七瀬とリウンを乗せた船は入り組んだ川を進み、気付けば目的地である森の奥の湖に流れ着いていた。

 そこは海かと思うほど大きな湖で、透明に透き通る水面はまるで世界の果てのように静かだった。辺りは先ほどまでは夜らしく暗かったはずだが、いつの間にか昼でも夜でもない不思議な明るさになっている。
 森が開けた先にある空を見上げれば、オーロラのような青味のある光の帯が頭上を覆っていた。それは刻一刻と色合いを変えて、湖を幻想的に照らし出す。

 二つの月はその光の帯に抱かれて、やわらかに白く輝いていた。
 現代世界で見える月とは違うその二つの月は、七瀬にとって大分見慣れたものになったはずだった。だがこのとき見えたそれは、今までとは異なる輝きがある。

 七瀬もリウンも、しばらくの間その美しさに言葉を忘れて呆然と眺めた。

(これが、瑞風……)

 頬に当たる温度のない風に、七瀬は超常的なものを感じた。
 今起きているのは、ずっと七瀬が名前だけ知って待ち望んでいた現象だった。夢の中にいるような風景を前に、本当に自分は帰ることができるのだとぼんやりとした心で思った。

 リウンは船を湖の中央に近づけて停めた。
 すると空の光が湖に向かって降りてきて、目の前には青白い大きな光の柱のようなものが現れる。それは七瀬を待っていたかのように、薄明かりの中で明滅していた。

「あの光に飛び込めば……、あなたの世界に帰ることができるはずです……」
 リウンが息を切らしながらささやいた。
「でも、リウンは」
 その苦しげな声にここに来るまでに起きた出来事を思い出し、七瀬は慌ててリウンのいる方を向く。

 無事に七瀬を瑞風が起きる湖まで送り届けたことに安心したのか、リウンは船の上に倒れ込んだ。

「リウン……」
 七瀬はリウンを抱きとめて、その姿をよく見た。

 リウンは傷をいくつも負って、瀕死だった。
 黒い衣はべっとりと赤黒く血に染まり、リウンの体に張りついている。大きく裂けた肩口からは傷が見えて、血が噴き出していた。折れた刃が刺さったままになって出血を抑えてはいるものの、それでもなおおびただしい量の血が流れている。

「ど、どうしよう」

 想像していたよりもずっと酷いリウンの怪我に、七瀬は頭が真っ白になった。
 昔学校で習ったような気がする応急処置の方法などはどこかに吹っ飛んで、意識にのぼることはない。

 七瀬はとりあえず反射的に、血を止めようと肩の傷を手で押さえた。
 だが鮮血は無慈悲に七瀬の手をすり抜け、船底に血だまりを作った。手に触れる血の温かさが、リウンの命が削られていることを生々しく伝える。

「俺のことは……、いいですから……っ」

 そう言って、リウンは七瀬に心配をかけまいと体を起こそうとした。だが起き上がることはできず、リウンは血を吐き咳きこんだ。呼吸は浅く、上手く息が吸えていないようだった。
 もしかしたら背中に刺さった矢は肺を傷つけているのかもしれない、と七瀬は思った。このまま七瀬が元の世界に帰れば、リウンがここで死ぬのは明白だった。

「良くない。だってリウンは、私のせいで死ぬんでしょ」
 七瀬のために死にゆくリウンを前に、どうしようもない申し訳なさが募る。

「ナナセには、帰る場所がありますから……。あなたは俺と違って、自分の意思で選ぶ強さを持った人です……」
 リウンはざっくりと傷を負った手で、そっと七瀬の手に触れた。その顔は苦痛に歪んでいたが、心安らかな表情でもあった。

 どうやらリウンは、どんな状況であっても自らの考えを最優先できる七瀬に憧れを感じていたらしい。七瀬としてはごく普通に思った通りに行動しているだけであるが、おそらくその普通がリウンには手の届かないものなのだ。

 切り傷から流れる血が痛々しいその手を、七瀬はおそるおそる握った。
 出血が多いせいか、その手はだんだんと冷たくなり始めている。

「でも私、あなたに何もできてないのに」
「いいんです。ナナセが元の居場所に帰れたなら、俺も少しだけ戻れる気がしますから……」

 リウンは七瀬を見つめていたが、その瞳はかつて失った故郷を映していた。
 先程の戦闘でキエンが言っていた通り、リウンは七瀬を帰すことに救いを求めているのだと思われた。七瀬がこれから元の世界で幸せに生きる未来を考えることで、今まで重ねてきた罪や失ってきたものから一瞬であっても解放されるのだろう。

 それは人間性を奪われ続けてきたリウンが、やっと自ら選ぶことのできた選択だった。
 リウンは息も絶え絶えな中、七瀬に微笑みかけた。

「ナナセは……、俺のことをずっと心配してくれました……。なぜ、他人の俺のことをこんなにも考えてくれるのか。不思議でしたが、でも嬉しかったんです」

 七瀬を安心させるために、リウンは七瀬への感謝を語っていた。
 リウンはこういうときに偽ったことを言える人間ではないので、その感謝は本当だと思われた。しかしそれが本当であるがゆえに、七瀬は帰りがたい気持ちになる。

