私はベッドに横たわり、後味の悪さを感じているが、自分自身に言い訳もしていた。
 アケルは私を思って言ってくれてることなんだけど、当の私はこの記憶や思い出からの解放を望んでいるし、なによりケルビムでも太刀打ちできないんだから、私たちがどう足掻いたって勝てっこないんだと自分に言い聞かせる。
 下の階からは相変わらず本棚を倒し暴れまくっている音が聞こえてきていた。
 私はベッドに横たわったまま、胸の前で手を組み、そのうち起こるであろう記憶と思い出の喪失を待っていた。
 瞼を閉じると思い起こる楓の記憶……。
 あの日、初めて楓と出会った、あの……場所……。
 最初はもっと違う名前を考えてたのに、結局楓という名前になったこと。
 初めてお風呂に入れたことや、初めて布団の中に入ってきたことや、初めて一緒に経験した夏の暑い日、冬の冷え込み、初めて一緒に見た虹に、一緒に怯えた強い風の日、初めて……家出したとき…………。

 猫は帰ってくるんだっけ?
 私は猫を飼ったことがあったんだっけ?
 そもそも私は、猫が好きだったっけ?

 突然ものすごい大きな揺れが建物を揺らした。
 壁の本棚からは大量の本が地面に落ちた。その激しい揺れは次第に収まっていった。
「あぁ! びっくりした。いったいなんだったのかしら?」
 部屋のドアをノックする音とともにケルビムが入ってきた。
「気分はいかがですか? よろしければ気分転換にハーブティーでもお淹れしましょうか?」
「ありがとう。私も食堂に下りるわ。ところでさっきの揺れ、すごかったわね?」
「そうですねぇ、下でレテリーが暴れているせいでしょうかねぇ?」
 なにか白々しいケルビムの態度が気になったけれど、私は敢えてなにも言わずにケルビムと一緒に食堂まで降りていった。
 大広間の食堂の席に着き、ケルビムが厨房から淹れ立てのハーブティーを持ってくる。
 そのハーブの匂いは私の鼻から脳を刺激し、すごくリラックスした気分へと導いてくれた。
 頭の中のモヤモヤがスッと晴れた気分がした。
 今まで、なにかにこだわり過ぎて頭の中がガチガチになっていたのが、一気に悩みが解消され、気持ちがとても楽になった気分だ。なにをそんなにこだわって悩んでいたのかも今では思い出せないくらいに。
 きっとそれくらい今まで神経を尖らせていたのね。
 席に座ったまま両手を持ち上げ、背中を伸ばした。とても気持ちがよかった。
 ふと辺りを見渡すと食堂にアケルの姿がないのに気がついた。
「ねぇ、アケルは泣き疲れて三階で寝ちゃってるの?」
「いいえ。アケル様はレテリーをわたしが追い出すんだと、二階へ行きましたよ」
 一瞬、自分の鼓動が止まったかのような時間の長さを感じた。
「え? アケルがどこへ行ったって?」
「ですから、アケル様はひとりでレテリーを追い出すために二階へ行ったと申し上げました」
 胸の鼓動が早く強く脈打ち始める。なにが痛いのかわからないけれど、とにかくなにかが痛い。
「あなた馬鹿なの⁉ どうしてひとりで行かせたの⁉」
 私が席を立ち上がるとケルビムはシレッと答えた。
「千里様はどうせすべて忘れたいと願っておられるご様子でしたのでよいのかと?」
 ケルビムの言葉に一瞬カチンとくるが、彼の言った言葉はすべて図星だった。
 私には彼を責める資格がない。
 私は急いで階段まで走っていき二階へと駆け上っていった。
 二階の扉は閉ざされたままだ。
 ゆっくり近づいて、扉に触れると扉は簡単に開いた。
 私が足を踏み入れようとした瞬間、私の後ろからついてきていたケルビムが言った。
「はたして追い出すことができるのでしょうか? 今のかかし様に」
