その日の夜、リウンが任務から戻ってきたことを七瀬は女官から知らされた。
 もう夜だったこともあり、リウンは七瀬の元にはやって来なかった。

 だが七瀬はリウンの顔が見たかったので、女官に案内させて会いに行った。

「多分、彼はここにいるはずです」
「わかった、ありがとう」

 七瀬は女官にお礼を言うと、引き戸をノックして開けた。

 中には、リウンと知らない老人がいた。老人はどうやら医師のようで、任務で負傷したと思われるリウンの腕に包帯を巻いている。

「ナナセ様、どうかしたんですか?」

 リウンは治療のために片肌脱いでいた服を着直して、慌てて立ち上がった。

「あ、私……」

 ここが医務室であると知らなかった七瀬は、老人とリウンを前に部屋に入ることをためらった。どう考えても自分は邪魔者である。
 だが老人は、薬や鋏を棚にしまいながら大らかに微笑んだ。

「もう終わったところですから、お気になさらず。わしは帰ります」
 そう言って、老人はぺこりとお辞儀をして立ち去った。

 その場には、七瀬とリウンだけが残される。

「ご用件は、何でしょうか」
「まず、怪我人は座ってほしいかな」

 不安そうな顔で来た理由を尋ねるリウンに、七瀬は着席を勧めた。

「……はい」

 リウンは素直に寝台に腰掛けた。
 七瀬もその前に置いてある椅子に座る。

「怪我したのは任務でだよね。大丈夫?」
「少し傷を負いました。でもかすり傷です」

 リウンは慎ましい物言いで答えた。
 軽傷だと言うのは嘘ではなさそうだが、袖は血に汚れ、顔色もいつもよりも悪い。また七瀬の問いには答えていても、心ここにあらずといった感じである。
 その憔悴した姿に、七瀬は胸に痛みを覚えた。

(確か、ディオグはリウンに反逆者一家の処刑か何かを命令したんだっけ。一家っていうことは、やっぱり女性や子供とかも殺すことになったのかな……)

 七瀬はいろいろと想像してしまって、やるせない気持ちになって尋ねた。

「どうして、あなたはディオグに従うの? あいつの命令は酷い内容ばかりなのに」

 意気込み過ぎたのか、七瀬の問いは責めるような調子になってしまう。
 だがリウンは生真面目な態度を崩さず、ディオグへの服従を語った。

「陛下はこの国の王で、私の主です。逆らう理由がありますか?」

 リウンは硬い表情で、七瀬の前に座っていた。
 その頑なさに苛立ち、七瀬はつい声を荒げた。

「主って言っても、あなたに父親を殺させた男でしょ。そんな奴の言うことが正しいって、本気で思っているの?」

 鋭く硬質な七瀬の声が、薬棚の並ぶ部屋に響く。

 その七瀬の指摘に、リウンは一瞬虚をつかれたような表情になった。
 罪を犯した女官の手を切り落としたときと同じ顔をして、なぜ知っているのかと問いたげに七瀬を見つめる。その様子から、リウンは本当のところはディオグの命令の正当性を信じ切れていないことがよくわかった。

 だがリウンはすぐに自分を律して、ディオグへの恩について語った。

「それでも陛下は、叛逆者の息子である私の命を助けてくださいました。私はあの方の恩に報いなければいけません」

 ディオグは自分の恩人であると、リウンは言い張る。ディオグの望んだ通り、リウンは自分は罪深い存在で、ディオグの命令は世のために正しいのだと思い込まされていた。

 七瀬はリウンの目を覚まさせたい一心で、その袖を掴んで握りしめた。

「だからその前提がおかしいんだって。何で自分を監禁した男に恩を感じるわけ? ディオグの言いなりになって人を殺すなんて、もうやめなよ。どんな理由を並べたって、全然平気そうじゃないんだから」

 七瀬の声は、いつしか懇願するような調子へと変わっていた。

「ナナセ……」

 必死に服を掴む七瀬の手に、リウンはたどたどしく自分の手を重ねた。
 リウンの手は固くて大きく、そして温かい。
 自分が深く心配されていることを、リウンはやっと理解らしかった。

 だがそれでも、リウンはなぜ七瀬がこれほどまでに自分のことを考えているのかはわからなかったようだ。
 リウンは困り果てた様子で、そっと七瀬に言った。

「……ナナセはここじゃない世界の方で、ちゃんと帰る場所があります。いろいろ心配してくださるのはありがたいですが、俺の一生についてあなたがそこまで気に病む必要はないんじゃないですか?」
「リウン……」