「そんなの、私じゃなくたってそうするから」

 七瀬は、自分がいかに特別ではないのか証明するように言い放つ。
 自分はリウンにとって実はそうたいした存在ではないと思った。もしも七瀬ではない人間が稀客としてこの世界に来ていたら、きっとリウンはその人のために死にかけていたはずである。七瀬でなくてはならない理由はどこにもないのだ。

 だがリウンは、七瀬の言い訳を遮るように静かにつぶやいた。
 憔悴したリウンの精悍な顔は、真っ直ぐに七瀬に好意を向けている。

「……でも、あなたでした。俺がこの十四日間仕えてきたのは……、他の誰でもないあなただったんです……」
「だからって、死ぬ理由にはならないでしょ」

 誰かを死なせるのに十分な理由なんてあるのだろうか、と疑いながらも七瀬は言った。
 この出会いは、七瀬とリウンでなくても良かったはずだった。だがこの二人だった。七瀬は、そうなってしまった意味が欲しかった。瀕死になりながらも七瀬を気遣うリウンに、どうにかして報いたかった。

 焦燥に駆られて、七瀬はリウンを抱きしめた。広い背中に手を回して、自分の肩にその頭を乗せる。七瀬が支えるにはリウンは少し大きすぎたが、それでも案外物理的には何とかなった。
 リウンの体の厚みや熱を感じ、七瀬は深く息を吸った。

「ナナセ……」
 リウンが七瀬の腕の中で、小さく七瀬の名前を呼ぶ。
 その声がより一層切なかったので、七瀬は制服に血が染みるのも構わずさらにリウンを強く抱き寄せた。

「リウンが思っているほど、私は良い人じゃないよ。だけどそれでも、あなたのことは目をそらせなかった」
 七瀬はリウンの耳にそっとささやいた。自分はリウンの犠牲に見合う価値のない人間だと思った。

 リウンのためにできることがないか、七瀬はずっと探していた。しかし最後の最後になっても何も見当たらず、情けなさに涙が滲む。

(ここで泣いていいほど、私は何も頑張ってない)

 思い遣りがあるかのように振る舞うのはリウンに申し訳ない気がして、七瀬は涙をこらえて何か違うことを言おうとした。
 だがリウンが声を絞り出すように口を開く。

「……俺だってきっと、ナナセの思うような人間じゃありません。あの人の命令に従うことの意味は最初からわかっていたはずなのに……、俺は気付かないふりをしてきました」

 リウンはディオグに従ったことへの後悔を、初めて七瀬に聞かせた。
 もうすぐ死ぬ時になってやっと、リウンは自分の本当の気持ちを語っていた。

「俺は……自分のしたことと向き合うのが怖かった……。だから父さんを殺したことも何もかも全部そういうものなんだと言い聞かせて、大勢の人を殺して傷付けてきました。そして最後もこうして、逃げて死ぬ。俺は、卑怯な人間です……」

 七瀬に今吐露されている感情は、今までリウンがずっと押し殺してきた自責の念だった。
 ディオグに支配されてきた長い時の中で、リウンは罪を重ね続けてきた。それはどうやっても否定できない真実である。
 深く刻まれた罪悪感は、リウンに一生消えることのない絶望を与えた。その罪を償うためにリウンが死のうとすることを止める権利は、少なくとも七瀬にはない。

 泣き出しそうな顔をして、リウンがゆっくりとうつむく。
 すると、七瀬の額とリウンの額がぶつかった。
 額の触れた硬い感触に、七瀬は頬が熱くなった。

 乱れた前髪の下から覗く誠実なリウンの眼差しが、七瀬を捉える。
 その視線に、七瀬は我を忘れた。

「リウン……」
 七瀬はリウンの名前を呼び、潤んだ目で見つめ返した。
 それからそっと額を離して頭を傾け、息を止めて口づけをした。

 リウンの唇は冷たく、血で湿っていた。
 だが七瀬は怯みつつもさらに強く唇を重ねた。肩に回していた手を頭へと移し、髪を指に絡めて撫でる。後ろめたさもあったが、不思議と落ち着いた。

 それはまったく無意味で衝動的な行動で、状況を良くするものなどではなかった。
 どんなに近く抱き寄せたとしても、二人の間にある断絶は縮まることはない。むしろすぐそばにリウンの体を感じる分、より遠い存在である気がする。

 だがそれでも七瀬は、リウンに触れていたかった。
 弱さに寄り添い、もっと知りたいと思った。

 触れる直前で目を閉じたのではっきりとはわからなかったが、突然の七瀬の行動にリウンは狼狽えているようだった。だが、かすかに体を震わせただけで抵抗はない。
 突き放す力もないだけかもしれないが、リウンは一応は七瀬を受け入れてくれていた。

(私、キスしちゃったけどこれで良かったのかな……?)