 決心をつけた私は出鼻をくじかれた気がして振り返って言った。
「はぁ⁉ あなたなに言ってるのよ?」
「わたくしは思ったことを言っただけでございます。そうでしょう? ブリキ様?」
 人を小馬鹿にしたようなケルビムの態度が許せなかった。
「なんでもよいけどあなたも力を貸しなさいよ! 悪いのは私で、アケルは関係ないでしょ⁉」
「いやぁ、今のままでは逆立ちしても勝てませんよ、ライオン様?」
 そのときだった。私たちが言い争いをしているのに気がついた化け物が、私に向かって突進してきたのだった。
 化け物の目は血走ったかのように真っ赤で、その口は大きく裂けている。
 その歯と爪は鋭く、体毛は不気味なほどに青白い。その姿は例えるなら大きな猪のようにも見えた。 
「キャッ⁉」
 飛び掛かってきた化け物をかわそうと体をのけ反らせると、ケルビムが私の体を引き寄せ、抱きかかえたまま走り出した。
 化け物も咄嗟に体勢を立て直し、飛び掛かってくる。
 ケルビムは私を抱えたまま階段を飛び降り食堂へと逃げ込んだ。
 化け物も真っすぐ視線を逸らさずに私たちをターゲットとして捕捉し、真っすぐに突進してくる。スピードは遥かに向こうの方が早く、今にも追いつかれてしまいそうだ。
 完全に私たちを間合いに捕らえた化け物は、今度こそ完璧に私たちを捕らえるべく飛び掛かった。
 その瞬間ケルビムは左横へと一気に進路を変えた。
 飛び掛かった空中で進路を変えることができずに化け物は厨房の中へ転がっていった。
 その隙をついてケルビムが扉を閉めた。
 怒り狂った化け物が扉の内側から体当たりするたび、厨房入口の扉は軋んだ。
 私とケルビムは急いで切り株の椅子を扉の前に並べ抵抗した。
「これで大丈夫かしら?」
「えぇ、これで少しはここに留めて置くことができるでしょう」
「じゃあ今の内にアケルを探しに行きましょう!」
「そう致しましょう。アケル様」
 ケルビムが階段へ向かって歩き出した。
「ちょっと待って、あなた今、私のことアケルと呼ばなかった?」
 ケルビムは立ち止まると、ゆっくり振り返った。
「まぁまぁ、名前などどうでもよいじゃないですか」
「よくないに決まってるじゃない! あなた少し変よ?」
 文句を言う私からふたたびするりと視線を外し、ケルビムはスタスタと歩き出し階段を上る。
 名前がなんでもいいわけないじゃない!
 心の中でつぶやきながら、ケルビムの後を追った。

 二階の扉の向こう側は化け物が暴れ回り、記憶の書物を食い荒らしたせいでひどい状態になっている。本棚の壁にはほとんど本は置かれておらず、地面に雑に食い散らかされた本が無残に転がっている。
 客室の本棚は倒され、家具からなにからめちゃくちゃに切り刻まれていた。
「アケルー! どこー?」
 必死にアケルの名を呼ぶが返事はない。
「アケルー! アケルー!」
 私はこの状況に似たなにかを感じたが思い出せないまま頭はモヤモヤしている。
「アケル様ー!」
 ケルビムも必死にアケルの名を呼び、そこら中に転がる本棚やらベッドをひっくり返している。
「アケルー⁉ どこなの?」
 こんなにも探し回っているのに見つからないなんて!
 また私の頭にこれに似た状況が浮かび始めるが思い出せない。でも、確かにあのときも、絶対になくしたくないなにかを探していた気がするのに……。
「アケルー!」
 これはデジャヴュなのか? それともまったく新しい未体験のものなのか?
 頭の中が混乱し始め、私はその場にひざまずいた。
 食い散らかされた記憶の書物の破れたページには私の生年月日や住所、そして名前が書かれていた。
 私の名前?
