二週間というのは長いようで短かった。
粛々とご馳走を食べて乗馬などをしているうちに残りの日は過ぎ、とうとう七瀬が帰る十四日目がやってくる。
良く晴れた空が眩しい、異世界の客室で起床する朝。
いつもと変わらぬ女官の櫛に、豪華な朝食。
だが七瀬がこうやって貴人として扱われるのも、今日が最後であるはずだ。
「おはようございます、ナナセ。お会いできるのも、今日が最後ですね」
食堂にやってきたリウンは、いつもと少し違う挨拶をした。
「そうだね。えっと、瑞風ってやつが起きるのは今日の夜だっけ?」
七瀬は食後の果物を食べながら言った。リウンの言うことが違う以外の変化を感じない朝に、なかなか帰れるという実感はわかない。
「はい、瑞風が起きるのは夜です。その前に、陛下がナナセと二人っきりでお茶をしたいそうです」
「わかった。それじゃお昼ごろに、ディオグのところへ行くよ」
ディオグの誘いに、七瀬は憂鬱な気持ちになった。客人として断れるものではなかったが、まったく会いたいとは思えない。
(今日でお別れなんだから、本当はもう少しリウンと過ごしたかったんだけど……。でもまぁ、どうせリウンと二人になれたところで特に何か変わるってわけでもないし。結局、後は帰るだけだからね)
一度はリウンのために何かしたいと本気で思った七瀬だが、何事もない日々を送ることによりすっかり冷静さを取り戻してしまっていた。
リウンのことを考えると、心苦しいのは確かである。
しかし最初からわかっていたことでもあるが、その問題は明らかに七瀬の解決能力を超えていた。自分の手に負えないものに関わり続けるのは、身の程知らずだと七瀬は思った。
あきらめの境地の中で少し距離を置いて接する七瀬に対して、リウンは変わらずうやうやしく尽くしてくれた。
だが今日は最後の日であるからなのか、少し様子が違っていた。何か言いたげな顔をして、リウンは七瀬の前に立っている。
「どうかした?」
七瀬はむいた蜜柑を食べつつ、リウンに尋ねた。
無理に聞こうとは思わなかったが、最後ということで何か言ってもらえるなら聞きたかった。
「……いえ、何でもありません」
リウンは目を伏せて口を閉ざした。やはりリウンは、そう簡単には自分の感情を表してくれない人だった。
だが七瀬は、リウンが少しは何か七瀬に対して思うところがあるらしい、というだけでそれなりに満足する。
「なら、いいけど」
七瀬はそう言って、もう一つの蜜柑へと手を伸ばした。
◆
午前中の政務が終わるのを見計らって、七瀬はリウンと別れてディオグに会いに行った。
最後にまた制服が見たいと言われていたので、わざわざ着替えた。ディオグは自分の執務室の隣にある客間で七瀬を待っているらしいので、そちらへ向かう。
部屋に着いてみると扉の前には、キエンがいた。キエンは町へ一緒に行ったときとは違う武人らしい服を着ていたが、それでも軽薄な雰囲気は変わらない。
キエンは七瀬に気付くと、じろじろ見回し口を開いた。
「思ったよりも、元気そうですね」
「もっとどんよりしてなきゃ駄目だって言いたいの?」
まるで七瀬が情が薄いとでも言いたげな物言いに、七瀬はきつい調子で言い返す。
淡泊なのは事実だが、キエンに言われるのは嫌だった。
いらだっている七瀬に、キエンはからかうように小さく微笑んだ。
「いいえ。あなたみたいなほどほどの善人が一番だって考えてたんですよ……。陛下はこちらでお待ちです」
そう言って扉を開け、キエンは七瀬を中へと案内した。
部屋の中にはディオグ一人しかいなかった。
「あ、来たね。お茶冷めちゃうから、早く始めようよ」
無害な普通の人のように笑い、ディオグは七瀬を迎えた。
キエンが中に入らなかったので、七瀬はディオグと二人っきりになる。
部屋はごく私的な客と会うためだけの場所であるらしく、広さはあまりなく椅子と椅子の距離が近かった。置かれた家具も装飾は少なめで、小さな木製の丸テーブルにはお菓子やお茶が並んでいる。
あまり側には寄りたくなかったが、七瀬は渋々ディオグと向かい合う位置にある椅子に座った。
「はい、これナナセの分のお茶」
「……ありがとう」
ディオグがお茶を差し出したので、七瀬はお礼を言って飲んだ。砂糖か何かが入っているのか、甘くて飲みやすい味だ。
