長い長い廊下を歩いていく。
 途中まで進んでいくと、ふとケルビムが足を止めた。
「どうしたの?」
「ご覧ください、千里様。総木造だった北館から、コンクリート製にここで切り替わっているのです」
 ケルビムが足を止めた場所を見ると、確かにそこまで木製だった床やら壁がきれいに分断されている。床は樹脂コーティングが施されたような白と黒の格子状に並べられていた。
「また、不思議な建物に変化してきたのね。不思議の国の度合が増してきた感じ」
 壁と天井は打ちっぱなしのコンクリート。照明は天井にはついておらず、廊下の両脇に等間隔で埋められたスポット照明のようで、足元から斜め前方に向けて照らされている。
 しばらく歩くと、やがて向こう側から光が漏れる鉄製の扉の前にたどり着く。扉の向こう側は今までと同じ大広間の食堂になっているものだとばかり思っていたのに、その考えは完全に外れていた。
 ケルビムが扉を開く。
「これは……」
 目の前の景色が飛び込んでくる。私は思わず声を漏らした。
 ホテルエデン西館の構造。簡単に言ってしまえばワンフロアーと呼べるのだろうか。
 とても大きく広い空間で、目の前には鉄製のパーテーションがいくつも置かれ、まるで巨大迷路のようになっている。そしてもっと異様なのは右手側、左手側、さらには正面にも同じように鉄製のパーテーションのようなものが設置され、この建物の中全体が巨大な立体迷路のようになっていたのだった。
 私たちが入ってきた扉の場所は迷路を全体的に見渡せるような高さのある場所、ここから左右に別れた階段を降りていくと、左右の中心に鉄製の格子状のスライド扉があり、そこから中へ入っていけるようになっていた。
 ここから見る限り、迷路の作りは複雑で、そもそもどこがゴールなのかもわからない。
 さらに異様なのは建物のほぼ中央、つまり空中に遥か上空から一本の階段が伸びており、空中に浮かぶコンクリートの四角い物体に繋がっていた。
 下を見渡し迷路を指で追ってみるが皆目見当もつかない。
 迷路の所々では四角い物体が置かれている。多分あれが客室なのだろう。
「ケルビム? あなたもちろんこの迷路のゴールまでの道のりを案内できるんでしょうね?」
 私は迷路の類がとにかく苦手だったから、これはもうケルビムに頼るしか手はないと思っていた。
「ハッハッハ……。千里様、ご冗談を。わたくし迷路と伺っただけで目が回ってしまいます」
「だめか……使えない総支配人ね……ねぇアケル、あなたならきっと迷路なんか得意じゃない?」
 期待して振り返ると、そこにアケルの姿はなかった。
「あれ?」今私たちが立っているこの場所もそんなに広くはない、見渡してもどこにもアケルの姿は見えなかった。「もしかしてまだ扉の向こうなのかな? 置いてきちゃったのかしら?」
 そう思い扉を開けて廊下を振り返ってはみるものの、やはりどこにも彼女の姿はなかった。
「アケルー⁉」
 私の声はコンクリートの壁に反響し、廊下に虚しく響くだけだった。
「どうなされました? 千里様」
 ケルビムが、扉の向こう――西館から声をかける。
「アケルがまだ来てないみたい。私、探しに行ってくるわ……」
「――千里様! あれを見てください!」
 北館に戻ろうとする私をケルビムが引き留める。その声が焦りの色合いで滲んでいた。私は慌てて西館側に戻る。ケルビムが下方を指差して私を促した。正面下に広がる巨大迷路の中をひとり歩く少女の姿が見えた。
 ――アケルだ!
 私は体を乗り出し大声で叫んだ。
「アケルー!」
 アケルは一切振り返ることなく巨大迷路の中を進んでいた。
「どうしようケルビム⁉ 早くアケルのところまで行かなきゃ!」
 私が急かすと、ケルビムは肯き階段を降りようとした。
「ちょっと待って! 私にいい考えがある!」
「おぉ! それはどのような?」
 閃いた作戦をケルビムに話す。それは誰かひとりがここからアケルまでの道のりを目で追い、それを迷路に入っているもうひとりに上から口頭で伝える作戦だ。
 この作戦なら迷うことなく一直線にアケルのところまで辿り着けるはず。
 作戦を聞き終わったケルビムが言った。
「さすが千里様! 御名案でございます! さっそくわたくしが下に降りて迷路に入りますので、上からアケル様までの道のりを御指示くださいませ」
 そう言うとケルビムは階段を降りて、鉄製の扉を抜けて巨大な迷路の中へと入っていった。
 私はさっそくスタート地点からアケルの歩いている場所までの道のりを目で辿った。最初の突き当たりは左だ!
 ケルビムがスタート地点から進み最初の突き当たりで私の指示を待つため上を見上げたのが見えた。
「左よ! ひだりー!」
 私はジェスチャーを交えてケルビムに叫んだ。しかしケルビムは突っ立ったままだ。「左よ!」と私は繰り返したが、ケルビムは左に進もうとはせず、再び入口の鉄製の扉へと向かい走り出すとそれを抜けて、階段を駆け戻って私のところまでやってきた。
「どうしたの? ケルビム?」
 私がケルビムに訊ねるとケルビムは大きく肩で息をしている。呼吸が整ってくるとケルビムが言った。
「千里様、どうやらこの作戦は失敗に終わった模様でございます」
「どういうこと? なぜ失敗なの?」
 ケルビムは大きく息を吸うと、一息に吐いた。
「見えないのでございます。突き当たりまで行き、指示を仰ぐため千里様の姿を仰ぎましたが、あの場所から見上げても天井しか見えません。もちろん千里様の声もまったく届いてきませんでした」
「そんな! すごくよい作戦だと思ったのに……。でもそれなら仕方ないわ。アケルの進んだ道順を覚えて後を追うしかなさそうね」
 しかし、再び階下に目をやっても、すでにアケルは辿りきることができないほど迷路を先へと進んでしまっていた。
 ここで随分と時間を使ってしまったせいだ……。
「行くしかないようでございますね」
「そうね、とりあえず行けるところまで行ってみましょう」
 私たちは階段を降りると、鉄製の扉をくぐり巨大迷路の中へと入っていった。