 ………………。
 最悪の状況に恐怖で声が震えた。
「ケ……ケル……」
 あまりのショックに言葉もうまく出てこない。ケルビムが異変に気づき、近づいてくる。
「あなたの置かれている状況がやっと見えてきましたか? 千里様」
 千里!
 そうだ! それが私の名前だ!
 どうして、どうしてそんな大切で簡単なことを忘れてしまっていたのだろう! じゃあやっぱり、今こうしてアケルを探している状況に似た記憶を私は元々持っていたんだ!
「人は都合よく忘れたいことだけを忘れることなどできないのでございます」
「私は……私は他にいったいどんな大切な思い出を失くしてしまったの?」
 泣きながらケルビムを見上げると、彼は首を横に振った。
「アケル様はおっしゃっておりました。このままでは、おねえちゃんはわたしやケルビムのことも忘れちゃうと……。あなたに忘れられることが怖かったのでしょうね」
 あぁぁ!
「私はいったい他に、どんな大切なものを捨ててしまったの⁉」
 心は頽れ、次から次に涙が溢れてくる。
「つらいから忘れたいのか? つらいからこそ忘れたくないのか? いずれにしても、今の貴女を形作っていた大事な部分が抜け落ちてしまったようですね」
 そのとき、隣の客室で物音がした気がした。
「アケル⁉ アケル!」
 慌てて駆け込み、名を呼ぶと、クローゼットの金具が小さくカチャリと音を立ててわずかに開いた。
「アケル様!」
 よほど怖い目にあったのだろう。アケルは涙で目を真っ赤にして、ひどく怯えて震えていた。
「あぁ! アケル! よかった!」
 私が必死に抱き寄せると、アケルは泣きながら言った。
「おねえちゃん、わたしのこと忘れてないの? わたし、頑張ってあいつを追い払おうとしたけどだめだったの……。怖くてクローゼットに隠れたけど、あいつおねえちゃんの本をいっぱいムシャムシャ食べちゃったから、おねえちゃんわたしを忘れちゃったかと思ったよ……」
 アケルは健気にも私の記憶の書物を一冊だけ胸に抱え、全部食べられないようにしてくれていた。
「ごめんね! 本当にごめんね! 私のせいでこんなにも怖い思いさせて!」
 私はアケルの頭をグシャグシャと撫で回した。
「ここが過去の書物庫で助かりましたね。さぁさ、化け物が来ないうちに三階へ逃げましょう」
 私たちはその部屋を出ると廊下を走り、二階の階段踊り場まで進んだ。しかしすでに食堂厨房の入口の扉を破ったレテリーが踊り場で待ち構え、飛び掛かってきた。
 私たちは振り返り、再び二階の廊下を真っすぐ全速力で走っていく。
 怒り狂った化け物の暴走は想像を絶するものだった。その鋭い歯で砕かれた本棚の木屑がまるでナイフのように飛び交っている。その鋭い爪は廊下にはっきりとその爪痕を刻んだ。客室に逃げ込み、慌てて扉を閉めるが、レテリーの体当たりに客室の脆い扉など、一撃で粉々になっていく。
 突入してきたレテリーに、ケルビムがサイドテーブルを投げつける。サイドテーブルはレテリーの頭に直撃し、一瞬体がよろめいた。その隙にケルビムはベッドをレテリーに向かって押しやる。私とアケルもサイドに分かれケルビムとともにベッドをおもいっきり押した。ベッドと部屋の壁とに挟まれたレテリーが苦しそうに吠える。
「今の内に三階へお逃げください」
 ケルビムは、ベッドを一層力強くレテリーに向かい押し込んだ。
「でも、あなたは?」
「わたくしひとりであれば、この程度の化け物、どうとでも逃げおおせます」
 私たちはケルビムのその言葉を信じてその場から立ち去った。
 アケルの手を引きながら二階廊下を走る。後ろからものすごい音とともに客室の壁を突き破り、レテリーが廊下を転げ回っている。再び体勢を立て直したかと思うと客室にいるケルビムの元へと突進していった。
「ケルビム大丈夫かなぁ?」
 アケルは走りながら後ろを気にしている。
「きっと大丈夫よ! それよりも今はここを離れましょ」