七瀬のためにお茶を用意するディオグの姿は、他者をいたぶることに喜びを見出す人間には見えない。
しかしだからこそ七瀬は、余計にディオグのことが嫌になった。ディオグにとって、人を処刑したり監禁したりすることはお茶を飲むように自然なことなのだと思った。
「今日の夜で、君は行っちゃうんだね。帰るのは楽しみ?」
ディオグは器に入った米菓子をつまみながら、七瀬に尋ねる。
「うん。ここもいろいろあるけど、やっぱり私の世界はあっちだと思うから」
リウンのことを考えると、七瀬は自分が帰ってはいけないような気がしてしまった。
だがこうしてディオグを前にすれば、この世界から早く出て行きたい気持ちが強まっていく。
ディオグはほおづえをつき、感慨深げにつぶやいた。
「そっか。でも僕は、君とお別れするのがちょっと寂しいな」
「私のこと、別に引きとめるほど好きじゃないんでしょ」
七瀬は、そこまで好きではないから元の世界に帰ってしまっても困らないとディオグに遺跡で言われた覚えがあった。だから別れが寂しいという言葉も冗談だと思って本気にしなかった。
だが、ディオグは意味深げに微笑み、湯呑のお茶を一口飲んで言った。
「それでも少しは、ね……」
その声が妙な色気を持って響くので、七瀬はディオグが自分を口説いているのかと思った。だが、そうなる理由がわからない。
なぜ急にそんなことを言うのかと問おうとして、七瀬は声が出ないことに気付いた。
(あれ? しかも何か眠いし体がだるいぞ……)
七瀬は体に力が入らなくなって、床に倒れた。首も動かせず、床を覆うタイルしか見ることができない。
急な異変に、七瀬は先ほどディオグに差し出されたお茶に毒が入っていたことを確信する。
「……君を殺すのは、少しだけは寂しいんだよ」
ディオグの声が、頭上に聞こえた。
(え、私死ぬの? ここで?)
七瀬は自分に命の危機が迫っていることを理解した。
だが恐怖を感じるよりも前に重苦しい眠気に襲われて、思考も判断もできなかった。
(どうして、ディオグが私を……)
疑問はぼんやりとしたまま形を持たず、七瀬はそのまま意識を失った。
粛々とご馳走を食べて乗馬などをしているうちに残りの日は過ぎ、とうとう七瀬が帰る十四日目がやってくる。
良く晴れた空が眩しい、異世界の客室で起床する朝。
いつもと変わらぬ女官の櫛に、豪華な朝食。
だが七瀬がこうやって貴人として扱われるのも、今日が最後であるはずだ。
「おはようございます、ナナセ。お会いできるのも、今日が最後ですね」
食堂にやってきたリウンは、いつもと少し違う挨拶をした。
「そうだね。えっと、瑞風ってやつが起きるのは今日の夜だっけ?」
七瀬は食後の果物を食べながら言った。リウンの言うことが違う以外の変化を感じない朝に、なかなか帰れるという実感はわかない。
「はい、瑞風が起きるのは夜です。その前に、陛下がナナセと二人っきりでお茶をしたいそうです」
「わかった。それじゃお昼ごろに、ディオグのところへ行くよ」
ディオグの誘いに、七瀬は憂鬱な気持ちになった。客人として断れるものではなかったが、まったく会いたいとは思えない。
(今日でお別れなんだから、本当はもう少しリウンと過ごしたかったんだけど……。でもまぁ、どうせリウンと二人になれたところで特に何か変わるってわけでもないし。結局、後は帰るだけだからね)
一度はリウンのために何かしたいと本気で思った七瀬だが、何事もない日々を送ることによりすっかり冷静さを取り戻してしまっていた。
リウンのことを考えると、心苦しいのは確かである。
しかし最初からわかっていたことでもあるが、その問題は明らかに七瀬の解決能力を超えていた。自分の手に負えないものに関わり続けるのは、身の程知らずだと七瀬は思った。
あきらめの境地の中で少し距離を置いて接する七瀬に対して、リウンは変わらずうやうやしく尽くしてくれた。
だが今日は最後の日であるからなのか、少し様子が違っていた。何か言いたげな顔をして、リウンは七瀬の前に立っている。
「どうかした?」
七瀬はむいた蜜柑を食べつつ、リウンに尋ねた。
無理に聞こうとは思わなかったが、最後ということで何か言ってもらえるなら聞きたかった。
「……いえ、何でもありません」