 迷路を入口からまっすぐ進み、最初に突き当たった場所で上を見上げてみる。ケルビムが言っていたとおり、天井しか見えない。
「本当に意地悪な仕組みでできた迷路ね」
「迷路というくらいですから、簡単では無意味でございましょう」
「もうっ! こんなときにふざけないでよ……」
 私の不安を他所に、なぜかケルビムは飄々と振舞う。迷路の難解さと、彼の態度にぶつぶつ文句を垂れながら次の突き当たりを左に曲がると、ケルビムが笑いながらこんなことを言ってきた。
「ところで。千里様はメグスリノキというものをご存知ですか?」
「なによ? 突然。こんなときに」
「長者の木、もしくは千里眼の木とも呼ばれている木でございます。樹皮を煎じて目薬として使うとよいらしいのですが、それを使って迷路の正解の道が見えると、最高なのですがねえ」
 ケラケラ笑いながら、そんな蘊蓄を語る。
 そんな情報、今は要らない。苛ついて集中力が途切れそうになり、私はケルビムを無視して先へ進んだ。
 無機質な巨大迷路のコンクリートの壁と鉄製のパーテーションが遠慮もなしに私の心を圧迫するような重苦しい空気を醸し出している。
「ねぇケルビム、あなたアケルからなにか聞いてない?」
「と、言いますと?」
「北館の食堂で、私が飼っていた猫の思い出話をしてたとき、アケルの様子がおかしかったのよ。でも丁度そのタイミングで西館に通じる扉が出現したから、それ以上は話さなかったの……」
 ケルビムは腕を組みながら歩き続ける。
「はて? 確かに元気がなかったような気も致しますが……。今思いますと、アケル様はなにかを深く考えていたような気がします」
「なにか? なにかって?」
「どうでございましょう。これ以上は判断できかねますゆえ」
「そうよね……」ケルビムにわからなくても仕方がない。
 アケルが深く考えていたとはどういうことだろう。やっぱり私に関わることなのだろうか? 私の身勝手であんな化け物を呼びだし、危険な目に合わせてしまったんだから、アケルが怒ってしまっても当然だと思う。一緒にいたら、どんな危ない目に遇うかわからない。だから離れようとした? そう、なのかもしれない……。
 悶々と思い悩んでいると、暗い感情が足にまで浸蝕してくる。床にへばりつくような足を前へ踏み出すために、床から靴底を剥がす気力を失い、ついに足を止めると、それに気づいたケルビムが言った。
「千里様? どうなされましたか?」
「ねぇケルビム……。私はアケルと一緒に行かない方がいいんじゃないかしら?」
「なぜそう思われたのでしょうか?」
 ケルビムは、私の考えを黙って聞いた。一通り、私が考えを話し終えるとケルビムが口を開いた。
「確かに、千里様が呼び出したレテリーによって我々は危険な目にも遭いましたが、果たしてそれだけだったのでしょうか?」
「なにが言いたいの?」
 意味深な言い方をするケルビムの態度が気になった。
「今回のことで、おふたりの絆はより一層深く、そして強く結びついたようにわたくしには感じられるのでございます」
「じゃあなぜアケルは、私から離れるようなことをするの?」
「さぁそこまではわたくしにも。アケル様にもアケル様のお考えがあるのでしょう」
 私たちはこのホテルエデンで初めて会ったにすぎない。もっと古くからあの子のことを知っていた気持ちでいたけど、まだほんの一日程度の関係だ。
 わかっていることと言えば、アケルがオーナーの娘だということと、そのオーナーに今から会いに行くということ、それくらいだ。
 ケルビムのお面と話し方に怯えて逃げ出したアケルが、倒れていた私を見つけた……。そこまで考えて、私はふと疑問を持った。
 考えてみればおかしい。ケルビムを怖がっていたほど臆病な子なのに、レテリーと対峙したときは逃げるどころか逆に立ち向かって行った。それを考えると、ますますわからなくなってくる。
 私たちは巨大迷路のなか、何度も何度も別れ道を曲がっていった。曲がったかと思えば行き止まりにぶつかったり、しばらく進んだ後に行き止まりだったりと、完全にごの巨大迷路に弄ばれている気分だ。
 どのくらい歩いただろうか? 目の前に今までとは違う扉付きの壁が現れた。
 おそらく上から見えていた客室のようなものだろう。扉を開け中に入っていくと、やはり無機質なコンクリートに囲まれた室内に、部屋の隅には大きなベッド、その脇にはキャスター付きのステンレスのサイドテーブル、入口から左手にはシャワールームもついていた。ベッドルームに入る短い廊下を進み部屋の柱の陰には小さな冷蔵庫も置いてある。
 その冷蔵庫の奥にはさらに扉がある。扉を開いてみると再び巨大迷路の中へと放り出されるようだ。
「とりあえず、いったんここで休憩致しましょう」
「でも、アケルは休まずに歩き続けているかもしれないわ!」
 私は早くアケルに追いつきたくて休む気分にはなれなかった。
 ケルビムが落ち着いた声で言う。
「大丈夫でございましょう。どの道、この西館のキーワードを解かない限りは次の南館へは行けませんからね。休めるときに休んでおかねば、もしものときに動くことができませんよ?」
 相変わらず脅すのが上手いなと感じながら、私は渋々休息を取ることにした。
 冷蔵庫にあるドリンクを取り出し飲み干した後、私はベッドに体を横たえた。
 ベッドに横になったまま、私はアケルのことを考えていた。アケルはどうしてひとりで行ってしまったんだろう。ケルビムが話していたアケルの考えっていったいなんなのだろう? なぜ一緒にいたくなくなったんだろう。ひとりでアケルのことを考えれば考えるほど、アケルのとった行動の意図がわからなくなった。
 私は起き上がり、ベッドの横で正座しながらスーツのジャケットにアイロンをかけているケルビムに言った。
「ねぇケルビム、アケルにどんな考えがあったにせよ、自分で考えて行動したのなら、その考えを尊重すべきなのではないかしら?」
 アイロンをかけながらケルビムは答える。
「確かにそのような考え方もございますね。ひとりの大人として扱い、意思を尊重する。わたくしも千里様のお考えは理解できますよ」
 スーツにアイロンをかけ終わったケルビムはスーツを羽織ると続けた。
「要は千里様がどうしたいかでございます。わたくしはそれに従うだけです」
 正直、心強いと言えば心強いのだけれど、私が欲しかった答えとは違い、少し残念だった。休息を終えた私たちは、冷蔵庫横の別扉から、巨大迷路の先を進んでいった。

