[一年前――]

 私は、長年ともに暮らした愛猫を失い、その傷が癒えぬままに毎日を過ごしていた。
 私と愛猫の「楓」は、まさに親子であり姉妹だった。
 夫、貴之との付き合いよりも遥かに長い――そんな愛する娘であり、妹でもある楓との生活も、限りある命の時間には勝てず、その輝かしく喜びに溢れた日々の思い出だけを残し、私たちはついに離れ離れになってしまった。
 半身を失ったかのような喪失感に蝕まれる毎日――。ただ流れる虚無な時間が、ゆっくり重くのしかかる。
 なにも食べられず、なにも手につかない。そんな抜け殻のような私を夫は励まし続けてくれたけれど、ふとした空白の時間が容赦なく楓との思い出を蘇らせ、私はまたその記憶から抜け出せなくなり、塞ぎ込むという繰り返しだった。
「新しい猫を飼おうか」
 見兼ねた夫がそう持ちかけたのは当然だったのかもしれない。私はその考えを激しく拒絶した。
 ペットロスを克服する方法として、新たな家族を迎え入れることが有効だというのを読んだことはあった。まだ楓が生きていたころは、そういう方法もありなのかな? ぐらいにしか思っていなかったけれど、楓が「いる」と「いない」のとでは、まったく受け容れられない。
 楓は楓でしかないのだ。唯一無二。他の誰かなど求めていない。誰かや何かを得ても、その子は絶対に楓になんてなれないからだ。
「そんな簡単に新しい猫を飼おうなんて言わないでよ!」
「ご、ごめん! そんなつもりで言ったんじゃないんだ」
 私は弁解する夫に腹を立て、寝室に籠りきり泣いた。
 ――楓に逢いたい。
 心はその希ねがいのみで埋め尽くされる。彼女の記憶がひとつ頭に浮かぶたび、糸の切れた真珠のネックレスのように涙がバラバラに溢れ出し、一粒一粒の想い出さえ、うまく辿ることができない。
「逢いたい……、逢いたいよ、楓……、もう一度、もう一度この手で抱きしめたいよ……」
 灯りも点さず、暗い部屋の中で私は泣き続けた。涙は決して枯れることなく、乾くこともなかった。

