七瀬が悶々としているうちに、二人の乗った馬車は町に着いた。

 ディオグの残酷な統治の中にある国だから、町といってもそうたいした場所ではないだろうと七瀬は思った。
 だがキエンに手を借りて馬車から降りてみると、想像していたよりもずっと活気がある光景が広がっていた。

(あれ? 何か、宮殿の様子から想像してたよりもずっと良さげな場所だけど……?)

 そこは黒い瓦屋根の木造の平屋がずらりと並ぶ、よく整備された町だった。
 町のあちこちには赤い提灯が掲げられ、異国情緒を感じさせる。道の両脇には様々なお店があり、軒下には野菜などの食料品や木細工の器などの日用品といった多彩な品物がそれぞれ並んでいた。

 客を呼び込む商人の威勢のいい声が響く中、人々は通りを歩いて買い物をしていた。大多数が生成りの素朴な服を着た庶民のようだが、皆それなりに清潔で顔に生気があった。

 キエンは、七瀬を人ごみの中でリードしつつ歩いた。

「驚いてるみたいですね」
「うん。はっきり言って、意外」

 七瀬は周りの人々を見回しながら言った。
 ディオグのような非道な王の統治する国であるので、その民ももっと貧乏で不幸そうな人たちを想像していた。事実宮殿は、一見美しいが嫌な雰囲気の場所だった。

 だが市場で売り買いをする民衆は、宮殿にいる人々とは違ってほどよい豊かさの中で感情豊かに生きている。誰に強いられたわけでもない自然なにぎわいが、そこにはあった。

「陛下は政は下手じゃないんです。自分が権力を握り続けるために、ちゃんと良いことだってしますからね。宮殿での様子はともかく、民の間では名君扱いですよ」

 褒めているのか貶しているのかよくわからない調子で、キエンはディオグの評判について語った。にわかには信じがたいことではあるが、町の繁栄を見る限りディオグは本当に統治者としてはそこそこ優秀なようだ。

 道行く人々を眺め、キエンは感慨深げに言った。

「先代の王は、今の陛下よりもずっと人格者でお優しい方だったそうです。でも先王の時代は日照りや疫病などの天災ばかりで、ろくなことがありませんでした。でも陛下が即位してからは天候も良く豊作続きで、治世も無難に善政で安泰。何百年かぶりに吉兆を意味する瑞風も起きて、稀客であるあなたも現れました。不思議なものですよね」

 キエンの横顔は笑っていたが、その言葉ははっきりと世の不条理を説いていた。

(確かにキエンの言う通り、国全体で見て政治がうまくいってるなら王の人格は関係ないのかもしれない。だけど、その犠牲は……)

 ディオグが大多数の民にとっては名君だとわかってもなお、七瀬は彼を認めることができなかった。自らの快楽のために他人を傷付けるディオグの罪は、どんなに良いことをしても帳消しにはならないと思った。
 しかしそれでも、ディオグを断罪できない面があることもまた確かである。

「あ、美味しい麺の屋台はこっちですよ」
 ジレンマに悩む七瀬をよそに、キエンが屋台の方へと歩いて行く。

(……とりあえず、食べるか!)

 七瀬は思考を一旦手放し、案内されるまま屋台を巡り食べ歩いた。

 ラーメンというよりはうどんに近い麺や、甘辛く揚げられた白身の魚。
 そしてよく冷えた瓜に、飴のかかったクルミ。
 悩みを一時忘れるほどには、どの食べ物も美味しかった。

 クルミの最後の一粒を食べる七瀬に、キエンは自信ありげに尋ねた。

「どうでしたか?」
「麺もデザートもいい味だったよ。ありがとう」

 クルミを舐めながら、七瀬は答えた。
 甘すぎず堅すぎず、ちょうどいい味であった。

(でも結構食べ過ぎてしまったな)

 七瀬は満腹になって、屋台の並ぶ通りを出た。
 その後キエンと一緒に何となく町を歩いていると、人だかりが見えた。
 広間のように広い十字路で、人々が何かを競って買っている。品物を売っているのは髪の薄い大男で、大声で場を取り仕切って値を釣り上げていた。