 アケルは今、どの辺りにいるんだろうか?
 進んでも進んでも見える景色は無機質なコンクリートの壁と鉄製のパーテーション、さらに床の白黒の格子模様が私の気持ちに輪をかけてストレスを感じさせていた。
 いくつもの別れ道を進み、道なりに歩いていく。目の前の突き当たりは右にしか曲がりようがなく、進んでいくとまた突き当たりにぶつかってしまった。
「もぉ! 本当にイライラするわ! いったい出口なんてどこにあるのよ⁉」
「千里様、お気持ちはわかりますが、そんなにイライラしていては物事は好転いたしませんよ?」
 ケルビムが私の神経を遠慮もなしに逆撫でしたのに頭にくる。
「そうね! その通りよ! ケルビム、このパーテーション退かしなさい」
 私は行き止まりにある鉄製のパーテーションを指差しケルビムにそう指示した。
 ケルビムは驚いたように、「この重苦しそうなパーテーションを退かすのですか? それでは迷路のルールそのものが成立しなくなるのでは?」と私に訴えた。
「発想の転換よ! 私が望むことに従うんでしょ? 男なんだからこれくらい動かすの楽勝よね?」
「ぐぅ! ウゥゥ……承知致しました。少々お待ちを」
 そう言うとケルビムは後ろへ下がって、助走分の距離を確保した。さすがのケルビムでも無理だと思っていた私は、次の瞬間に起こった出来事に驚いた。助走をつけ、走り込んだケルビムは鉄製のパーテーションの上方に飛び蹴りを食らわしたのだ。
 バランスを崩したパーテーションがそのまま奥の方へと倒れ込み、凄まじい音と風を巻き起こした。
「さぁさ、千里様、仰せの通りに致しました」
 言葉を失う私を見て、ケルビムの声が悦に入る。仮面の下のどや顔を思うと焦れたが、まずは感謝した。「よし、とにかく進もう」
 パーテーションの向こう側は一本の長い廊下になっている。パーテーションを乗り越え、その長い廊下をひたすら直進していくと、一枚の扉が見えてきた。枠から光が漏れ出ている。
「やったわケルビム! ゴールかも⁉」
 迷路からの出口に違いない――その向こうに別の空間があると信じて私は駆け出し、扉を開け放った。だが目前に現れたのは大きく広い空間だった。眼下には、悪戦苦闘しつつ進んできた巨大な迷路が一糸乱れぬ元の姿のままに佇んでいた。 
「こ、これは⁉」
 後ろからケルビムがゆっくりと歩いてくる。
「どうやら降り出しに戻されたようですね」
「そんな……」私は力なくその場に座り込んだ。
 ケルビムは当然のことのように笑っている。仮面の支配人の乾いた笑い声がこだまするなか、私はすでに怒る気力も失っていた。
「さぁさ、千里様、もう一度初めからでございます。今度はお手付きされませんように……」
 ケルビムは手を差し出し、私を立たせてくれる。
 ――よし! 諦めの悪さでは誰にも負けない!
 私たちは再び階段を下りると鉄製の格子状のスライド扉を潜り、巨大迷路の中へと入っていった。
「かなり時間をロスしてしまったから、アケルとの距離もだいぶ離されちゃったよね?」
 仕方ない、これは自分が侵したことへのペナルティーだ。それでも後悔の念が首をもたげる。
「しかし、相手はこの大迷路。アケル様も思うようには進んでいないのではないでしょうか?」
「そうね……。あぁ、いっそのことアケルもお手付きしてくれればすぐに合流できるのになぁ……」
「ハハハ、アケル様は千里様と違って純心なお方ですからね。それはないかと……」
 私の冗談に、乾いた笑いで応じるケルビムを睨む。
「もう、わかってるわよ!」
 ああ、もうなんでもいいから早くアケルに会いたい。

     †

 無機質な迷路を進んでいく。もう随分歩いてるのに、どこにもたどり着かない気がしてならない。果てしない気分だ。いったいどれくほど進んだのだろう。
 ケルビムが突然私を呼び止めた。
「千里様! お待ちください!」
 彼はジェスチャーで『静かに』と伝えると、私にその場から動かないように指示した。警戒する様子が尋常ではない。直進方向には壁があり、左に道が続いている。
 しばしの沈黙が流れた後、それは始まった。

 ビチャ……。
 ビチャ……。

 なにかがこぼれ落ちるような音が左通路から響いてくる。

 ビチャ……。
 ドチャ……。

 液体でもない、固体でもない、なにかその中間に位置するような物質が地面に落ちていくような音だ。
 明らかに不穏な、重苦しい空気が流れ込んでくる。
「千里様! ここは一旦下がりましょう!」
 ケルビムが踵を返し走り出す。私も慌てて後を追った。
「あれはいったいなに⁉」
「あの音の主は恐らく『虚ろなる者』でございます! わたくしどもは『ホロウ』と呼んでおりますが! とにかくお急ぎください」
「急いでって言ったって、だってアケルは⁉」
「とにかく今は退避が賢明です! アケル様のことは心配ではございますが、何者であろうと、ホロウを正面突破などできません」
 私たちは迷路を走りながら後方に陣した物体ホロウから距離をとった。
「ホロウは実体に対する執着心が強いのです。まるで光に集まる虫のように〝生〟に群がって、近寄るすべてを取り込んでしまいます」
「そんなっ! ならそれこそアケルが危険じゃない‼ 助けにいかなきゃ!」
「いえ……ホロウが出てきたと言うことは、いよいよアケル様はよくないことをお考えのようですね」
「ちょっと待ってよ! アケルがよくないことを考えてるってどういうことなのよ!」
 アケルと逸れてからずっと纏わりついていた憂慮が私を覆った。
「存在の否定でございます」
 勘は、当たってほしくないときほど当たるものだ。
 アケルを危険な目に遭わせているのは他でもない私だ。
 私はたしかに愛猫を喪って失意にくれていたけれど、すべて忘れて楽になりたいなんていう自分勝手な希いを、北館の食堂でアケルに話して聞かせてしまった。
 アケルには、私という人間がとても残酷に映っただろう。
 私が足を止めると、ケルビムが歩を緩めて振り返った。
「千里様?」
「原因は私よ、ケルビム。アケルはきっと私を否定してるのよ」
「千里様、ホロウは単独行動をしません。現れるときは必ず複数で現れます。同じ場所に留まっているのは利口ではありません」

 ビチャチャッ……。

 気がつくと天井に真っ黒な泥の塊のようなものがへばりついていた。
 その塊は地面に落ちると、原形を留めない異様な型のまま、私たちの方へとゆっくり近づいてくる。
 その異様なものに私は恐怖し後ずさりした。
「千里様、貴女がなにを考えているのか、だいたいの察しはつきますが、わたくしにはそれが最善策とは思えません。あれに取り込まれるということは、死よりもつらいと伺ったことがありますので……」
 ケルビムの言うことは的を得ていた。
 北館でレテリーに食い散らかされた私の記憶、その記憶がなくなってしまったことにすら気づけなかった私自身は本当につらかったからだ。
 あのままなにもせずにすべてを食い尽くされたことを考えると今でもゾッとした。
「ごめん、ケルビム。私、また間違えたようね」
「それが人間というものでございますよ」
 再び私たちは迷路の中を走り始めた。
 幸いホロウと呼ばれる真っ黒な泥のようなものは移動速度も遅く、その場から逃げてしまえばそれほど脅威に感じるほどのものではなかった。
 しかし私のその考えは甘く、ケルビムが言ったとおり、ホロウはその数をどんどん増やし、いたるところに現れるまでにその数を増殖させていった。
「ねぇケルビム! こいつらに弱点はないの? このままじゃいつか逃げ切れなくなるわ!」
 ホロウ自体の動きは遅く、ただ生に向かって群がるといったシンプルな動きだが、これだけいたるところに現れ、息つく暇もなく逃げ回るのもいよいよ限界だった。 
「弱点ですか……ホロウ自身に真実の姿を見せることができれば消えてくれるのですが……」
「そんなことが弱点なの?」
「はい、ホロウとは中身の入っていない不完全な者です。よって生きている命に群がるのですが、その不完全さを当人たちに認識させてやることにより、その存在を否定し消し去るのです」
 なんとなくケルビムの説明はわかった気がしたが、今すぐこの状況を好転できないということも理解できた。
「つまり、現状は逃げ回るしかないのね⁉」
「さすが千里様! 御名答でございます!」
 息も絶え絶え迷路の中を駆けずり回る。私たちの周りには何体ものホロウが私たち目掛けて蠢いている。
 そんなホロウたちを交わしながら進んでいくと、少し広めの広場に辿り着いた。広場の先には大きな階段が一本上に向かって伸びている。後ろからは、いつの間にか何十体ものホロウが私たちを目指していた。
 必死で階段を駆け上がると大きな扉が見えてくる。その扉をケルビムとともに開き、ホロウたちが入ってくる前に閉めた。
「これで一先ず安心ね……」
 私がそう言って振り返り目に飛び込んできた光景は、この西館に入ってきたときに飛び込んできた光景とまるでそっくりだった。
「どうなってるの⁉」
 私が振り返ってケルビムを見ようとした瞬間のことだった。

