船は湖を渡り、宮殿と直結している船着き場へ到着した。

 リウンは七瀬を船から下ろし、たくさんある棟のうちの一つに案内した。
 遠くから見て美しかった宮殿は間近で見てもさらに美しく、赤い漆塗りの門の上に渡した横木には流水や雲の紋様が彫られ、天井には規則的な蔦や花の絵が描かれている。

(外もすごいけど、中も豪華だ)

 その壮麗さに、七瀬は大口を開けて見上げながら進んだ。思い浮かぶのは、小学生並みに単純な感想だけである。帰る方法についての質問は、完全にタイミングを見失ってしまっていた。

 さらに進むと女官の集団が現れ、七瀬を迎えた。
 すっきりとした若草色の服を着た女官たちは、どの女性も皆一定の程度に美しかった。

「ようこそいらっしゃいました、稀客の方。こちらが湯殿でございます」
 女官の一人が、戸惑う七瀬を奥へと誘う。

「湯殿って、今からお風呂ってこと?」
 七瀬は不安げに、リウンを振り返った。

 だがもうこの先は男性が入れる場所ではないのか、リウンは立ち止まり動かなかった。
「湯浴みとお着替えが済んだら、陛下の元へ行きましょう。終わるころにまた来ます」
 そう言ってリウンは手を合わせて礼をして、七瀬を見送った。

(唯一名前を知ってる人だから、別れるのはちょっと不安だな)
 七瀬はほんの少し心細くなった。が、たいしてリウンのことを知っているわけはないので、すぐにその存在を忘れた。

 そして七瀬は靴を脱いで、女官たちとともに更衣室らしき部屋に入った。そこは板張りの床の、清潔感のある空間だった。

「では、濡れた衣服はこちらに」
 大きな籠を盛った女官が、七瀬に近づいてセーラー服のリボンを取り外した。

「え? あ、そのいきなりはちょっと……」
 見知らぬ人に服を脱がせられることには抵抗があったので、七瀬は思わず服を抑えた。

 だが、女官は七瀬にマニュアル対応的な優しさで微笑みかけた。
「あとで洗ってお返しいたしますので、ご安心ください」

(いや、それも大事だけど、今の問題はそこじゃないから!)
 七瀬は心の中で抗議したが、手際のよい女官たちの手には負けた。七瀬の着ていた学生服は女官たちにとっては見たことのない服であるはずだが、それでもするすると脱衣は進む。
 結局七瀬は下着まで全部脱がされて、湯浴みのときに着るものらしい浴衣のような服を着せられた。

 そして気づけば七瀬は隣の浴室へと移動させられ、陶磁器でできた湯船の中で温泉に浸かっていた。

(うーん。これは、美肌になってしまう)

 最初はただ温めただけのお湯かと思っていた。
 しかし入ってみると肌が妙になめらかになってきたので、どうも美肌効果のある泉質の温泉を使っているらしかった。おそらく山かどこかで湧いているのを、ここまで運んで温め直しているのであろう。

「湯加減は、いかがでございますか?」
 風呂係の女官が、髪を梳きながら尋ねた。

「めっちゃ、ちょうどいいです」
 七瀬は浴槽の中で足を伸ばして答えた。わけのわからない場所にいることを忘れて、どこかの温泉宿にいるのだと錯覚するほど心地が良かった。

 さらに湯上り後は、よい香りのする油を塗って保湿もしてもらえた。あまりの厚遇に、逆に裏がないか疑いたくなってしまう。

(しかし本当に私、もてなされちゃっているなぁ)
 女官の広げた絹の肌着に袖を通しながら、七瀬はしみじみと思った。
 ぼんやりしているうちに、女官は着々と七瀬の身なりを整えた。

「このように仕上がりましたが、よろしいでしょうか」
 最後にくちびるに紅をさして、女官が鏡を七瀬に見せた。やや歪んで像を映す古代の鏡の中にいる七瀬は、別人のように大人びて美しかった。

 銀色の糸の刺繍が映える黒い布に縁取られた緋色の衣は、驚くほど豪奢だ。にも関わらず、それは七瀬を品のある華やかさで装っていた。たっぷりと長い裾と袖も、地味に大柄な七瀬にはよく似合っている。

 さらに控えめな化粧が、七瀬の薄い顔を綺麗に引き立たせた。いつもはただゴムで一つにまとめているだけの髪も、翡翠のかんざしによって古風に結い上げられている。

(こんなに可愛くしてもらったのって、七五三以来じゃ?)
 丸い鏡に映る着飾った自分を、七瀬は不思議な気持ちでまじまじと見つめた。
 習い事と言えば習字とそろばんくらいで、ピアノやバレエなど発表会がある芸事とは無縁に育った。だから特別良い服を着せてもらう機会は、ほとんどなかった。

 そんな七瀬にとって、煌びやかな服を着て化粧をした自分の姿は、こそばゆく気恥ずかしいものであった。だが、悪い気はしなかった。

「すごくいいです。ありがとうございます」
 七瀬は本心で、お礼を言った。
「気に入っていただけたようで、嬉しいです。では、こちらに衛兵が待っておりますので」
 女官は安心した様子で、七瀬を湯殿の外へと連れ出した。

 湯殿を出た渡り廊下には、リウンと兵士たちが待っていた。
 七瀬が前に立つと、リウンはうやうやしく礼をした。

「お迎えに上がりました、ナナセ様。……赤い衣が、よくお似合いですね」
「そうかな。衣装に着られちゃってる感とかない?」
「いいえ。ナナセ様は、とてもお美しくなられました」

 リウンは七瀬の姿をじっと見て、感心した様子で言った。それは本当に心からの言葉で、皮肉や悪意は一切感じられない。
 だが七瀬は逆に、初対面のときにどう思われていたのかが想像できて情けない気持ちになった。

(最初は、ちょっと臭くて汚いとか思われてたんだろうな。まぁ、本当のことだから仕方がないけどね。だって川落ちたんだし)
 真っ直ぐな褒め言葉に対して、七瀬は何も言わずに微笑んだ。声に出してお礼を言えるほど、褒められることになれていない。

 リウンは七瀬の戸惑いに気づくことなく、次に行くらしい方向を七瀬に提示した。
「それでは、陛下の待つ正殿にご案内いたします」
「はぁ、よろしく」
 そして七瀬は、アーチ状の屋根によって覆われた渡り廊下を、リウンとともに歩き出した。後ろには兵士たちが続いた。

(王様に会って、それでどうするんだろう……)
 七瀬は不安な気持ちを思い出して、これからについて考えた。
 知らない世界の人であるとはいえ、本物の国王に会うということにも緊張した。
 しかし異界から来た神聖な客人なのだから、多少不作法でも許されるだろうと信じて七瀬は進む。

 やがて朱塗りの大きな扉が、七瀬の前に現れた。兵士によって守られた、仰々しい雰囲気の扉である。どうやらこの中が、王のいる場所であるらしかった。

 リウンが目配せをすると、両脇に立つ兵士が重々しく扉を開ける。
 七瀬はその空気に圧倒されて、一瞬入ることをためらった。

「ナナセ様」
 隣にいるリウンが、七瀬をそっと中へと促す。

 七瀬は仕方がなく覚悟を決めて、足を踏み入れた。