「うーん、それにしてもこの部屋……どこかで見たことある気がするなぁ」
「ふぅん、どこで見たの?」
アケルは奥の出窓にヒョイと飛び乗ると、こちらに向き直った。
「そうだ! 私が初めて猫を飼ったときに住んでいた部屋の間取りに似てるのよ。だけど、ここは何の施設なんだろう。随分とこざっぱりした部屋だよね……」
室内には生活感がまるでない。アケルは出窓に腰掛けたまま、投げ出した足をパタパタと揺らして様子を伺っている。
なにか手がかりになるようなものはないかな……?
広いワンルームの角には大きなキングサイズのベッド。壁掛けの大きな薄型テレビと小さな冷蔵庫。入ってきたドアの左側には洗面所にシャワールームがあった。壁紙はとても美しい和紙のような白……。この家具の少なさと部屋の表情からは、住人の面影を感じさせるものがあまりない。
まるでホテルの一室のようだ。
「うーん、冷蔵庫になにか入ってるかな?」
ひとり暮らしで使うにしても小さい、正方形型の冷蔵庫を開けると、中にミネラルウォーターやジュースなどが入っていた。
「あ、ちゃんと冷えてる。アケル、喉渇いてない? ジュースもあるよ」
「ほんと⁉ いいの? 飲む!」
「たぶんね」
アケルが出窓から飛び降りてこちらにやってくる。微笑む私の前で、アケルは目を輝かせながら黄色の缶を指差した。
「わたし、これが飲んでみたい!」
「なにジュースかな? なんの絵も名前も書いてないね……」
冷蔵庫の上に伏せて置かれていたグラスをひとつ手に取る。缶ジュースを開けて注ぐと、それはとろりと輝いた黄色のジュースだった。匂いを嗅ぐとほのかに甘い香りがする。
一口飲んでみると、とても美味しかった。
「マンゴーだ! マンゴージュースよ、これ」
アケルが両手を差し出して、「んーんー」とねだっている。
「ごめん、ごめん」
少し継ぎ足してから渡すと、アケルは両手でグラスを持ち、傾けながらごくごくジュースを飲んだ。
そのとき、ドアをノックする音が部屋に響いた。
――コンコン……。
部屋の主が帰ってきたのだろうか。
私が身構えると、アケルは怯えて背後に隠れた。
――コンコン……。
ガチャリと音がしてドアがゆっくりと開いていく。
ドアの隙間から人影が現れると、アケルが私の足にしがみついた。
「わたし、あの人、怖い……」ぎゅうっと強く両腕を巻きつける。
「アケル……?」
男はこちらへ向かってコツコツと足音を立てながら歩いてくる。上下タイトな黒のスーツに身を包み、きちんと喉元まで閉じられた白のワイシャツ姿。一際目立つ紅いネクタイと、手には真っ白な手袋をはめている。袖口から見える金のカフスボタンが印象的だ。
髪の毛はオールバックで整えられていて、艶のあるグリースでまとめられている。その風貌にはとても清潔感があった――と、ここまではとても好印象に見えた人物だったけれど、ひとつだけ異様なのは、この男、白いお面を被っているのである。
白いお面の口は頬の辺りまで裂け、目はまるで狐の妖怪でも思わせるかのごとき弓なりの細さ。笑った顔と言えば笑った顔だが、無表情でしかないそのお面は不気味以外のなにものでもない。
お面の男がゆっくりと近づいてくると、アケルは一層力強く私にしがみつき顔を背けた。私も男の威圧感に声すら出せずにいる。
「こちらにおられましたか!」
男の声が嬉しそうに弾む。不気味な仮面とは裏腹な言葉の抑揚に、私は思わず固まった。
「いやぁ、わたくし随分と探しましたよ?」ほっとした声を出す。
「あの……。あなたは?」私は勇気を出して訊ねた。
「おや? 貴女は?」
仮面の男は私のことなどまるで目に入っていなかったかのような反応を示した。仮面の下に隠れて目は見えないけど、心持ち視線を上げる。
「あ……わ、私は七海、七海千里です。なぜだかわからないんですけど、気がついたらここにいたんです」
「おお? ……おお……」仮面の男は大袈裟に両手を開き、驚いたジェスチャーをする。続けて腕を前で組み、左手を顎に添えて考えこむようなポーズをとった。
「千里……千里……」どこから取り出したのか、手にした黒い台帳を開き、指差しながら名前を探し始める。
「あの……」
声をかけると、仮面の男は台帳に視線を落としたまま、少し待てと言わんばかりに右手を前に出し私を制した。
「あぁ! 七海千里様、特別優待枠のお客様でしたか!」