 ビチャ……。
 ビチャ……。

 天井からホロウがまさに私に目掛け落ちて来ようとしていた。
 逃げられない!
 そう自分で感じとったときだった。
 強烈な衝撃が私を襲ったかと思うと、私の体は宙に浮き、体ごと跳ね飛ばされていた。
 勢いで壁に叩きつけられ、自分の身にいったいなにが起こったのかわからず地面に這いつくばったまま辺りを見渡すと、私の視線の先にはケルビムが立っていた。
 ケルビムは私を突き飛ばした格好のまま、真っ黒な泥状のホロウに侵食されていた。
「油断致しました……。お怪我はごさいませんか?」
 そんな!
 私はすぐに立ち上がりケルビムに駆け寄ろうとしたが、頭を打ったらしく上手く立てずにその場で転んでしまった。
「嫌! ケルビム!!」
 這いつくばりながらもケルビムへと進んでいく。ケルビムはその場で膝から崩れ、ひざまずいた格好になっている。
「ケルビム! 手を!」
 私はなんとかケルビムを救いたい一心で手を差し伸べた。ホロウはケルビムをほぼ丸呑みし、泥状のホロウを被ったケルビムは全身が真っ黒になっていった。
『あれに取り込まれると、死よりもつらいと伺ったことがあります』
 ケルビムの言葉が蘇った。
「だめ‼ ケルビム! あなたこそ諦めないで!」
 私は無様に地面に這いつくばったまま、ケルビムに手を差し伸ばすのでやっとだった。そんなことをしたところで事態が好転するなんてとても思えなかったけれど、ここまで私たちを導いてくれた彼をみすみすホロウの餌食にさせるなんて我慢できなかった。
「ご遠慮させて頂きます。千里様、どうかアケル様のことをよろしくお願い……」
 ホロウに侵食されながら、私に顔を向けて優しく言う。彼がすべてを言い終わる前に、真っ黒な塊は粉々になり空中に舞った。
「ケルビム! ケルビム‼」声が西館に虚しく響く。
 泣いている暇なんてない! こうしてる間にもアケルにも危険が迫っているはずだ。それでも私は悔しさのあまり、その場から離れることができなかった。
 ビチャビチャと地面を這う音が、階段下から向かってくるのがわかる。私は涙を拭くと、大きく息を吸った。
「よし、アケルを助けに行かなきゃ!」
 私はホロウの上がってくる階段とは逆の階段から下りると鉄製の格子状の扉を通り、迷路の中へ入っていく。なぜまた降り出しに戻されたのか?
 謎が解けないまま進んでいくと、目の前に十字路が現れた。最初の迷路では左右に別れたT字路だったはずだ! 十字路の真ん中から上を見上げるが、やはり同じように天井しか見えない。
 そのとき、私は気がついた。
 そうか! この西館の建物は六面体の迷路になっているんだ!
 私はこの西館に入ったときのこの建物の中の異様な光景を思い出していた。
 私が進んでくる道と正面からもホロウが私を目指し進んでくる。
 私は左の通路を進んでいった。
「アケルー!」
 私はアケルの名前を叫びながら迷路の中を進んでいく。
 ホロウは相変わらずその数を増やし、いたる所に現れるが、なんとか捕まらない程度にホロウたちを交わし続けることができた。
「アケルー!」
 自分が今、どのフロアにいるのか? アケルがこのフロアにいるのかもわからないけれど、とにかく大声でアケルの名前を叫び続けた。
「ほっといてよ!」
「アケル⁉」
 突然アケルの声がどこからか聞こえてきた。その声を聞いて私は確信した。
 間違いない! このフロアにいる!
 最初の迷路でケルビムに指示を出すため、階段上からケルビムに大声で叫んだが、ケルビムは聞こえなかったと言った。
 今アケルの声がこのフロアにいる私に聞こえたってことは間違いなくアケルはこのフロアにいるはず!
「アケルー! どこなの⁉ お願いだから出てきて!」
 私はアケルの声を頼りにホロウを交わしながら進む。
「いやだ! わたしはひとりがいい!」
 アケルの声が私からさほど遠くない距離にいることはわかったが、この迷路に行く先を阻まれ、思うようには声の方へ進めない。
「アケル! お願いだから出てきて! ここは危険よ! あなたの近くにもいるでしょ? その黒くてドロドロのにケルビムもやられちゃったのよ!」
「それでもいいの! わたしはひとりでいたいんだから!」
 アケルは止まる気配を見せなかった。
「よくないわよ! だって私はアケルが大好きなんだから!」
 もう絶対に諦めない! 初めは自分のしでかした罪でアケルたちを巻き込んだ罪の意識から、彼女が望むなら、アケルの願いどおりにした方がよいと思っていた。
 でもケルビムが言ったように、この出来事を通じて私とアケルの絆がさらに深まり、強くなったのだとしたら……。
『要は千里様がどうしたいか? でございます……』
 もう遠慮なんてしない!
 アケルにも、そして自分の気持ちにも!
 私はアケルの声に向かって走り出す。スタミナはとっくに切れかけのはずなのに不思議と力が漲ってくる。私の決意をまるでケルビムが後押ししてついてきてくれているようだった。

 T字路の突き当たりを右に曲がると、アケルの後ろ姿が見えた。
「ついてこないでって言ったでしょ⁉」
 一瞬顕れたその横顔が、泣いているように映った。
「アケル! 待って」
 後ろを振り返りながらもアケルはがむしゃらに迷路を進んでいく。曲がり角のその先にはホロウが待ち構えている。
「だめ、アケル! 止まって!」
 アケルは俯き加減で、腕で涙を拭いながら走っていく。
 ホロウに気づいていない!
「アケルー! その先には行っちゃだめ‼」
 アケルが前を向いたときにはすでに遅く、不気味に広がった真っ黒な泥状のホロウは、まるで両手を開きなにも知らずに飛び込んだ獲物を容赦なく飲み込んでいった。
 光に群がる虫たち、例え光に届いても、その熱によって翅は焼かれ、体も焦がされていく。
 中身を持たない虚ろなる者は、本来の自分の中身とは異なる者に群がり取り込んだ後、粉々になり消えていく……。

 アケルが消えてしまう!
 私の存在を否定したから?
 アケルが消えてしまう!
 ケルビムと同じように……。
 そんなことは絶対にさせない!