     †

 誰かが頬を撫でる。夫が心配して入ってきたのだろう。泣き疲れて、いつの間にか眠ってしまったらしい……。
 キツイことを言ったことを謝らなきゃ。彼は私のことを想って言ってくれたんだから……。そんなことを考えながら目を開き、体を起こそうとした瞬間のことだった。
「おねえちゃん?」
 聞き覚えのない声が聞こえてくる。
「おねえちゃん? 大丈夫?」
 幼い女の子の声だった。
 ――どういうこと? 知らない女の子がこの部屋にいる?
「おねえちゃん?」
「誰? ここでなにしてるの⁉」
 驚きから、ふいに怖さが訪れる。辺りは真っ暗……。灯りをつけようと手探りで立ち上がる。しかし腕を伸ばしても何も触れない。
 ――壁はどこ⁉
 どうして? うちってこんなに広かった? 混乱しながら両手であたりを探っても、やはりどこにもたどり着かない。
 ――どこ? スイッチはどこ?
「ねぇ、おねえちゃん大丈夫? わたしの名前はアケルだよ。…………。えっと……。次の質問はなんだっけ?」
 アケルと名乗る少女は、私が咄嗟に口にした「誰?」という問いかけに、順序よく答えようとしていた。
 その様子に、ふと私の動揺が和らぐ。
「……アケル? あなた、外国人なの?」
「んーん、違うよ。ねぇ、さっきの質問なんだっけ?」
「あなた、どうしてここにいるの? ここで何をしてるの?」
「それふたつともわかんない!」
 女の子は元気一杯に返してくる。小さい子特有の駄々のようなものかと思ったけれど、真剣に悩んで返しているように思えた。
「……どうしてわからないの? 自分で来たんでしょう?」
「ひとりで来たの? 誰か近くにいる?」
「んー……。わかんない!」
 アケルは「わからない」と繰り返すばかりだ。
「ちょっと待って……とにかく灯りを……」
 再び壁を探り始めると、後ろからアケルが声をかけた。
「……おねえちゃん、なにしてるの?」
「なにって、部屋のね、灯りのスイッチを探してるんだけど……」
 腕を大きく開いて前へ進むと、手の甲にカチンと音を立てて硬い物が当たった。ひんやりと、氷ほどにも冷たく感じられる。
 明らかに自室じゃない。
「なにこれ⁉」
「なにって、壁だよ?」
 あっけらかんとしたアケルの声に、不安が煽られた。
「どうして壁だってわかるのっ? こんなに真っ暗なのに……」
 動揺して振り返ると、暗闇に仄かに光る目が見えた。
「あなた……アケル?」
 恐る恐る、二つの小さな光に向かって話し掛ける。
「そうだよ、おねえちゃん見えないの?」
 ――どういうこと? この子には見えていて私にだけ見えていないってことなの?
「ねえ、アケル……。あなたには周りが見えてるの?」
「うん、見えてるよ。でなきゃおねえちゃんが倒れてたの見つけられないよ?」
 アケルは、さも当然のように言った。
「私が、倒れていた?」
 夫との口論の末、私は寝室に籠りベッドにいたはずだった。なのにこの子に声をかけられて、目覚めたら真っ暗な部屋にいた。
「貴之! 貴之どこ⁉」
 大声で呼んでも返事はない。
 ――どうしよう! どうしよう!
「ここっ……! ここはいったいどこ⁉ どこなの⁉」
 暗闇に目が慣れる気配も一向にない。不安に駆られ、焦りでいっぱいになる。そんな私の手を、少女が取って言った。
「大丈夫だよ、おねえちゃん、わたしがおねえちゃんの代わりに探しものしてあげるよ」
「アケ……ル……?」
 私をつかんだ小さな手の持ち主……彼女の声を聴いた途端、なぜか懐かしさに似た思いがこみ上げた。その理由はわからなかったけれど、少し落ち着きを取り戻した私は、素直に頼ることにした。
「ごめんね……アケル、じゃあ、ひとつお願いしてもいい? ここがどういう場所なのかわかる? あなたの目には、何が見えるか、教えてくれる?」
「うんとね、いまわたしたちが立ってるところはねぇ、長い長い廊下よ」
「……廊下? ってことは、ここはどこかの施設なのかな?」
「あとね、廊下にはたくさんのドアがついてるよ」
 廊下にたくさんのドア? 間違いない、やっぱりここはどこかの施設なんだろう。それにしてもどうしてこんなところに……。
 やっぱり見えないと話にならない。ここが寝室じゃないにしても、どこかに灯りはあるはずだ。
 ドアがあるなら、室内のスイッチの場所はおおむね見当がつく。
「ねえ、アケル。そのドアのひとつに私を連れていってくれない?」
「うん! わかった。こっちだよ」
 アケルが私の手を引いたまま歩き始める。小さな手はほんのりと温かい。ドアのひとつまでたどり着くとゆっくり立ち止まった。
「ありがと」
「うんっ」
 アケルの手を離し、両手でドアらしきものの感触を確かめる。木でできているのだろうか? 少しだけざらついているけど、これは木目なのかもしれない……最初に感じた、冷たい壁のひんやりとした感触はない。少なくとも金属製のドアではないようだ。
 ノックをしてみるけれど反応はなかった。
「……誰もいないのかな」
 レバーを探し当て、押し下げてみるとガチャリと開いた。
「あっ! あいた! ねぇおねえちゃん! あいたね!」
「そうだね、誰かいるかな?」
 ドアをそっと押し込みながら部屋の中を伺うけれど、やはりなにも見えない。
「すみませーん。どなたかいらっしゃいますかぁ?」
「はぁい、どちらさまぁ?」背後から小さな声が聞こえる。
「ちょっとアケル、こんなときにふざけないでよ」
「あはは、ごめんねっ!」
 アケルは私の脇をすり抜けると、ひとりでスタスタと部屋の中に入っていった。そんな気ままな様子にほっとする。不安で張っていた私の気持ちを和ませてくれた。室内に足を踏み入れ、レバーを手放すと、手の平がじっとりと濡れていたことに気づく。かなり緊張していたんだろう。改めて暗い室内へ目をやった。
「おねえちゃん?」
 うっすらと浮かび上がった小さな影が、頼もしく感じられる。
「アケル?」
 声を追って奥へ進むと、突然照明がついた。強烈に眩しい。
「どう? 見えるようになった?」
「……あなたがアケル?」
 私の目に飛び込んできたのは、真っ黒で艶のあるショートボブに、これまた真っ黒な大きな瞳に真っ白な素肌、鼻の先にある小さなホクロが特徴的な、七~九歳くらいのとてもかわいらしい女の子だった。首を傾げて心配そうにこちらを見ている。外国人みたいな名前とは裏腹に、とても日本人らしい顔立ちだった。
「うん、わたしアケル! おねえちゃんは?」
 まだ名乗っていなかったことを思い出して、慌てて応えた。
「ごめんね、私の名前は千里だよ。よろしくね」
 私がそう言うと、アケルは丁寧に向き直って深くお辞儀をし、「よろしくおねがいします」と言った。
 ゆっくりと首を垂れる様子がとてもかわいらしい。私も真似をして深いお辞儀をした。
「よろしくおねがいします」
 すると、真似をされたのに気づいたのか、アケルが私を見て笑った。その笑顔があまりにかわいくて、つられてつい笑ってしまう。
 不安でひどくナーバスになっていたから、この笑いがとても新鮮に感じられた。ようやく安堵し、明るくなった部屋を見渡すと、どこか既視感があり、私は不思議な感覚に陥っていた。