リウンは目を伏せて口を閉ざした。やはりリウンは、そう簡単には自分の感情を表してくれない人だった。
だが七瀬は、リウンが少しは何か七瀬に対して思うところがあるらしい、というだけでそれなりに満足する。
「なら、いいけど」
七瀬はそう言って、もう一つの蜜柑へと手を伸ばした。
◆
午前中の政務が終わるのを見計らって、七瀬はリウンと別れてディオグに会いに行った。
最後にまた制服が見たいと言われていたので、わざわざ着替えた。ディオグは自分の執務室の隣にある客間で七瀬を待っているらしいので、そちらへ向かう。
部屋に着いてみると扉の前には、キエンがいた。キエンは町へ一緒に行ったときとは違う武人らしい服を着ていたが、それでも軽薄な雰囲気は変わらない。
キエンは七瀬に気付くと、じろじろ見回し口を開いた。
「思ったよりも、元気そうですね」
「もっとどんよりしてなきゃ駄目だって言いたいの?」
まるで七瀬が情が薄いとでも言いたげな物言いに、七瀬はきつい調子で言い返す。
淡泊なのは事実だが、キエンに言われるのは嫌だった。
いらだっている七瀬に、キエンはからかうように小さく微笑んだ。
「いいえ。あなたみたいなほどほどの善人が一番だって考えてたんですよ……。陛下はこちらでお待ちです」
そう言って扉を開け、キエンは七瀬を中へと案内した。
部屋の中にはディオグ一人しかいなかった。
「あ、来たね。お茶冷めちゃうから、早く始めようよ」
無害な普通の人のように笑い、ディオグは七瀬を迎えた。
キエンが中に入らなかったので、七瀬はディオグと二人っきりになる。
部屋はごく私的な客と会うためだけの場所であるらしく、広さはあまりなく椅子と椅子の距離が近かった。置かれた家具も装飾は少なめで、小さな木製の丸テーブルにはお菓子やお茶が並んでいる。
あまり側には寄りたくなかったが、七瀬は渋々ディオグと向かい合う位置にある椅子に座った。
「はい、これナナセの分のお茶」
「……ありがとう」
ディオグがお茶を差し出したので、七瀬はお礼を言って飲んだ。砂糖か何かが入っているのか、甘くて飲みやすい味だ。
七瀬のためにお茶を用意するディオグの姿は、他者をいたぶることに喜びを見出す人間には見えない。
しかしだからこそ七瀬は、余計にディオグのことが嫌になった。ディオグにとって、人を処刑したり監禁したりすることはお茶を飲むように自然なことなのだと思った。
「今日の夜で、君は行っちゃうんだね。帰るのは楽しみ?」
ディオグは器に入った米菓子をつまみながら、七瀬に尋ねる。
「うん。ここもいろいろあるけど、やっぱり私の世界はあっちだと思うから」
リウンのことを考えると、七瀬は自分が帰ってはいけないような気がしてしまった。
だがこうしてディオグを前にすれば、この世界から早く出て行きたい気持ちが強まっていく。
ディオグはほおづえをつき、感慨深げにつぶやいた。
「そっか。でも僕は、君とお別れするのがちょっと寂しいな」
「私のこと、別に引きとめるほど好きじゃないんでしょ」
七瀬は、そこまで好きではないから元の世界に帰ってしまっても困らないとディオグに遺跡で言われた覚えがあった。だから別れが寂しいという言葉も冗談だと思って本気にしなかった。
だが、ディオグは意味深げに微笑み、湯呑のお茶を一口飲んで言った。
「それでも少しは、ね……」
その声が妙な色気を持って響くので、七瀬はディオグが自分を口説いているのかと思った。だが、そうなる理由がわからない。
なぜ急にそんなことを言うのかと問おうとして、七瀬は声が出ないことに気付いた。
(あれ? しかも何か眠いし体がだるいぞ……)
七瀬は体に力が入らなくなって、床に倒れた。首も動かせず、床を覆うタイルしか見ることができない。
急な異変に、七瀬は先ほどディオグに差し出されたお茶に毒が入っていたことを確信する。
「……君を殺すのは、少しだけは寂しいんだよ」
ディオグの声が、頭上に聞こえた。
(え、私死ぬの? ここで?)
七瀬は自分に命の危機が迫っていることを理解した。
だが恐怖を感じるよりも前に重苦しい眠気に襲われて、思考も判断もできなかった。
(どうして、ディオグが私を……)
疑問はぼんやりとしたまま形を持たず、七瀬はそのまま意識を失った。