 私は無我夢中でアケルを取り込んだホロウに突進していた。
 真っ黒な泥状の塊は中身がないのと同じように、感触もなにもない。アケルに纏わりつくホロウを掻き分けながらアケルを探す。アケルの侵食されかけた手をつかんだとき、それは起こった。
 私の目の前が真っ暗闇に包まれた。
 視界は消え去り、自分が立っているのか座っているのかもわからなかった。
 ここは凍えるほど寒く、そして焼けただれるほどに熱い。
 私はなにかに渇きを覚える。
 なにかはわからない、でもとにかく渇いていたんだ。
 渇きを潤したいのにどうすれば渇きを潤せるのかわからない。
 ただ真っ暗闇が広がり、凍えるほど寒く、焼けただれるほどに熱い。
 そして私はまた渇きを覚え、それらを潤すために真っ暗闇の視界のない中を進んでいるのか、止まっているのかもわからずに蠢いているんだ。
 凍えるほど寒く、焼けただれるほど熱いこの場所で……。
 私はすでに私ではなく、私のことを欲するただの容器に過ぎない。
 とにかく私は渇いているんだ。
 私は自分の渇きを潤すためにもなにかをしなくては……。
 前を向いているのか……
 後ろを向いているのか……
 とにかく渇いているのか……
 凍えるほど熱いのか……
 真っ暗闇の中なのか……
 私にピッタリのピースはどこに落としたのか……。
 私の意識ははっきりしてるのか朦朧としてるのか、とにかく私の目の前に一粒種の光が現れた。
 私はその眩しい光に吸い寄せられるように光のもとに行き、その光を貪った。

 なにか暖かいものを感じる。
 わたしは小さな塊だった。
 わたしは気がつくとなにもない世界へ放り出されていた。
 なにもないこの世界に怯える小さなわたしは自分の身を隠す場所がほしかった。
 けれども、探しても探しても、わたしの身を隠すのに好都合な場所はなく、わたしはその場所に留まったまま泣いていた。
 そこへ、なにか得体の知れない大きな塊がやってきて、わたしを品定めするかのように眺めている。
 その大きな塊はわたしの元を去ると再びやって来て、わたしの空腹を満たしてくれた。
 
 私は再び真っ暗闇の中へ放り出された。
 あの暖かい光が忘れられない。
 あれこそが私の渇きを潤すものに違いない……。
 すると私の目の前にまた一粒種の光が現れる。
 私は堪らず光の元へと行き、その暖かな光を貪った。

 小さなわたしは大きな塊とともにいた。
 ここは穏やかでわたしを脅かすものなどなにひとつなかった。
 しかしわたしは警戒を怠らなかった。
 わたしに対してわたしの望むこの環境を、なんの見返りもなしに提供してくるこの大きな塊をわたしは信用していなかったから。
 大きな塊はわたしをいつでも注意深く観察しているようだった。
 この日、この大きな塊のいる小さな空間はとても寒かった。
 大きな塊がわたしを持ち上げると、ものすごく狭い袋の中にわたしを押し込めた。
 わたしは牙を剥きその大きな塊に食らいついたんだ。
 見た目よりも脆い塊はわたしに怯えながらも再び狭い袋へとわたしを押し込んでいく。
 さらに抵抗しようと思ったが、塊はわたしを固定し身動きが取れない状態にされた。
 なんとか反撃のチャンスを狙いたいが、この狭い袋の中は暖かく、そして心地好いのに気づいた。
 その居心地のよさに気がついたとき、わたしは初めて安心し、そして満たされ眠った。

 私は再び真っ暗闇の中へ、ここは凍えるほど寒く、そして焼けただれるほど熱い。
 私は渇いている。
 もっと潤したい。
 もっと……もっと……。
 一粒種の光が再び現れる。
 私は無我夢中でそれを追い、そして貪った。

 小さな塊のわたしは常に大きな塊の側に身を寄せた。
 大きな塊はどんなときもそれを拒むことなく受け入れてくれるが、大きな塊はこの狭い世界にいつもいるわけではなかった。
 最初は不安でこの狭い世界の中を探し回ったが、わたしは大きな塊を見つけ出すことはできなかった。
 しかし、必ずわたしの前に現れ、わたしのことを満たしてくれた。
 いつからかわたしにとって、この大きな塊はなくてはならないものとなっていた。
 ときに空腹感を満たし、ときに孤独感を満たし、そしてわたしの不安感を掻き消してくれる大きな塊に対して、わたしは特別な感情を持って接しずにはいられなかった。
 わたしはこの大きな塊の出す音が好きだった。
 わたしはこの大きな塊の匂いが好きだった。
 わたしはこの大きな塊に触れられるのが好きだった。

 私は再び真っ暗闇の中へ、あの光はいったいなに?
 あの暖かく、懐かしい、そして愛おしいあの光の正体はいったい……。
 これらは私の中身なんかじゃない、だとするといったい誰の中身なのか?
 私の遥か彼方に一粒種の光が輝いている。
 私は我慢できない。
 この世界は真っ暗闇で凍えるほど寒く、そして焼けただれるほど熱いのだから。
 私は光に向かって駆け出していく。
 もっと私の渇きを潤してほしい!
 もっと! もっと!
 光は私を飲み込んでいく。
 私の渇きはこの光によって潤っていくのか?

 小さなわたしは混沌の世界へ投げ出されていった。
 わたしはこの世界を知っている。
 かつてわたしがまだ大きな塊と出会う前に怯えながら暮らしていた世界だからだ。
 この世界にはなにもない、あるのは恐怖だけだ。

 大きな塊はどこへ行ったのだろう?
 いつものようにわたしにその音を聴かせてほしかった。
 恐怖がわたしのすぐそばまで迫ってきている。
 逃げなくちゃ!

 大きな塊はどこへ行ってしまったのだろう?
 いつものようにわたしを注意深く見つめてほしかった。
 恐怖がわたしに牙を剥き襲い掛かろうとしている。
 逃げなくちゃ!

 大きな塊はわたしのことを忘れてしまったのだろうか?
 いつものようにわたしを撫でてほしかった。
 恐怖が大きな口を開き手招きしている。
 逃げなくちゃ!

 わたしはわたしの身を隠すものがほしかった。
 この混沌の世界でわたしはひとりぼっち。
 わたしは恐怖から逃げている最中に見つけた、わたしを覆い隠すのに丁度よい穴の中に身を隠した。
 ここならきっと恐怖もわたしに手出しできない。
 わたしは少しだけ安心していた。
 しかしそんな安っぽい安心なんて恐怖の牙の前ではなんの役にも立たないことをわたしは学ばされた。
 わたしの匂いは次第に剥ぎ取られ失われていく。
 わたしの空腹がわたしの命を削り取っていく。
 大きな塊はわたしのことを忘れてしまったのだろうか?
 わたしは決して大きな塊と過ごしたことを忘れたくないのに。

 わたしは大きな塊の匂いが大好きで、
 わたしは大きな塊がわたしを見つめるのが大好きで、
 わたしは大きな塊がわたしに触れるのが大好きで、
 わたしは大きな塊がわたしに発する音が大好きだ。

 わたしは大きな塊の発する音を真似て大声で鳴いたんだ。
 そうすればいつかこの音が届いて、わたしのことを思い出してくれると思ったから。
 だから力いっぱい鳴いたんだ。

「かえで!」
「かえで!」

 いつかこの音が大きな塊に届いたら、わたしのことを思い出してきっと迎えにきてくれるはずだから。 

 光に触れるたびに暖かさの奥から湧き溢れてくるこの記憶はいったいなんだろう?
 懐かしくて、優しいこの記憶は私のものなんだろうか?
 私とはいったい何者なのか?