 私たちは階段を駆け上って、三階廊下に続く扉を開けて中に入ると素早く扉を閉めた。
「きっとここもすぐに突破されるわ!」
 私は客室に入り、ベッドを動かそうとするが重くて動かない。
「アケル! 手を貸して!」
 アケルとベッドを少しずつずらしながら客室から廊下にベッドを出すと一気に扉までベッドを押し、扉のつっかえにした。
 私とアケルは廊下を進み、一番奥にある客室に身を潜めた、相変わらず二階では大きな物音が響いている。
「ケルビム大丈夫かなぁ?」
 アケルは再びケルビムのことを気にしている様子だった。
 私は頭の中で考えていた。どうすればあいつを追い出すことができるんだろうか? 現状ケルビムは自分では今は太刀打ちできないと言っていたし、こうして私たちをあいつから遠ざけるのがやっとなのだろう。私はケルビムの言葉に違和感を覚えじていた。
 今は太刀打ちできない……。
 今は? なにかがあれば太刀打ちできるってことなんだろうか?
 そもそもあいつを呼び寄せたのは私なんだから、私が強く念じればあいつは消えてくれるんじゃないかしら⁉
 私は目を瞑り、心の中であの青白い化け物が消え去ってしまえばよいと強く念じた。 
 横に座っていたアケルが私を不安げにのぞき込む。
「おねえちゃん⁉ どうしたの? おなか痛いの?」
 違うのよ……アケル。
 アケルは二階から一冊の本を持ち出していた。
 クローゼットに隠れている間、レテリーから一冊でも守ろうと胸に抱えていた本だ。
「アケル、その本、私に見せてくれない?」
 アケルから本を預かり開いてみると、随分と懐かしい思い出が記されていた。

 小学生の頃、クラスでカエルの飼育をしていた。
 授業の一環でおたまじゃくしから飼育し、グループで一匹ずつ、八グループで合わせて八匹のおたまじゃくしをひとつの水槽で飼っていたんだ。
 水槽の掃除は当番制で、そのときは私の当番だった。カエルを別容器に移し、水槽を掃除してカエルを戻し下校した。その夜の夕食時になって、急に水槽の蓋をしたかどうか覚えがなくて気になり始めた。心配になり、私は夜の学校に忍び込み、教室に行って確認してみると案の定蓋は開いていてカエルは全部逃げ出してたんだ。
 私は必死で教室中探し回った。
 最後の一匹がどうしても見つからなくてヤキモキしたけど、持ち前の諦めの悪さが功を成し、無事に見つけることができたんだ。両親の捜索届けと引き換えに……。
 そうだ、私は昔から責任感の強さと諦めの悪さはピカイチだったじゃないか!
 きっと今回だってやれないことはないはずだ、だって私にはアケルもケルビムも力を貸してくれるんだから。そう考えたら少し勇気が湧いてきた。
「おねえちゃん?」
 アケルが心配そうに私を見つめている。
「ごめんね、もう大丈夫だよ」
 気がつくと下から聞こえてきていた音が止んでいた。
 突然階段側のドアを激しく叩く音が響く。
「ケルビムかも⁉」
 アケルは立ち上がると客室を出て廊下を駆け出していった。私もアケルの後を追うように飛び出す。廊下の先ではバリケードにしたベッドが、ドアを叩くたびにギシギシと音を立て揺れている。
「アケル! 待って!」
 そのとき、バキバキッという音とともに、ドアを突き破ったレテリーがとうとうこのフロアまで侵入してきたのだった。
 すっかりケルビムだと思い込んでいたアケルは、その期待を裏切られたかのように驚き尻餅を着いた。
「アケル!」
 私は無我夢中でアケルの側まで駆け寄った。
 レテリーも一直線に突進してくる。
 だめ! 間に合わない! アケルとの距離とレテリーの速度を冷静に判断した私は諦めかける。
 そのとき、心の中の諦めの悪い私が言ったんだ。
「やってもないのに諦めるな!」
 諦めちゃいけない! 私は持てる力を全部その瞬間に出し切る気持ちでアケルに駆け寄った。一瞬でもよい、一瞬でも私の方がレテリーよりも早くアケルに触れることができればアケルを引き寄せて私が身代わりになれるはず!