仮面の男は持っていた台帳を放り投げると、深く会釈をした。
「これは、これは失礼致しました。ようこそお越しくださいました。わたくし、当ホテルの総支配人のケルビムでございます」
「ホテル? ここはホテルなの?」
アケルは、依然として私に隠れてしがみついたままだ。仮面の男は直立不動にもかかわらず、首を不自然に斜めに傾けると、歓迎しているのかしていないのかわからない声色で伝えてくる。
「はい。わたくし、ただいまそう申し上げました。本日はご足労いただきありがとうございます。ホテルエデンへようこそ」
アケルがさらにぎゅっとしがみつく。――表情のない簡素な部屋に、表情のない仮面の男。異様なこの光景と、アケルの怯えが伝わってきて、私は苛立った。
「どっ、どうして私はホテルなんかにいるの⁉ それに、ご足労って……」
声を荒げる私を、仮面の男が慌ててなだめた。
「あぁ、あぁ、落ち着いてくださいませ千里様。わたくしどもは貴女方に危害を加えることは決してございません」
仮面の男は中腰で、両手を前に突き出し、左右に振る。
「いったいどういうことなの? 説明して!」思わず涙声になる。
仮面の男は姿勢を正し、咳ばらいをひとつして続けた。
「では、当ホテル総支配人を勤めさせて頂いております、わたくしケルビムからご説明申し上げたいと思います。ここはホテルエデン」
男は直立不動で語りながらも、どことなくアケルの様子を気にしているようだった。
「当ホテルは、完全会員制でございます。会員以外は入館することは適いません。しかしながら大変稀な事例ではあるのですが、千里様のように特別優待枠のお客様をお迎えすることがございます」
回りくどい言い方だ。要するに――、
「……ここが、ホテルだっていうことはわかったわ。でも私には、ここへ来た記憶は一切ないの。それに特別優待枠って、なにも思いあたらないです。このホテルはどこにあるんですか?」
「おやおや、お迎えいたしましたと申しますか、お招きいたしましたと申しますか。おやおや、そうですね、場所につきましては、一切の秘密でございまして、主人に難く口止めされておりますゆえ、わたくしの口から申し上げることはできかねます。こちらへお招きしたルートに関しても、お客様の記憶については、どうやってこちらまで辿り着いたのか覚えていないように処置させていただいております」
「どういうこと⁉ あなたの説明だと、私は望んでもないのに勝手に連れてこられたってこと? そんなの完全秘密主義を建前にした誘拐じゃないの!」
「いえ、いえ、勝手にだなどと! わたくしどもは決して誘拐など致しません。貴女様が望んだからこそ、こちらにおられるのです」
パニック寸前の私に、男はわけのわからない説明を重ねる。アケルがぎゅっとしがみついた手から、じっとりとした汗が私の足に伝わった。とにかく、喚いたって仕方がない……。それに、男の腰の低さを見る限り、捕らわれの身になっているわけでもなさそうだ……。
「とにかく……、私は望んでここにきたつもりはないの。帰れるんでしょうね」
「もちろんですとも。しかし貴女をご自宅へとお送り致します前に、少々わたくしに付き合って頂いても構いませんでしょうか?」
仮面の男は意味ありげなことを言う。
「付き合うって?」
「アケル様でございます。わたくし、当ホテルのオーナー様に、アケル様を本館までお連れするよう、命じられているのです」
アケルは私の後ろに隠れたまま、行きたくないと首を横に振る。
「本館に? アケルは、そのオーナーさんとはどんな関係なの?」
「アケル様は、当ホテルのオーナー様のお嬢様でございます」
「え、そうなの? すごいじゃない、アケル」
しかしアケルは顔を背ける。
「……ねぇ、あなた、彼女を怖がらせるようなことをした?」
男がこの部屋に入って来たときも、アケルは「こわい」と口にしていた。仮面の男は申し訳なさそうに、「実は……」と切り出した。
「ふぅん、どこで見たの?」
アケルは奥の出窓にヒョイと飛び乗ると、こちらに向き直った。
「そうだ! 私が初めて猫を飼ったときに住んでいた部屋の間取りに似てるのよ。だけど、ここは何の施設なんだろう。随分とこざっぱりした部屋だよね……」
室内には生活感がまるでない。アケルは出窓に腰掛けたまま、投げ出した足をパタパタと揺らして様子を伺っている。
なにか手がかりになるようなものはないかな……?
