神官が星を見る天文台、楽士が練習をしている会堂など、多様な場所があった。
それらを巡っている間に、七瀬は大勢の人を見た。官吏や女官、兵士は昨日も見たが、調理人や芸人、医官など宮殿には他にもいろいろな職業の人がいる。
彼らの役割はばらばらであった。だが七瀬は、どこにいても人々が異常に他人を気にして、お互いに牽制している気がしてしまった。
昨晩の宴の雰囲気を引きずっているからそう思うのかもしれないと思いつつも、七瀬はつぶやいた。
「何だか、皆が監視しあっている雰囲気なような……」
「監視……というよりも、それぞれよく観察しあっています。同僚の罪や過ちを報告しなかった場合、見落とした者も咎められますので」
リウンは七瀬の批判をフォローしているらしかった。
だが七瀬には、まったくそうは聞こえない。
(恐怖政治の上に密告社会ってことね)
七瀬はリウンの言葉に、ディオグの歪んだ支配方法の一端を見た気がした。
その後宮殿を一通り回った二人は、宮殿に隣接して設けられた庭園を歩いた。
季節が良いのかそれなりに花も咲き、思ったよりは楽しめた。どことなく南方風の雰囲気が漂う花々は、鮮やかな赤や黄色の花弁を大きく広げている。
ある程度庭園を進むと、見晴らしのいい場所に東屋があった。
七瀬は歩き疲れたので、そこで休憩することにした。屋根の下に置かれた座席に座れば、青空の下で咲く花々とその向こうに立つ宮殿が一望できた。
七瀬は極彩色の宮殿を眺めながら、やることもなく暇を感じていた。
するとめずらしく、リウンが七瀬に質問をしてきた。
「ナナセ様。あなたの住んでいた世界は、どんな場所なんですか?」
リウンは席に座らず隣に立って、不思議そうに七瀬を見つめていた。
どうやら七瀬にとってこの世界がよくわからないように、リウンにとっての七瀬も奇異な存在であるらしい。
自分の属している世界について説明を求められるという経験は普通ないので、七瀬は少し悩みながら答えた。
「うーん、文明はもっと進んでるかな。電気っていう便利な力があって、夜も明るかったり遠くの人と話せたりするよ。あと身分の違いみたいなのもここより大分小さいね。何だかんだで貧富の差は結構あるけど」
「ナナセ様は、そこで何をされてたんですか?」
「何を? 何をって、勉強かな……?」
七瀬は勉強熱心な方ではない。だがとりあえず学生であるので、何をしているのかと問われれば答えはやはり勉学だと思った。
「……何だか、とてもすごい世界に聞こえます」
どれくらい理解しているのかは不明だが、リウンは七瀬の世界の話に感心していた。
「そんなに素敵な場所からいらっしゃったなら、帰れる日が待ち遠しいですね」
そう言ったリウンの目に、七瀬はわずかだが羨望を感じた。
だがおそらくリウン自身も気づいていないその感情は、七瀬の世界に対して向けられたものではなかった。
(そうか。リウンは、私が帰れることが羨ましいんだ)
七瀬は、宮殿から出ることを許されず手首を切り落とされた昨晩の女官を思い出した。リウンもまたその女官と同じように故郷に帰ることができない存在なのだろうと、七瀬は推測する。
しかしそれに気づいたところで、七瀬には言えることもできることもない。
そうしているうちにやっと日が傾いてきたので、七瀬は自室に戻ることにした。
七瀬は長い一日をもてあまして、異世界での滞在二日目を終えた。
◆
三日目もディオグに再び夜の宴に誘われている他は何もなく、昼は暇だった。
そのため朝食後、七瀬は無駄かもしれないと思いつつもリウンに尋ねた。
「ねぇ、リウン。ここの人たちにとっての一般的な娯楽って何?」
「……男は碁か狩りをすることが多い気がしますが、女性が何をしているのかは存じ上げません」
案の定リウンはそもそもあまり遊ぶことがないらしく、しばらく考えた後に答えた。
「じゃあ、狩りでもしようかな」
七瀬は軽い気持ちで、狩りをしてみようかと考えた。宮殿の雰囲気はあまり好きではなかったので、とりあえず外に出たかった。
「狩り、ですか。ナナセ様は、弓が使えるのですか?」
狩りをしたがる女性はめずらしいのか、リウンが驚いて聞き返す。
「中学のころ部活で弓道やってたから、ちょっとはできるはずなんだけど」
「チュウガクのブカツ……。軍隊のようなものですか?」
「えっと、そうじゃなくて。子供を教育するための組織で、先輩後輩みたいな上下関係があって、一番を決めるために競ったりするんだけど……」
学校という概念も知らないリウンに、七瀬は説明しようとした。
だが、リウンはやっぱりそれは軍隊ではないのだろうかという顔をして聞いていた。
(まぁ、言われてみると部活もある意味軍隊に近いもののような気がしてきたし、それでもいいか)
七瀬は説明をあきらめ、リウンに言った。
「とりあえず適当に外出たいな。狩りじゃなくて乗馬とかでもいいからさ。私、馬乗れないから、できたらリウンが教えてよ」
狩りよりも乗馬の方が得意分野だったらしく、リウンは安心した様子で答えた。
「馬ですね。かしこまりました、すぐ用意させます」
こうして、七瀬はリウンに乗馬を習うことになった。
リウンは乗馬の練習場所として、七瀬を宮殿の近くの丘に案内した。
七瀬に用意されたのは、大人しい白い馬であった。
馬に跨るところから始まり、まずは直進と停止を習う。
リウンの教え方は上手くも下手でもなく、無難にわかりやすかった。乗っている馬が賢いこともあり、習得は順調に進む。
馬を走らせるのは、それなりには楽しかった。
しかし七瀬は馬に乗れば乗るほど、自分の自転車が恋しくなった。
七瀬の自転車はごく普通の学生向けの地味なものであるが、中学生のころからほぼ毎日乗っているので愛着は深い。
(そういえばあの自転車も、川に落ちたのかな。あれもできたら無事だといいなぁ)
七瀬は故郷に思いを馳せつつ、手綱を握った。
慣れてくると、鼻歌をするくらいの余裕も出てきた。
七瀬は半分無意識に鼻歌を歌って馬に乗る。
すると、リウンが馬上から尋ねた。
「それは、あちらの世界の歌ですか?」
「あ、ごめん。聞こえてた?」
慌てて七瀬は、鼻歌を止めた。
歌っていたのは、好きなロックバンドの曲のイントロである。この世界の人にとっては馴染みのないであろう調子の旋律であったが、リウンは興味を示していた。
「お好きな歌なんですね」
「うん。私、この曲を作った人たちのファンで、PVのセンスとか歌詞とか編曲とか全部好きなんだ。インディーズなんだけど、本当にどの曲も良くて……。あ、えっと、リウンも音楽は好き?」
うっかり現代でもなかなか誰にも通じない趣味の話を続けてしまいそうになったので、七瀬は慌ててリウンに話を振った。
「はい。笛も鼓もできませんが、聞くのは好きです」
小さく微笑んで、リウンがうなずく。
リウンに好きなものがまったくないわけではないことに、七瀬は少しほっとした。
(って別にこの人が何にもない人生送っていたとしても、私には何の関係もないんだけどね)
リウンのことを常に気にしつつある自分に気づき、七瀬は慌てて本来の自分を思い出す。
十七年間守り続けてきた他者との距離の取り方を、変えるつもりはまったくなかった。