 現実はつらいことの連続だ、思い通りになることなんて、自分の一生の時間の中で一瞬程度のものしかないんだろう。
 でも、それでも人は諦めずに歩き続けるという道を選択することがある。
 きっとそれは後悔したくないからなんだ!
 張り詰める緊張の中、一瞬早くレテリーの方がアケルに達していた。だけど私は諦めなかった。その瞬間、レテリーの足元の床が割れて、人の手が出たかと思うとレテリーの足をつかんだ。私はアケルを引き寄せながら体を反転させて背中からレテリーに体当たりする。その隙にアケルを突き飛ばして部屋に隠れるように指示した。アケルが怯えた目で私を見ている。
「おねえちゃん!」
 足元から出てきた手がレテリーを下の階へと引きずり落とそうとしている。
 レテリーは引きずり落とされまいと、体当たりした私の背中に鋭い爪をたて、必死に抵抗していた。
 あまりに一瞬の出来事で、痛みなんて感じる暇さえなかった。アケルが怯えた目で私を見て叫んだとき、初めて気がついたんだから。

 レテリーの爪が私の背中からおなかを貫通し床に突き刺さっていた。
「おねえちゃん! だめ!」
 アケルが私に駆け寄ってくる。
 私は最後の力を振り絞って「部屋に隠れなさい!」って言ったつもりだったんだけど、その力さえなかったみたいだ。
 大粒の涙を流しながらアケルがなにかを叫んでいるのに、まるで小声で囁かれているかのように聞き取れない。手足の感覚はなくなり、体の真ん中から生暖かいものがたくさん流れ出ている気がした。
 なんだかすごく疲れた。
 人は死に直面するとき、過去の思い出が走馬灯のように思い出されるって聞いたことがある。
 でも私には走馬灯になって思い出される過去の記憶がもうほとんど残っていなかった。
 母の名前や父の名前も、兄弟がいたのかとか、同級生の名前も、自分の名前さえも忘れそうだった……。私自身が望んだのに、今は本当に情けない気持ちでいっぱいだ。
 きっとこれは神様が私に与えた罰なんだ……。
 レテリーに引きずり込まれるようにして私は下の階へと落ちていった。
 アケルが私の落ちた穴から顔を出して泣いている。
 アケル……ごめんね……。
 まるで外の世界が怖くて小さな穴の中に潜り込んで、怯えて鳴いている家出した猫のように…………。
 こんな風にアケルを猫なんかに例えたら、きっと怒られちゃうわね。
 二階の地面に叩きつけられる瞬間、ケルビムが私の体を受け止めた。
 ケルビムが受けた衝撃が、私にまで伝わるほどに激しく打ちつけられたようだ。
 ケルビムの腕の中で包まれながらも、私の体は床に沈んでいた。
 ケルビムのもの言わぬ仮面を間近に見て、私はケルビムの言っていたことを思い出していた。
「つらいから忘れたいのか? つらいからこそ、忘れたくないのか?」
 私は選択を間違えたな……。
 瞼が閉じていく。
 意識が遠のいていく。
「随分と派手にやられたものですね。しかし、このホテルエデンで、そう簡単にくたばって頂いては困りますよ」
 アケルの声はあんなに側にいても小声で囁くようにしか聞こえなかったのに、なぜかケルビムの声ははっきりと聞こえた。
 ケルビムが私を抱きかかえたままジャンプすると、私たちは再び三階へと降り立っていた。
 アケルが大きく口を開けてワーワー泣いているがその声は微かにしか聞こえない。
「アケル様、今は時間がありませんので、わたくしの邪魔をされませんように」
 ケルビムはそう言いながら目の前の客室のドアを蹴破り、私をベッドの上に寝かせると、壁の本棚から一冊の本を取り出し持ってきた。
