黒い雲に覆われた空の下、暴風雨になりつつある風が雑木林と田畑しか見えない田舎道を吹き抜けていく。台風接近中の九月の夕方は日没前だけれども暗く、空気は湿気が多くて重かった。

(やばいなぁ。忘れた弁当箱取りに学校戻ってたら、完全に降りだしてきたよ。朝の天気予報で言ってたよりも、台風の進み速くなってない?)

 野々山七瀬は風に負けないように自転車を漕ぎつつ、うんざりとした気持ちになった。
 雨はどんどん勢いを増して制服を濡らし、水を吸って重くなったスカートがペダルを踏む邪魔をした。

 なぜこういう時に限って雨合羽を持っていないのだろうと、七瀬は見通しの甘かった朝の自分を後悔した。
 文化祭の準備で遅くなることはわかっていたが、弁当箱を教室に忘れて引き返すことになったのは計算外だ。おかげで普段一緒に帰宅している友人とは別に一人で帰ることになり、よりみじめな気持ちになった。

 七瀬の住んでいる風来町は、山奥に位置する辺鄙な農村である。
 人口も少なく、老人の多い場所だ。
 七瀬はそこで農家を営む一家の子に生まれ、今は高校二年生であった。社会人の姉が一人と中学生と小学生の妹が二人いるので、四人姉妹の次女である。

(早く家帰って、秋の新作ドラマ見たいのに……。あ、でもこの天気だと、初回放送なのに台風のテロップ付きか。嫌だなぁ)

 七瀬は帰宅後のことを考えながら、ひたすら自転車を漕いだ。
 高校と自宅を結ぶ通学路は、この辺りでも一番に人の気配がない寂しい場所である。ただでさえ面白くない道なので、雨の中ではさらに楽しいことは何もない。

 申し訳程度に設置された街灯が照らす交差点を曲がると、川沿いの土手の上にある道に入った。薄暗い夕暮れの中で黒い空を映す川は、雨に降られて水面を揺らしていた。
 七瀬は、その川に沿って進んだ。

 向こう岸には、風来町のゆるキャラである『てんじんさま』の描かれた観光PRの看板が見えた。和洋折衷のひらひらした服を着た、二頭身の男の子のキャラクターだ。

 『てんじんさま』というのは、昔から風来町に伝わる『天人様』の伝承からとってある。
 その話によればこの土地には、どこか違う世界からやって来た存在である「天人様」がよく来訪したらしい。天人様がいると、不思議なことに土地の実りは豊かになった。だから村人たちは、天人様が現れた場合とても喜んでもてなしたという。

 年に一度春の祭りの中で行われる奉納の舞に形を変えて現代に残ったその伝承は、寒村である風来町の数少ないアイデンティティーの拠り所であった。

(……そんな由来のゆるキャラを作ったはいいけど、この場所に看板置いたところで誰へのPRになるんだろう。私が見たってしょうがないよね)

 可愛らしいもののいまいちわかりやすさの欠ける地元のゆるキャラをちらりと見ると、七瀬は再び進行方向を向いた。

 一刻も早く帰りたい七瀬は、自転車のスピードを上げようと強くベダルを踏んだ。
 だが少々やりすぎてしまったらしく、勢いづいたタイヤが濡れたコンクリートの上をずるりと滑る。七瀬と自転車は、そのまま斜めにバランスを崩した。

(あ、これやばいかも?)

 七瀬は一瞬の浮遊感の中で、自分が失敗したことを悟った。運の悪いことに、そこは川沿いの道の中でちょうどフェンスが途切れている場所であった。

 そして次の瞬間、体に衝撃が走った。

 気づけば七瀬は、土手を転がっていた。
 幼かったころに公園の大きな滑り台で遊んでいた時のような、現実味のない感覚。しかし今この先にあるのは安全な砂場ではなく、冷たい濁流である。

(そういえばこの川、最近ずっと雨だったから増水してるんだっけ――)

 このまま川に流された場合、果たして自分は無事でいられるのだろうかという問いとともに、七瀬は水中に落下した。