「あれは何だろう?」
 七瀬は軽い好奇心で、近づいた。
「あぁ、あれは……」
 キエンが口を開きかける。

 だがキエンが説明するよりも前に、七瀬はその目で何が売られているのかを知った。

 人と人の隙間から見えた、大男が売る品物。それは人間の死体であった。

「……っ!?」

 予想していなかった光景に、七瀬はふらつき後ずさった。
 一瞬倒れそうになったところを、キエンがそっと抱きとめる。

 広間の中央に置かれた台車には、十人近くの死体が積み上げられていた。中には首や手足がないものもある。

 大男は大きな刀を持ち、マグロの解体ショーのように人の体を切り分け売っていた。
 買い求める人々は、男も女も口々に求める部位と買値を叫んでいる。

 ふいに風が吹いて、血の臭いが七瀬の鼻をついた。そのとき一気に生々しさを感じた七瀬は、吐き気を覚えてしゃがみこんだ。

「大丈夫ですか?」

 キエンは屈んで、七瀬に調子を聞いた。
 吐き気を必死でこらえながら、七瀬は答えた。

「ちょっと、やばいかも」
「じゃあ、あっちに行きましょう。もう少し頑張ってくださいね」

 七瀬の肩を抱き、キエンが川沿いへと連れて行く。
 その土手の草むらで七瀬は吐いた。
 キエンは水や濡れた布などを持ってきて、七瀬を介抱してくれた。

 水を飲んで落ち着いた七瀬は、キエンに尋ねた。

「さっきのは何? 何で、人が人の死体買ってるの?」

 半ば問いただすような調子の七瀬に、キエンは淡々と説明した。

「あれは、宮殿で処刑された人の死体ですね。人の肉って珍味とか薬としてそこそこ高値で売れるので、ああやって町で売ってるんです。わりといい稼ぎになるらしいですよ」

 キエンの説明は非人道的で身も蓋もなかったが、残念ながらそれは真実らしかった。
 事実、先ほど七瀬が目撃したこの町の民衆は、死体を売り買いすることに何の疑問も持っていないように見えた。
 だが理屈は何であれ、七瀬は倫理的にその行為を受け入れることができなかった。

「人が人を食べるとか、頭おかしいでしょ」

 七瀬は吐き捨てるように言う。
 食人の風習への嫌悪を隠さない七瀬を、キエンは不思議そうにまじまじと見つめた。

「あなたの世界では食べないんですね」
「食べるわけないじゃん!」

 七瀬は思わず叫んだ。

「そうですか。それじゃあ、もうそろそろ宮殿に戻りましょうか。それともまだ見たいものがありますか?」
 キエンが七瀬の激昂をさらりとかわして立ち上がる。
「……帰るよ。こんな町」
 吐き気がぶり返しそうになるのを堪えて、七瀬は答えた。

 そうして二人は、再び馬車に乗って帰った。

 空気を読んだキエンは、黙って七瀬の隣に座っていた。
 午後の太陽の日差しは強く、馬車の座席は熱かった。

 馬車は森の中の小道を進み、やがて宮殿へとたどり着く。
 キエンが再び口を開いたのは、宮殿の門で馬車から降りたときだった。

「あの時は言いませんでしたけど」

 唐突なキエンの言葉に、七瀬は振り向いた。
 話の内容を問いかける前に、キエンがそのまま続きを語る。

「リウンが父親を殺した次の日、俺も両親を殺したんです」

 キエンは城壁の前に立ち、七瀬に過去を明かしていた。
 夕日による逆光で顔は良く見えず、背の高いシルエットだけが浮かび上がる。

(え、今なんて?)

 その重大な告白に、七瀬は何も言わずにキエンを凝視した。

「でもそれは、強制されたからじゃありません。親を殺して強さを証明すれば、俺もリウンみたいに邑の外に連れて行ってもらえると思ったんです。だから就寝中の父と母を殺し、首を持って陛下に頼みに行きました。俺はあの退屈な邑が嫌いで、ずっと出て行きたかった。リウンのことも羨ましかったんです」

 その声は淡々としていたが、幼い自分の行為が決定的に人倫に反していることへの自覚は一応は感じられる。だからこうやって七瀬に過去を語るのは、特別なことなのだと思われた。
 しかし同時にキエンは、今もなお両親を殺したことを後悔していないようでもあった。
 夕闇に目が慣れて、七瀬はキエンが小さく笑っているのを見ることができた。

 故郷での生活を大切にしていたリウンと違って、キエンはそこではないどこかを求めていた。それは地元に特に不満を持っていない七瀬にはない感情だったが、わからないものではなかった。
 だが、その結果両親を殺すという選択は理解しがたかった。

「リウンはそれ、知っているの?」
「いいえ。あいつは俺もむりやりここに連れてこられたと思ってます」

 七瀬の問いに、キエンはほんの少しだけ後ろめたそうに答えた。
 キエンにとっては、親を殺したことよりもリウンに自分を偽り続けていることの方が問題であるようだった。
 そしてキエンは逆光の中で、七瀬にゆっくりと問いかけた。

「リウンは知りませんが、少なくとも俺はあの邑よりもこの場所が好きです。誰かが不幸になれば、誰かが幸せになる。仕組みは違えど、それはあなたの住む世界でも同じなんじゃないですか?」

 赤い夕焼けの光の中で、キエンの声がはっきりと響く。
 キエンはリウンによく似たほどよく低い澄んだ声をしていたが、その表情はまったく違った。

 同じ誕生日に生まれ同じように育った二人だが、キエンの不幸はリウンの幸せであり、リウンの不幸はキエンの幸せであった。

 宮殿の人間にとっては苦痛なディオグの統治も、民にとっては善政である。人々は、処刑された人の死体を喜んで買う。

 幸せというものは、誰かの不幸の上にしか成り立たない。七瀬がそこそこ幸せな人生を歩む陰にも、見えないふりをしてきた他者の不幸が確かにあった。

(犠牲が必要なのは、この世界だけじゃない。きっと、学校だってどこだって……)

 人の幸不幸は表裏一体で切り離すことができないという真理は、個人の存在に左右されるものではない。
 そんな現実を、キエンは七瀬に突きつけていた。

 そして、ただ与えられた幸せを享受していた七瀬もまた潜在的には加害者であるのだ。

「そうなのかもしれない。でも……」

 七瀬は服の裾を握りしめうつむいた。だが、反論が浮かばなかった。
 遠い場所を眺めるように、キエンは七瀬を見つめていた。

「……っ」

 七瀬は、目を上げることもできずに駆け出した。
 キエンは七瀬を追わないし、何か呼びかけることもない。
 自分がどこへ行こうとしているのか、七瀬にはわからなかった。