 地の底に這いつくばり、頭上を見上げればたくさんの煌めく星屑が降ってくる。
 そのひとつひとつが暖かく、そしてその奥から記憶が湧き出てくる。
 小さな塊のわたしが泣いている。
 なにをそんなに泣くことがあるんだろう?
 なにがそんなに悲しいのだろう?
 小さな塊のわたしは後に残してきた大きな塊が心配だった。
 見つかるはずもないのに、大きな塊はいたるところでわたしを探している。
 見つかるはずもないのに……。
 わたしはそこにはいないのだから。
 わたしは片時も忘れない。
 たとえつらくても、それ以上の喜びや愛を与えてくれたんだから。
 大きな塊もわたしと同じ気持ちだろうか? 
「…………こんなにつらいなら、いっそのこと忘れたい…………」
 大きな塊は……わたしと……同じ気持ちだろうか……。
 もしも違っていたなら、わたしは大きな塊を苦しめ続けることになるんだ。
 誰でもいいから、わたしを大きな塊から見えないようにしてほしい。
 光が消えていく。
 真っ暗闇に包まれていく。

 これは私の記憶なんかじゃない! アケルの記憶だ! じゃあ私はいったい何者なの?
 私は誰⁉
 アケルを助けに行かなきゃ! 私はアケルを助けに行かなきゃいけない者だから!
 突如私の目の前に光が集まっていく。眩しくてなにも見えない。私の周りから真っ黒な霧が吹き出していく。まるで私から引きちぎられるように黒い霧は消えていった。
 私は鏡の前に立っていた。
「ここは? 客室のシャワールーム?」
 まだ頭がぼんやりしている。自分の頭の中で自分に起こった出来事を整理していく。
 アケルを見つけた私はアケルを追いかけていた。
 正面から来たホロウに、アケルが飲み込まれたのを見て、私は無我夢中でホロウの中に入っていったんだ!
 ホロウに取り込まれた私が見ていたのはアケルの記憶、アケルは私の存在を否定しようとしたんじゃない! 自分自身の存在を否定しようとしたんだ!
 私のために!
 アケルが危ない! 私は直感で思った。
 私と同じようにアケルもホロウに取り込まれたんだから。
 でも、なぜ私はホロウの中から抜け出すことができたのか?
 ケルビムが言っていた言葉を思い出した。
「ホロウ自身に真実の姿を見せることができれば消えてくれるのですが……」
 そういうことか! つまりそのまま鏡で自分の姿を見たから消え去ったのね!
 私はシャワールームの鏡を外し、それを床で叩き割った。
 手鏡大ぐらいの割れた鏡をタオルで包みシャワールームを出ると、すでに何匹かのホロウが群がっている。
 私はさっき割ったばかりの鏡をタオルから取り出すと、私に向かってくるホロウたちへと照らした。
 鏡に映る自分の姿を見たホロウたちは直ぐさま霧となり消し飛んでいった。
 よし、やはり思った通りだ。
 私は客室を出ると、やはりそこら中にホロウたちが生を求め蔓延っている。
 私は同じように鏡で照らし、ホロウたちを撃退していった。
 ホロウたちは消し飛んでいくだけで、中からアケルが出てくることはなかった。
 とにかく、アケルを飲み込んだホロウを探さなきゃ!
 でも、いったいどこにいて、どいつがアケルを飲み込んだホロウなのか見分けがつかない。私はやみくもに迷路の中を駆け回りながらアケルを取り込んだホロウを探す。
 きっと他のホロウと違いがあるはずだ!
「アケルー!」
 私はアケルの名前を叫びながら走った。私の呼び声に反応するかのようにワラワラとホロウたちが集まってくる。
 さすがにこれだけの数のホロウたちを消し去るには手鏡程度の物ではきついと感じた私はその場から離れ、ホロウたちを分散させるしかないと考えた。
 どのホロウも見る限り、他のホロウたちとなんの変わりもなく、どれも一緒に見える。
「いったい、どれがアケルを飲み込んだホロウなのよ!」
 時間が経つにつれ、ホロウたちは分裂しその数をどんどん増やしていく。
 すでにこのフロアはどこを走っても、どこへ逃げても、ホロウのいないところがないほど、その数を増やしていた。
 迷路の中を走り回り、私のスタミナも徐々に切れ始めていた。
 次のフロアまで行かなければ、増殖を続けるホロウたちから逃れ、切れかかったスタミナを回復することなどできないだろう。
 でも、アケルはきっとまだこのフロアをさ迷っているに違いない。
 あぁ、こんなときケルビムがいてくれたなら心強いのに……。
 私をホロウから守るために犠牲になったケルビムを思い、私は心が痛くなった。
 そうだ、ケルビムにもアケルを頼まれてるんだ。せっかく救ってもらったのに、こんな弱音を吐いてたらケルビムに申し訳ない!
 せめてアケルを取り込んだホロウだけでも見つけることができたら……。 
 行く手を阻むホロウたちを消し去りながら私は進む。相変わらず消し去ったホロウたちからはアケルの姿は見えない。私はあのタイミングでホロウから出ることができたけれど、もし出れなかったとしたら?
 それを考えただけでもゾッとした。
 ホロウの中身として取り込まれたはずなのに、いつの間にか意識はホロウに吸い上げられ、私自身がホロウのように中身を求めさ迷い続けたんだから。
 きっと今ごろアケルも自分がいったいどうなってしまうのか不安で堪らないことだろう。とにかくアケルを見つけないと! でも、どうすれば……。
 私の目の前に広い踊り場と、上に続く大きな階段が見えた。がむしゃらに迷路を進むうちに、このフロアの出口に着いてしまったらしい。
 どうして望んでもないときに限ってゴールに着いてしまうのか。
 だめ! アケルを見つけていない以上、まだ先には進めない!
 私は振り返り、再び迷路に戻ろうとした。
 ふと私はケルビムが言っていたメグスリノキの話を思い出した。千里眼の木とも呼ばれるその木の樹皮を煎じて目薬にし、それを使ってゴールが見えればよいのにとケルビムが笑いながら冗談っぽく言ってたあの話を……。
 私はホロウを交わしながらも迷路の中を再びさ迷いながらも考えていた。今になって考えてみると、ケルビムの発言はどれも私にとって違和感だらけの発言だった。
 このホテルエデンに来て北館の出口を探しにいくときも。
 レテリーを今は太刀打ちできないと言ったときも。
 メグスリノキの話もホロウの弱点も。
 どれも私に気づいてほしいといった助言じみた内容ばかりだ。
 私の目の前には鉄製のパーテーションが立ちはだかり、行き止まりとなっている。
 しまった! ボーっと考え込んでたらいつの間にか行き止まり。後ろからはホロウたちの大群がワラワラと押し寄せてきている。
 逃げ道は完全に閉ざされた……。
 でも、私はまったく諦めてなかった。
 諦めが悪いのもあるけれど、それとは別で私は思いを巡らせていて、ひょっとしたら私の考えは正しいのかも知れないと考えていたからだ。
 私は鉄製のパーテーションの端っこを力いっぱい押し始めた。
 ケルビムみたいに簡単にはいかないのはわかっている。袋小路に入り込み、ホロウたちに退路を断たれた今、こうするより道はない。力の限りパーテーションを押し込む。もうすぐそこまでホロウたちは迫ってきている。
 少しずつ、少しずつパーテーションは動いていく。ホロウたちの呻く声が耳のすぐ後ろから聞こえてきそうだ。振り返ってる時間すらもったいない。持てる力を今、すべて出し切らなくちゃ!