 リウンの想いに応えたくて、七瀬は思わず口づけをしてしまった。
 今までキスをしたこともされたこともないので、やり方も知らず見よう見まねである。これがリウンにとって良いのか嫌なのかもわからなかったし、自分の感情の表現として正しい行為なのかどうかも定かではなかった。
 だがそれが単なる自己満足や間違いなのだとしても、七瀬はもう引き返せなかった。

 いたたまれなくなったところで、七瀬は唇を離して目を開けた。
 リウンの唇の冷たさの名残が、七瀬の鼓動を高鳴らせる。口にはリウンの血がついたが、拭わなかった。

 リウンはうつむいて後ずさろうとしたが、力尽きて七瀬の腕の中に倒れ込んだ。

「……っ……俺なんかで、良かったんですか?」

 つらそうに息をしながら、リウンが尋ねる。
 七瀬が迷った以上に、リウンは七瀬に口づけされたことの良し悪しについて悩んでいるようだった。

「ごめん、その……」

 七瀬は自分が無理に迫ったことで、傷を負ったリウンをより苦しめてしまったのかもしれないと後悔した。
 少しでも楽になるようにと、七瀬はリウンの背中をそっとさする。
 傷からはまだ血が流れていて、服を生暖かく濡らしていた。

「俺はもういいですから……行ってください……」

 リウンは弱弱しくささやき、握っていた手を離そうとする。
 だが七瀬はリウンの手を離さず、さらに指を絡めて握りしめた。

「……私は無力で、何もできなかった」
 七瀬は今までの人生の中で、一番心を込めて話しかけた。
「私はどんな世界だって変えられない。あなたの過去も、どうにもできない」

 現代に帰るこの時になってもやはり、七瀬はこの異世界に対して何も影響を与えることはできなかった。七瀬がもたらした結果といえば、リウンを死なせかけているだけである。

(ディオグは許せない。だけど、あの人の言うことは真実だ)

 ディオグによって狂わされたリウンの人生を改めて考える。
 ディオグによって母親を奪われ、父親を殺すことを強いられたリウン。罪悪感や良心といった感情さえも弄ばれて、望まない殺生を強いられ続けてきた。キエンというたった一人の親友との友情でさえ、ディオグが意図的に与えた安らぎだった。

 ディオグの言う通り、七瀬どころか誰にもリウンを救う術はない。
 きっと、このまま七瀬を守って死ぬのが一番のリウンの幸せなのだろう。ディオグの支配から抜け出し生き延びたところで、リウンは自分を責め続けよりつらい人生を送るだけなのだ。

「でも私は、あなたを死なせなくない。それがいいことなのかわからないけど、生きていてほしい。この世界をどうにもできなくても、リウンだけは絶対に死なせない」

 七瀬は、腕の中でまだ生きているリウンにはっきりと誓った。
 エゴでも何だったとしても、リウンが死ぬのは耐えられなかった。

 世界の仕組みはどこにいても変わらない。
 その中でリウンが苦しむことも変えられない。
 だがせめて、できる限りは抗っていたかった。

「どう、して……っ……」

 リウンは喘ぎ、光を失いつつある瞳で七瀬を見上げた。
 何か言いたげだったが、もう話す力も十分にないようだ。

 そっとその冷たくなった頬に触れて微笑み、七瀬はリウンの肩を抱いて立ち上がる。
 船の上ということもあり、少しだけ足下がふらついた。

 七瀬は、不思議な青白い空から降りてきた光の柱に向き合った。
 それが七瀬を現代へと返す瑞風という現象であるはずだった。

 光は先ほどよりも強く大きくなっていて、船のすぐ近くまでに迫っていた。
 湖の水も真っ白に照らされ、やわらかな光が七瀬とリウンを包む。

(本当にうまくいけるかな……)

 その選択は七瀬にはリスクがほとんどないが、リウンにとっては大きな意味を持つものだった。本当はリウンが命をかけてくれた分、七瀬も何か背負いたかった。だが残念ながら、今の七瀬にそういう機会はない。

「ごめん。この方法しか思いつかなかった」
 力尽きて七瀬に身を預けるリウンに、七瀬は謝った。
 そして七瀬はリウンの手や肩を強く握り、光の中に飛び込んだ。

 リウンも現代に連れて行く、というのが七瀬の選択だった。
 置いて行けば確実にリウンは死ぬが、現代の病院なら何とかなるかもしれない。

 本来は交わるはずがなかった、七瀬とリウン。
 もしもこの出会いに意味があるのだとしたら、七瀬はリウンを救いたかった。

 冷たくも温かくもない風が、二人の服をはためかせる。青白い光の中で、七瀬とリウンは無重力状態で舞っていた。体は湖に落下することなく、高く飛翔する。
 その体を持ち上げる力の強さに、七瀬はリウンの手を離してしまいそうになった。

「リウン!」
 必死で手を伸ばし、七瀬はリウンの手を掴み続けた。

 リウンはほとんど意識を手放していたが、それでも七瀬の声には多少は反応してくれる。

 そうして何とか両手を握って向かい合い、七瀬とリウンは空中を浮遊した。
 竜巻に巻き込まれたような感覚に、七瀬はみぞおちが冷たくなる。

 辺りを包む光も、どんどん強さを増していた。
 やがて眩しさに何も見えなくなって、七瀬の意識も飛ばされた。