「誰にでもできるわけではございません。人は自分の取った選択に乗っとり、その結果を有無も言わずに受け取らねばならないのですから」
 ケルビムは本を開くとペラペラとページをめくっていく。
「しかし千里様はホテルエデンの特別優待枠のお客様。あなたは、今あなたの体に起こっている事実を、生き延びるために忘れねばなりません」
 ケルビムがページをめくるのを止めた。
「……どういうこと?」
 私は意識も朦朧にケルビムに訊ねた。
「つまり、なかったことにするのです」
 そう言うとケルビムはその本の何ページかを一気に破り捨て、破ったページを火にかけ完全に灰にした。
 すると私の体にぽっかりと空いていた穴はきれいに塞がり、意識がはっきりとしてきた。
 まるでさっきまで死にかけていたのが嘘のように。
 アケルが喜び私にしがみついてくる。
 私自身もいったいなにが起こったのか、一連の状況の変化に頭がついていかない。
 ケルビムが顔の前に指を立て言った。
「まぁ、これは公式ルールにない裏技ですので、くれぐれも御内密に……」
「おねえちゃん! よかったね! もう、どこも痛くない?」
「うん、どこも痛くない……」
 私はまさに鳩が豆鉄砲でも喰らったかのような顔をしていた。
「さぁさ、問題の本質はまだ取り除かれたわけではございませんよ」
 ケルビムが急かすように私たちに言った。
 そうだった。私が死にかけたのを回避しただけであって、レテリーはまだ追い払ってないんだ!
 再びものすごい物音と同時にレテリーが三階へと上ってくるのがわかった。
「ねぇ、ケルビム? あなた私に、今は太刀打ちできないって言ったわよね?」
 三階に上がったレテリーは動き回って腹が減ったのか、壁の本棚から落ちた本を貪り始めている。時間がない! 私は直感で感じ取った。
 だってここは現在の記憶の図書館、ここの本を食べられるってことは、ここに来てからの記憶も失ってしまうってことだから。
「答えなさい! ケルビム!」
 ここに来てからの記憶が少しずつ消えていく。
 レテリーは駆け出し私たちのいる客室に入ってくる。その目は真っ赤に燃え上がり、真っすぐに私を睨みつける。
「確かに言いました。今のわたくしではあの化け物には太刀打ちできないと」
 アケルはベッドの私の後ろで私にしがみついている。
 レテリーの鋭い牙の生えた口元には、いましがた食い散らかした私の記憶の本の破れたページが挟まっている。青白い体毛を逆立て、鋭い爪と牙を剥き出し、おまえの望んだことを叶えてやるといった風に威嚇し雄叫びをあげた。
 ケルビムがなにを言っていたのか覚えてない。
 でもなにか言ってたんだ。
 レテリーが私目掛けて飛び掛かってくる。
 一瞬早く私はアケルを抱えベッドを転がりレテリーの攻撃を交わしていた。
 ベッドから部屋の脇にある本棚へ転がるレテリー。本棚に体をぶつけた衝撃でまた本が落ちてくる。
 落ちてきた本を再び食い散らかしながら怒りの目で私を睨む。
「やめろ! おねえちゃんの思い出を食べるな!」
 黒髪の少女が私の後ろから泣きながら叫んでいた。
 昔にもこんなことがあったような気がする。もっと小さいなにかが、怯えながら私の後ろでこの少女と同じように……。化け物が私を丸呑みするかのごとく、大きく裂けた口を開き私目掛けて飛び掛かってきた。

 冗談じゃない……。

 なんでもかんでも人の思い出を節操なく喰らい尽くしていく。

 冗談じゃない!