 ズズッ……。

 パーテーションがさらに動く。頑張れば通れない隙間じゃない! 僅かな隙間にこの体を無理やりに捻じ込む。
 ホロウたちが私の腕を飲み込もうとしている。
 こんなところで躓いていられない!
 私は何度も何度も体を捻り、隙間の中へと体を押し込んだ。完全に体は入り、私はパーテーションの向こう側へ、体勢を崩して倒れ込んだ。振り返ってパーテーションの隙間を見ると、ホロウたちは入り込んでは来られないようだった。
 しかし、我ながらよくこんな狭い隙間を通り抜けられたものだ。
 私は立ち上がり一本道の廊下を進んだ。
 目の前に微かに光の漏れる扉が目に映るのを確認すると、私は振り返って自分が走って来た道を全速力で引き返した。しばらく進むとコンクリートの壁と天井が総木造に切り替わる。
 ケルビムが話していた場所だ!
 そこからさらに真っ直ぐ進むと柔らかな光の漏れる扉が現れた。私はその扉を開く、私の目の前に広がっていたのは北館一階食堂だった。
さっきまでここにいたはずなのに妙に懐かしい気持ちになる。私は食堂をさらに真っ直ぐに駆け抜けた。西館入口の扉の丁度真反対に東館入口の扉が静かに佇んでいる。
 私は北館を懐かしむ時間すら惜しみ、東館へと続く扉を開き長い長い廊下を駆け抜けていった。
 辺りは真っ暗で所々から水滴の落ちる音がトンネル内に響く。
 そういえば、初めてここを通ったとき、ケルビムがランプを出して照らしてくれたんだっけ……。
 この暗闇がどこまでも続くような気がして私は怖かった。
 まるでいつの間にかホロウに飲み込まれたような錯覚にすら陥る。
 遥か彼方に光が漏れている。
 私は安堵のため息とともに光を目指す。
 私は見逃してなかった。東館の食堂には一本だけ大きくて立派な木があったことを。
 少しだけ違和感を覚えていたんだ。
 確かに東館は人工物と自然がバランスよく調和された感じの建物だった。だけど、食堂に生えていたあの木だけはずっと前からあそこに生えているかのように堂々としていて立派な木だったから。
 扉に手をかけ、私は東館の扉を開け放った。眩しい陽の光が私の目をくらます。木々や花々の優しい香りや太陽の暖かみ。鳥たちは美しい歌声で唄い、天井の木の枝の隙間から見える青空が私の張り詰めた気持ちを和らげた。
 私の目の前に現れたのは大きく立派な木。
「きっと、ケルビムが言っていたメグスリノキってこれのことよ!」
「御名答。しかし、ここに来るまでに随分と掛かってしまいましたね」
 私はこの声を知っている! この声はケルビム! 声に振り返ると、そこにはやはりケルビムがいた。見知った様相を湛えた仮面の総支配人だ。 怪我もなくピンピンとしていたって元気そうな姿に私は混乱する。
「ケルビム……ど、どうして⁉ あなたは私を助けるためにホロウに飲み込まれたんじゃ⁉」
「ハハハ。御冗談を、千里様。わたくしがあの程度の小物にやられるようでは、総支配人など務まりますまい」
「じょ、冗談って……っ!」
 ケルビムはゆったりとした歩みで、銀のトレーに淹れたてのお茶と、小さな銀色の容器を載せてこちらへとやってくる。
「そんなの嘘よ! だって……だって、わたっ、私の代わりにホロウに飲み込まれて、私の目の前で、粉々に……粉々になっちゃったじゃないの⁉」
 ケルビムは笑っていた。彼が無事であった事実を信じたい願いにも似た思いと、あの瞬間に受けた私自身の絶望が、取り消されようとしていることに対して、激しい戸惑いを見せる私を笑っているかのようだ。
 私は泣きそうになる思いを必死で堪える。仮面の端まで割けた口筋は変わらず冷たいが、しかしその趣は優しい。
「千里様。貴女様もわたくしが申し上げたとおり、ホロウの弱点を突かれたでしょう? そのときホロウはどうなりましたか?」
 言われてみると、確かにケルビムを飲み込んで粉々に消し飛んだように、私が鏡で照らしたホロウたちも霧のように消し飛んだ。
「じゃあどうしてどっか行っちゃったのよ! 私はあなたが死んでしまったものと思ってたのよ! ひどいじゃない!」
 淡々と変わらぬ様子を見せるケルビムに、私は怒りが込み上げていた。騙すなんて許せない。理由など理解できない。いったいどうしてそんなことをしなければならなかったのか⁉
 抑えられない感情で、私はケルビムを責めているはずだった。だけどこの目からは次々と涙が零れだす。
「どうしてっ⁉ どうしてよ! ケルビムっ! 答えてよ! あの後アケルも……アケルまでがホロウに取り込まれちゃって、だから、だからそれで私もっ……アケルが! ……ぁあっ」
 私は喚きながら、ケルビムがいなくなったあとアケルがどうなったかを説明した。もう誰も頼れない。自分ひとりしかいないんだ――あの瞬間の完全なる孤独が蘇る。たったひとりでなんとかしなければならない。張り詰めた糸の上に立つかのような絶望。切れるしかない糸があとどれだけの刹那もつのか……。落ちるしかない崖っぷちに追い込まれた気分だった。それでも意地で立ち上がり気持ちを繋いだんだ。
「もちろん、すべてわかっておりますとも。しかし、鈍感な千里様に気づいていただくためには、少々手荒な方がよろしいかと思いまして。さぁ、お座りになられてください」
 ケルビムは用意したティーカップにお茶を注いでいく。
「ねぇ! アケルは今もまだ大変な目に遇ってるのよ? お茶なんて飲んでる場合じゃないのはあなただってわかるでしょう⁉ こんな悠長にはしてられないのよ!」
 私を席に着かせようとする腕を振り払いながらそう叫ぶと、ケルビムは相変わらず落ち着いた口調で話した。私の体がテーブルにぶつかり、カップが音を立てる。
「大丈夫でございます。アケル様は必ず救い出せますとも。千里様はとりあえず落ち着いてください」
「でも……っ!」
「さぁさ」
 ケルビムの声は穏やかで、しかし絶対に拒絶を認めない強さを保っていた。私は気圧されてそれ以上はなにも言えなくなり、泣きたい思いを堪えて椅子に座る。目の前にケルビムの淹れてくれたハーブティーがあった。ほんの少しだけ揺れてこぼれている。どことなくスパイシーで華やかな香りが辺りに漂っていた。
「それで、貴女にわかったことを、わたくしに話していただけますか?」
「アケルは…………私の飼い猫だった『楓』ね……」
 私はホロウに取り込まれ、一粒種の光に触れていくたびにアケルの記憶を見ていたと思っていた。
 でも私が見ていた記憶はアケルだけのものじゃない、私と楓の記憶だったんだ。楓の持っている記憶は、私の持ってる記憶と同じ時間を共有していたのだから。
「少々時間は掛かりましたが、御名答でございます」
 ケルビムは優しく答えた。
「だから私はアケルを絶対に助けたいのよ!」
「だからここへ来たのでございましょう。万事、仕度は整っております」
 ケルビムがそう言うと、トレーから銀色の容器を差し出した。容器の中にはなにやら液体が入っている。私はその容器の液体を目薬として点眼した。
 ものすごく目に染みる。焼けるように熱い。
「どうです? 目が焼けるように熱いでしょう? これは効きますよ」
 ここホテルエデンで、何度も聞いてきたケルビムの笑い声がまた私の耳に届く。今どことなくその音は、とても遠いところから聴こえているような気がした。まるで水中で耳栓をした脳の内側から響くようだ。
「さぁさ、その目を開けてください。貴女には、まだ見ていただかねばなりません」
 その声に従い瞼をゆっくり開いていくと、びりびりと皮膚を剥がすような刺激があった。でもあまり視界に変化は感じない。
 なにが変わったんだろう。私は不安になってケルビムに訊ねた。
「……これで、アケルを取り込んだホロウが見えるようになったの?」
「もちろんでございますとも」
 弧の耳に届く音がそういうのであれば、今はその言葉を信じよう。私はハーブティーを一気に口に含み、喉の奥へと流し込んだ。
「ヨシッ! 行くわよ」
「はい、喜んでお供させていただきます」
 私たちは再び西館へと急いだ。