広いワンルームの角には大きなキングサイズのベッド。壁掛けの大きな薄型テレビと小さな冷蔵庫。入ってきたドアの左側には洗面所にシャワールームがあった。壁紙はとても美しい和紙のような白……。この家具の少なさと部屋の表情からは、住人の面影を感じさせるものがあまりない。
まるでホテルの一室のようだ。
「うーん、冷蔵庫になにか入ってるかな?」
ひとり暮らしで使うにしても小さい、正方形型の冷蔵庫を開けると、中にミネラルウォーターやジュースなどが入っていた。
「あ、ちゃんと冷えてる。アケル、喉渇いてない? ジュースもあるよ」
「ほんと⁉ いいの? 飲む!」
「たぶんね」
アケルが出窓から飛び降りてこちらにやってくる。微笑む私の前で、アケルは目を輝かせながら黄色の缶を指差した。
「わたし、これが飲んでみたい!」
「なにジュースかな? なんの絵も名前も書いてないね……」
冷蔵庫の上に伏せて置かれていたグラスをひとつ手に取る。缶ジュースを開けて注ぐと、それはとろりと輝いた黄色のジュースだった。匂いを嗅ぐとほのかに甘い香りがする。
一口飲んでみると、とても美味しかった。
「マンゴーだ! マンゴージュースよ、これ」
アケルが両手を差し出して、「んーんー」とねだっている。
「ごめん、ごめん」
少し継ぎ足してから渡すと、アケルは両手でグラスを持ち、傾けながらごくごくジュースを飲んだ。
そのとき、ドアをノックする音が部屋に響いた。
――コンコン……。
部屋の主が帰ってきたのだろうか。
私が身構えると、アケルは怯えて背後に隠れた。
――コンコン……。
ガチャリと音がしてドアがゆっくりと開いていく。
ドアの隙間から人影が現れると、アケルが私の足にしがみついた。
「わたし、あの人、怖い……」ぎゅうっと強く両腕を巻きつける。
「アケル……?」
男はこちらへ向かってコツコツと足音を立てながら歩いてくる。上下タイトな黒のスーツに身を包み、きちんと喉元まで閉じられた白のワイシャツ姿。一際目立つ紅いネクタイと、手には真っ白な手袋をはめている。袖口から見える金のカフスボタンが印象的だ。
髪の毛はオールバックで整えられていて、艶のあるグリースでまとめられている。その風貌にはとても清潔感があった――と、ここまではとても好印象に見えた人物だったけれど、ひとつだけ異様なのは、この男、白いお面を被っているのである。
白いお面の口は頬の辺りまで裂け、目はまるで狐の妖怪でも思わせるかのごとき弓なりの細さ。笑った顔と言えば笑った顔だが、無表情でしかないそのお面は不気味以外のなにものでもない。
お面の男がゆっくりと近づいてくると、アケルは一層力強く私にしがみつき顔を背けた。私も男の威圧感に声すら出せずにいる。
「こちらにおられましたか!」
男の声が嬉しそうに弾む。不気味な仮面とは裏腹な言葉の抑揚に、私は思わず固まった。
「いやぁ、わたくし随分と探しましたよ?」ほっとした声を出す。
「あの……。あなたは?」私は勇気を出して訊ねた。
「おや? 貴女は?」
仮面の男は私のことなどまるで目に入っていなかったかのような反応を示した。仮面の下に隠れて目は見えないけど、心持ち視線を上げる。
「あ……わ、私は七海、七海千里です。なぜだかわからないんですけど、気がついたらここにいたんです」
「おお? ……おお……」仮面の男は大袈裟に両手を開き、驚いたジェスチャーをする。続けて腕を前で組み、左手を顎に添えて考えこむようなポーズをとった。
「千里……千里……」どこから取り出したのか、手にした黒い台帳を開き、指差しながら名前を探し始める。
「あの……」
声をかけると、仮面の男は台帳に視線を落としたまま、少し待てと言わんばかりに右手を前に出し私を制した。
「あぁ! 七海千里様、特別優待枠のお客様でしたか!」
仮面の男は持っていた台帳を放り投げると、深く会釈をした。
