翌朝、私は自宅の寝室のベッドで目を覚ました。
 何事もなかったかのように私の上に時間が流れていく。
 そう、何事もなかったかのように……。
 ひとつだけ違っていたのは、目を覚まして隣に楓がいなくても、私はもう楓の影を探さなくなっていた、ということだった。

 それから一年後、私は出産のために産婦人科の処置室にいた。
 白い光に目が眩む。この光は外からやってくるものなのか、内からやってくるものなのか……。破裂するほどの痛みに発する声は他人のものようにぼんやりと響く。
「まだですよ! まだいきまないで!」
 助産婦の手に汗が光り、私の顔を布のようなもので拭いている。
 そうだここは処置室……。白い処置室……。
 何度も訪れる無意識の狭間に、意識を失いかけるほどの激痛が私を呼び覚ます。
 今ひとつの真新しい命が取り上げられようとしている。
「さあ今です! 思い切りいきんで!」
 もうそんな力、ひとかけらも残っていない……。
 いくらそう思っても、その声を皮切りにこの躰の内のどこかから、一回分、そしてまた一回分と力が溢れた。諦めることは許されていないらしい……。
 私を取り巻く世界の音が、小さく、弱く、なりかける。

 何かが見える。あれは……。あの扉は……?
 次第に離れていくあの声は……?
 ……どこへ消えていくのだろう……

 やがて、なにも聞こえなくなった。
 やがて、なにも見えなくなった。

 鼓動だけが意識下で脈を打つ。――やがて、それさえ感じなくなったころ、内からもうひとりの自分が剥がれ落ちる感覚に襲われる。けたたましく、力強い叫び声がこの狭い世界いっぱいに広がった。
 雄叫びにも似た産声が耳に突き刺さる。その瞬間、私の心は歓喜の涙で溢れ出していた。
「よく頑張りましたね! とっても元気な女の子よ!」
 白い光の中、うっすらと瞼を開くと、目の前に血と体液に濡れそぼった赤ん坊の姿があった。彼女の掌が降り注ぐ白いライトの逆光で楓の葉のように映る。

 楓……花言葉は…………。

『美しい変化』『大切な思い出』『遠慮』そして、『調和』

 助産婦から赤ん坊を受け取り、新たな命を初めてこの腕の中で抱いた。
 真っ黒な大きな瞳に透き通るほど白い肌、そして鼻の先に小さなホクロのある、とてもかわいらしく元気な子だった。

「おかえり。楓」

<了>