 リウンに真摯な眼差しを向けられ、七瀬は無力さを噛みしめた。どんなに手を伸ばしたところで、本当に触れたいものには触れられなかった。
 そしてリウンは、七瀬の手を袖から優しく離した。

「もう遅い時間ですから、お戻りください。部屋まで送ります」

 リウンが戸を開けようと立ち上がる。七瀬とリウンの本来の身分差を強調することで、問題を終わらせようとしたのだと思われた。
 その態度が気に入らず、七瀬は背を向けた。

「自分で帰るから、必要ないよ」
「しかし……」
「いいから、怪我人はおとなしくしてて!」

 七瀬はそう言ってリウンを無視し、一人で部屋を出た。
 もしかしたらリウンは七瀬にまだ何か伝えようとしていたのかもしれないが、これ以上自分が役に立たないことを実感したくはない。

 七瀬が足早に歩く音が、石畳に覆われた長い廊下に響き渡る。
 自室に帰る途中、七瀬は渡り廊下から夜空を見上げた。空にはやや欠けた月が二つ見えていた。
 月が宮殿を美しく照らしている様子を眺め、七瀬はリウンのことを考えた。

(今まで私は、誰の重荷にもならないように生きてきた。だけどリウンに対してはそうはできない。私はリウンを助けたい。だって私は、リウンのことが好きだから)

 この世界でディオグに虐げられているのは、リウンだけではなかった。七瀬の知らない大勢の人が、ディオグの非道な命令に従っていると思われた。
 救われるべき不幸な存在は他にもいる。
 だが七瀬が絶対に幸せになってほしいと思うのは、リウンただ一人であった。

 なぜなら七瀬は、そのようにリウンを見つけてしまった。
 他の人間は、七瀬の目には映らなかった。森で出会ってからずっと、七瀬の側にはリウンがいる。七瀬は今まで、これほど長い間異性と共に過ごしたことがなかった。

(きっとリウンでない人と出会ったなら、その人のことを考えていたはず。でも私はこの世界でリウンと出会った。誰でも良かったけど、リウンだった。きっとこれが、運命なんだ)

 七瀬は、家族や友達がいた元の暮らしを思い出した。
 それは穏やかで心地の良い日々であった。

 しかし七瀬のいた世界にも、遠い国では戦争があって、貧困があって、人は死んでいた。比較的豊かな日本であっても、虐待やら何やらで苦痛に満ちた人生を送る人はいた。
 これほどまでに好き勝手やってないにしろ、ディオグのように他人を不幸にして喜ぶ人間も、七瀬が会ったことがないだけでそれなりにいるはずだ。

 そう考えたとき、七瀬は自分はたまたま当たりくじをひいただけなのだと実感した。
 それはまったくの偶然で、だが決定的に七瀬とリウンを隔てている。

 ささやかな普通の幸福の中で生きるはずだったリウン。
 だが今はもう、リウンは幸せになることを許されていなかった。

 七瀬は、自分がこれから先どんなに不幸になったとしても、現時点でこれだけ幸せに生きてくることができたという時点で、リウンよりもずっと恵まれているという事実は変わらない気がした。七瀬には、リウンが幸せになる未来は見えない。

(しかも私には、リウンと違って帰る場所がある)

 そのとき、七瀬は自分があと数日で帰る存在であることを強く意識した。
 七瀬はリウンに対して特別な感情を持ってしまっていた。だがやはり、帰りたいという気持ちが消えることはない。

 ふと七瀬は、ディオグが神殿の遺跡で語っていた悲恋の伝説を思い出した。
 この世界の王に恋したけれども、自らの世界に帰ることを選択した少女。結局は離れたにしても、少女の存在は良くも悪くも残された王に影響を与えていた。

 しかし七瀬の場合は、このまま帰ってもこの世界はほとんど変化しないだろうという確信があった。

(私は、何もできないまま帰るんだろうか。だとしたら、私がここに来た意味は何? 帰った後で、私はリウンに対してどんな気持ちでいればいい?)

 七瀬は思い悩みながら、夜空を眺めた。
 リウンを不幸なままこの世界に残したくはなかった。しかし、それ以外の道は今のところ見えない。
 七瀬は答えを出せないまま、しばらくの間立ち尽くした。