 たとえ私が望んだことだとしてもなんの権利があって私の財産を奪うのか?

 冗談じゃない!

「私の思い出返しなさいよ!」
「御名答!」
 ケルビムがスーツの内側からまるでフランス貴族が使っていたかのようなアンティークな銃を取り出すと、化け物の眉間に向けて一発撃ち込んだ。
 撃ち込まれた弾丸が化け物の眉間に着弾し、弾は化け物の頭の中に捩込まれていく。
 化け物が苦しそうに雄叫びをあげると青白い体から白く靄が発生し始めた。
 青白い化け物はその姿が段々と薄く、透き通っていく。
 苦しそうに悶える化け物、その真っ赤な瞳だけは表情を変えずジッと私の瞳を見据えていた。
 化け物の瞳が私の瞳に語りかけてきたかのように感じた。
 まるで、今回は失敗に終わったが、おまえが再びすべてを忘れたいと望むとき、再び我はお待ちの前に姿を現すであろうとでも言っているかのようだった。

 化け物は完全に消失した。
 化け物が現れてから食い散らかされていったものが次々に復元されていく。
 本棚にベッドに扉、そして私の思い出の本。
 本棚に本が収まっていくと、私が失っていた記憶たちも私の元へと帰ってくるのが自分でもわかった。
 その自分へ戻ってきた記憶や思い出を噛み締めるたび、自分が望んだ行為がどれほど愚かなことだったのかと私はひとり涙を流して泣いた。

 アケルが私を心配し、私の側に駆け寄ろうとするのをケルビムが止めた。
「千里様、わたくしとアケル様は食堂で食事の用意をいたしております。気持ちが落ち着いたら階下へお越しください」
 そう言ってアケルと手を繋ぎ部屋を出ていった。
「ありがとう。ケルビム……」
 私はひとり、落ち着くまで失っていた記憶をひとつずつ噛み締めそして泣いていた。
 落ち着いた私は部屋を出て廊下を進み階段を降りていった。二階に差し掛かり過去の記憶の図書室の扉を見た。
「楓、ごめんね……」
 私は二階の扉の向こうにある、私の記憶たちに謝る気持ちで言った。
 食堂に降りていくと、アケルとケルビムがなにやらワイワイ賑やかに笑っているのがわかった。私は食堂の扉を開け、大広間のふたりのいる席まで歩いていく。
 アケルが私に気づいて駆け寄ってくる。
「あっ! おねえちゃん! もう大丈夫?」
 両手をブンブン振り回しながら駆け寄ってくるアケルがとてもかわいく感じられる。
「あっ! 千里様! もう大丈夫でございますか?」
 ケルビムがアケルの真似をして手をブンブン振り回しながら駆け寄ってくる。
「ちょっとぉ! ケルビムわたしの真似しないでよ!」
 アケルが口を尖らせ怒っている。ケルビムは両手を胸にやりモジモジとぶりっ子ポーズをとりながら「ごめんなさい! わたくし! ごめんなさい!」と言った。
 アケルは指を差して大笑いしている。
 私もたまらず笑ってしまった。
 アケルが私の手を取って席に連れていく。
「わたし、おねえちゃんのためにサンドイッチ作ったんだよ!」
「アケルが? 本当に? すごく嬉しい!」
 席に着くと大皿に山のようにサンドイッチが並べられていた。
 ケルビムがお茶を注ぐとハーブのよい香りが辺りを包んだ。
「アケル様のセンスはわたくしには理解に苦しみます」
 アケルが皿にサンドイッチを取り分けてくれた。
「さぁ! 召し上がれ!」
 アケルが取り分けたサンドイッチは竹輪をカットし、ケチャップがたっぷりと塗り込まれた竹輪サンドだった。
 うわぁ……。
 アケルはテーブルに両肘をつき、頬杖をついて、私が竹輪サンドを食べ感動の言葉を発するのを今か今かとワクワクした表情で待っていた。
 私はサンドイッチを手に持ち、ケルビムに顔をやるとケルビムはわざと視線をそらすように顔を背けた。
 ――ケルビムめっ!