「これは、これは失礼致しました。ようこそお越しくださいました。わたくし、当ホテルの総支配人のケルビムでございます」
「ホテル? ここはホテルなの?」
アケルは、依然として私に隠れてしがみついたままだ。仮面の男は直立不動にもかかわらず、首を不自然に斜めに傾けると、歓迎しているのかしていないのかわからない声色で伝えてくる。
「はい。わたくし、ただいまそう申し上げました。本日はご足労いただきありがとうございます。ホテルエデンへようこそ」
アケルがさらにぎゅっとしがみつく。――表情のない簡素な部屋に、表情のない仮面の男。異様なこの光景と、アケルの怯えが伝わってきて、私は苛立った。
「どっ、どうして私はホテルなんかにいるの⁉ それに、ご足労って……」
声を荒げる私を、仮面の男が慌ててなだめた。
「あぁ、あぁ、落ち着いてくださいませ千里様。わたくしどもは貴女方に危害を加えることは決してございません」
仮面の男は中腰で、両手を前に突き出し、左右に振る。
「いったいどういうことなの? 説明して!」思わず涙声になる。
仮面の男は姿勢を正し、咳ばらいをひとつして続けた。
「では、当ホテル総支配人を勤めさせて頂いております、わたくしケルビムからご説明申し上げたいと思います。ここはホテルエデン」
男は直立不動で語りながらも、どことなくアケルの様子を気にしているようだった。
「当ホテルは、完全会員制でございます。会員以外は入館することは適いません。しかしながら大変稀な事例ではあるのですが、千里様のように特別優待枠のお客様をお迎えすることがございます」
回りくどい言い方だ。要するに――、
「……ここが、ホテルだっていうことはわかったわ。でも私には、ここへ来た記憶は一切ないの。それに特別優待枠って、なにも思いあたらないです。このホテルはどこにあるんですか?」
「おやおや、お迎えいたしましたと申しますか、お招きいたしましたと申しますか。おやおや、そうですね、場所につきましては、一切の秘密でございまして、主人に難く口止めされておりますゆえ、わたくしの口から申し上げることはできかねます。こちらへお招きしたルートに関しても、お客様の記憶については、どうやってこちらまで辿り着いたのか覚えていないように処置させていただいております」
「どういうこと⁉ あなたの説明だと、私は望んでもないのに勝手に連れてこられたってこと? そんなの完全秘密主義を建前にした誘拐じゃないの!」
「いえ、いえ、勝手にだなどと! わたくしどもは決して誘拐など致しません。貴女様が望んだからこそ、こちらにおられるのです」
パニック寸前の私に、男はわけのわからない説明を重ねる。アケルがぎゅっとしがみついた手から、じっとりとした汗が私の足に伝わった。とにかく、喚いたって仕方がない……。それに、男の腰の低さを見る限り、捕らわれの身になっているわけでもなさそうだ……。
「とにかく……、私は望んでここにきたつもりはないの。帰れるんでしょうね」
「もちろんですとも。しかし貴女をご自宅へとお送り致します前に、少々わたくしに付き合って頂いても構いませんでしょうか?」
仮面の男は意味ありげなことを言う。
「付き合うって?」
「アケル様でございます。わたくし、当ホテルのオーナー様に、アケル様を本館までお連れするよう、命じられているのです」
アケルは私の後ろに隠れたまま、行きたくないと首を横に振る。
「本館に? アケルは、そのオーナーさんとはどんな関係なの?」
「アケル様は、当ホテルのオーナー様のお嬢様でございます」
「え、そうなの? すごいじゃない、アケル」
しかしアケルは顔を背ける。
「……ねぇ、あなた、彼女を怖がらせるようなことをした?」
男がこの部屋に入って来たときも、アケルは「こわい」と口にしていた。仮面の男は申し訳なさそうに、「実は……」と切り出した。