     †

 西館の入口に入ると、相変わらずの巨大な迷路と増殖したホロウの群れ。しかし、このフロアに入った瞬間にそれまでとはまったく別のものが見えてくる。
「なに……? あの光の筋は……」
「筋、たしかに筋でございますねぇ。筋とは辿るべきものでございましょう」
 それは光の道標だった。巨大な迷路の中を光の道標が続いている。縦横無尽に走る一本の光の筋はこの空間の中央に浮かぶコンクリートの四角い物体にまで達しているようだった。
「これは本当にゴールまでを辿るための薬だったの?」
 私がケルビムに訊ねる。
「いいえ、よく思い出してください。アケル様もまた、貴女から離れるためにひとりゴールを目指していたことを」
 ケルビムに言われ私も思い出した。そうだ、アケルは私が楓を忘れられず悶えてる私を見て、忘れられるためにホロウに取り込まれ離れていったんだ。 
「じゃあすでにアケルはあの四角い物体の中にいるってことなのね?」
 私は階段を駆け降り迷路の中へと入っていく。
 ケルビムも私の後に続いた。光の道標は真っ直ぐゴールへと導いてくれるが、増殖したホロウたちは容赦なく私たちに襲い掛かってくる。右に左に空いているスペースを探しながらホロウの行く手を交わしていく。増えすぎたホロウたちに封鎖された道では鏡で照らし、その道を空けていく。ケルビムもあのアンティークな銃でホロウたちを撃退した。次のフロア、またさらに次のフロアへ進んで行くたびにホロウたちの攻撃は激しいものとなっていく。
 四方八方から襲い掛かかってくるホロウたちは、まさに光に群がる虫のようだった。
 消し去っても、消し去っても再び増殖を繰り返し襲い掛かかってくるホロウたちに息つく暇もないほど。私はホロウたちの執拗な攻撃を必死に交わしているうちに鏡を落としてしまった。拾いに行こうにも、鏡は虚しくホロウたちの足元へと飲み込まれてしまう。
 気がつけばケルビムも銃の弾をすべて使い切ったのか、銃を懐へとしまっていた。私たちは光の道標を辿っていく。
「こんなところでやられてる場合じゃないんだ!」
 私たちの目の前に広い踊り場が現れる。その先には同じように一本真っ直ぐに伸びた階段。
「今は何フロア目だっけ?」
 私は後ろから走っているケルビムに訊いた。
「あれがゴールでございますよ!」
 ケルビムのその言葉に私は急に力が湧いてきた。長い長い階段を息を切らしながら上がっていく。
 もう少し! もう少し!
 もう少しでアケルに会えるんだ!
 階段を上った先のコンクリートで覆われた物体には扉がついている。扉はすでに開かれており、何者かが一足先に入って行ったのがわかった。
 私とケルビムがその部屋に入ると、ケルビムはすぐに扉を閉め、ホロウたちが入ってこれないようにした。
 部屋の中はそう広くはなかった。天井と壁はコンクリート造りで壁紙もなにも張られていない。床は迷路の中と同じように白黒のタイルが格子状に並べられている。部屋の床から斜め上に向かい照らされるライトも同じだった。それ以外のものはこの部屋にはなかった。あるのは南館へと続く入口のみ、それ以外にはなにもない。アケルを取り込んだホロウも、なにもなかった。
「アケル⁉ アケル⁉」
 私は部屋の中を探すが広い部屋でもなく、見逃すことなどできないのはすぐにわかった。
「ケルビム⁉ アケルがいないわ! ひょっとしてまだ迷路の中なんじゃ?」
 ケルビムも慌てて部屋を探している。
「いいえ、そんなはずはありません! 確かにアケル様はここに辿り着いておられたはずです!」
 ケルビムもまさかの予想外の展開に驚いているようだった。
「まさか!……」
 ケルビムが南館への入口の扉を見つめた。私もそれを見て察知した。
「アケルはひとりで南館へ行ってしまったってこと?」
 私が言うとケルビムは私に向き直って言った。
「本来なら、新たに先に進むための扉はわたくしにしか開けることができないようになっております。これが、このホテルエデンでのルールなのですが……」
 ケルビムは納得いかない様子だ。
 そのとき、ケルビムはなにかに気づいたようだった。
「ひょっとすると南館から何者かがこの扉を開いたのかも知れません!」
 突然のケルビムの発言に私は驚いた。
「南館にはいったい誰がいるの? そいつがアケルを招き入れたってこと⁉」
「実は、わたくし以外にも、もう一方この扉を開くことができる人物がいるのでございます」
 ケルビムの話し口調で、私はだいたいの察しがついた。
「オーナーね……」
 私が言うとケルビムは黙って肯いた。
 でも、最初のケルビムの話では、ホテルエデンのオーナーは本館にいると言っていたのに、どうして南館まで出てきたのかが謎のままだ。
「オーナーさんが迎えにくるのなら、私の出番はなくなってしまったの?」
 あまりに突然の幕切れと、アケルとのわだかまりも未解決のままだし、なによりアケルが楓だとわかった今、このままなにもできなくなってしまうんじゃないかという不安が私の中に膨らんでいって胸が潰れそうなほど痛かった。
「いいえ! そのまったく逆でございます! アケル様を取り返せるのは千里様! 貴女以外にはおられないのですから!」
 ケルビムの言っていることが支離滅裂に感じた私は、なにがなんだかさっぱりわからないままだ。
「どういうことなの? わかるように説明してよ!」
 私はケルビムに答えを求める。
 ケルビムは私の手を取り、南館への扉を開いて私を引っ張って走り出した。
「細かい説明をしている時間はございません! とにかくアケル様を取り戻せるのは貴女以外おられないのです!」
 ケルビムに引っ張られながら、わけもわからず私は走った。
 長い廊下を走っていく。
 私の頭の中は混乱こそしていたが不思議と吹っ切れていた。理由なんて、説明なんてどうでもいい、とにかくもう一度アケルに会える!
 私の頭の中はそれだけでいっぱいだった。