 私は竹輪サンドイッチにおもむろにかぶりついた。竹輪とケチャップの味しかしない。
「どぉ? 美味しい?」
「ぅう、ん! とっても美味しい! アケル天才!」
 私の言葉を聞きアケルは御満悦。
「ね! ほらっ! だから言ったでしょ?」
「いいえ! それは千里様のアケル様に対する社交辞令であって本心ではございません!」
 このふたり、私が来る前になにやら賭けでもしてたのね……。

 三人でワイワイ食事をとった後、ケルビムがデザートとしてヨーグルトにフルーツのソースを添えて持ってきた。
 デザートを三人でペロリと平らげると私は改めてアケルとケルビムに謝罪した。
「アケル、ケルビム、私の身勝手な気持ちのために、あなたたちまで危険な目に遭わせてしまって本当にごめんなさい!」
「わたくしは当ホテルエデンでの身の回りの世話をさせていただく身分、そのようなお言葉は要りませんよ」
 ケルビムはフルーツの食器をまとめながら笑って言った。
「おねえちゃんがわたしたちのこと忘れないでいてくれて本当によかった!」
 アケルは口の周りにヨーグルトをいっぱいつけて笑っている。私は持っていたハンカチを取り出すと、それをそっと拭っていく。
「私ね、アケルが私のためにあの化け物を追い払おうとしてくれてたときにね……」
 私はふいにアケルが私の前からいなくなって必死に探していたときに、自分の不注意で家出させてしまった楓の思い出が、何度も蘇っては思い出しきれずに消えていった話をした。アケルはなにも言わずに私の顔を見上げながら私の話を聞いていた。
 仕事を休み、何日も何日も探し回った楓……。家出してちょうど一週間後、近所にある誰も住んでいない一軒家の庭先にあったU字ブロックのトンネルの中で、不安そうに怯え私を呼びながらかすれた声で鳴いていたのを発見したのだった。
 私が駆け寄ってトンネルから顔を覗かせ、楓の名前を叫ぶ。楓は一瞬、私だと認識できずに後ずさりしたのだが、自分の好きな人がいつも自分を呼びかけるときに発していた言葉を聞き分けると動きを止めて振り返り、私の顔を注意深く確認した。
「楓!」
 間違いない! と確信したんだろう。
 自分に呼びかける自分の大好きな言葉とそれを発する自分の大好きな人間。楓は迷わず私の元に飛び込むように走ってきて体を私に擦り寄せて何度も何度も甘い声で鳴き、喉を鳴らせたんだ。
 そこまで話すとアケルが急に私の話を止めた。
「待って! それはおねえちゃんの思い出なの?」
「うん、そうだよ、私が大好きだった猫の楓との思い出、アケルが行動を起こしてくれなかったら、私は今頃この思い出を失くしたままでいたわ」
「おねえちゃんは、どうしてその猫ちゃんのこと、忘れて構わないって思ったの?」
 アケルは身を乗り出して訊いてくる。
「あの子を失ったことが受け入れられないくらいにつらかったの。毎日、毎日あの子を思って泣いていたわ。こんなにつらいなら、いっそのこと全部忘れたいって思うくらいに」
 アケルの表情が次第に曇っていったのがわかった。
「どうしたのアケル?」
 私がそう訊ねたとき、厨房から後片付けを終えたケルビムが出て言った。
「どうやら西館への入口が現れたようですね」
 ケルビムが指差す方を見ると確かに両開きの木製の扉が現れている。
「それではおふたりとも、ホテルエデン西館へとご案内させていただきます」
 そう言うとケルビムは歩き出し、扉を開き奥の廊下へと進んでいった。私とアケルも後を追って廊下を歩き出すのだった。