一人になりたいという気持ちを察してくれたケルビムに感謝しつつ、三階をめざして階段を上る。ついさっきまでアケルと共に眠っていた客室に戻り、ベッドに転がり目を瞑った。
食堂のにぎやかな声は聞こえない。閑けさが訪れる。
こうして横たわり瞼を閉じれば、ひとりで泣き明かしていた自宅の寝室と、心地は何ら変わらない。
瞼の裏では、楓との想い出が蘇ってきていた。
…………。
楓は今、どこにいるんだろう。ひとりぼっちで寂しい思いをしてるんじゃないだろうか? 私たちはいつだって一緒に笑いあっていた。具合が悪くて蹲っていれば、楓もなんとなくぐったりと隣で寄り添ってくれていた。夫からのサプライズでプレゼントに大喜びしていれば、楓もご機嫌になり、カーペットでごろりと転がっていた。
……今、わたしがこんなにも大きな喪失感を抱えているんだから、楓だって平気でいられるはずがない。
楓……。脳裡でぐるぐると廻る様々な記憶を追いかけるうち、私の不注意で楓を迷子にしてしまったことを思い出した。
あれは、勤務先にほど近い賃貸ワンルームの一室だった。不動産屋さんには、女性の一人暮らしなら二階以上のが良いですよとアドバイスされたけれど、万が一にも楓がベランダから落下したときのことを考えると、高層階には怖くてとても住めないです!と希望して決めた一階の角部屋だった。
あの日は休日出勤だった。先方の都合で土曜日の午前中しかダメだといわれたが、上司が翌月曜日を代休にしてくれるというので喜んで出社した。打ち合わせは午前だけ。午後になれば帰れるから楓とゆっくりできる。そう思い、なんとなく浮ついていた。
じめじめしがちの6月だったが土曜日は晴れていた。猫ベッドでぐっすり寝ている楓を起こさないようそっとガラス窓を開けて、ベランダに布団を乾した。十分注意していたつもりだったけれど、そのほんのわずかの間に楓は外へ出てしまっていた。そのまま気づかず窓を閉め、私は出社してしまったんだ。
帰宅して、部屋に楓がいないことに気づいたが、どうしていないのか、どこに隠れているのかわからずしばらくは室内を探した。しだいに私はパニックになり大声で楓を呼び始めた。ふいに、朝、布団を干す際にガラス戸を開けたことを思いだし、さあっと血の気が引いた。外へ出てしまったかもしれない!と。
あのときは大騒ぎだったな……。片っ端からマンションの住人に訊ね回り、遅くなるまで付近を徘徊したけれど、それらしき猫の姿をみたという人は一人もあらわれなかった。もしかしたら自分で戻ってきてくれるかもしれないと部屋に戻り、灯りを煌々とつけ、ガラス窓を全開にして待っていたら、車通りもなくなって付近が静かになったころにひょいと帰ってきて、何事もなかったかのようにかわいい鳴き声をあげた。楓の体は葉屑や土で汚れていて、肉球をすこしケガしていた。近くにいたんだろう。でもきっと怖くて隠れていたに違いない。私が締めだしてしまったんだと悔やんだ。
ごめんね、ごめんね、と泣きながら、必死に抱きしめる私の腕の中で、楓はいつまででもごろごろと喉を鳴らしていた。
懐かしくも悔やまれる記憶が蘇り、胸が締めつけられる。
そのとき、ドタドタと廊下を走る音が聞こえた。次の瞬間、勢いよくドアが開き、アケルが飛び込んできた。
「おねえちゃん! 遊ぼう!」
アケルがベッドの上をびょんびょんと飛び回る。それに合わせて私の身体も揺れた。
「ケルビムは? 一緒にかくれんぼしてたんじゃなかったの?」
「だってケルビム見つからないんだもん! つまんないから、かくれんぼやめてきた!」
アケルは不満そうに口を尖らせる。
と言うことは、かくれんぼは一方的に終了してるにも関わらず、ケルビムはドキドキしながらどこかで潜んでいて、アケルが探しに来るのをまだ待ってるというわけなのね……。
「じゃあ私も一緒に行くから、もう一度ケルビムを探しましょ」
ベッドから降りて廊下へ出ようとすると、下の階から大きな物音がした。なにかが倒れたような音だ。
「今のはなに?」
驚いて思わず声をあげると、アケルは「ケルビムだ!」と言って走り出した。階段を降り、二階の踊り場から下を見ると、ケルビムが駆け上ってくる。なにか様子が変だ。
「ケルビム見っけ!」
アケルは喜んでいたが、私は、ケルビムの慌てぶりに違和感を覚えていた。
「さっきの音はケルビム?」
訊ねると、ケルビムは首を振った。
「と、言うことはおふたりになにかあったわけではないということですね⁉」
食堂にいたケルビムも、上階で何かあったのではと、確認のために飛び出したということだった。
「と、言うことは……」
ケルビムが、すうと後ろを振り返る。二階、奥の扉に目を向けたまま「お二方はそのまま、そこにいてください」と二階と三階の間の踊り場に、私たちを足止めした。
二階の廊下へ入り、まっすぐ奥へと進んでいく。
ギィィィ……。
軋む音が聞こえた。ケルビムが客室の扉を開けたのだろう。アケルが怯えて私の後ろに引っ込む。
続いてなにか大きな物が倒れる音とともに、振動が響いた。
「ケルビム⁉ 大丈夫?」階段の踊り場から声を上げる。後ろではアケルが私の足にしがみついていた。
二階の廊下は殆どの本棚が倒れ、壁が崩壊していた。ガタンガタンと音は激しさを増してこちらに近づいてくる。一瞬、稲光が廊下を真横に串刺したように感じた。驚いて目を凝らすと、青白いなにかが客室の床を跳ね回っている。
――化け物⁉
ケルビムが部屋から外へ出てきて扉を素早く閉めた。
ケルビムは扉を閉じたままの体勢で、肩で大きく息をしていた。自慢のスーツはあちこちが切り裂かれており、ボロボロになっていた。
扉の向こう――客室の中では、依然としてドタンバタンと音がしていたが、ケルビムが呼吸を整えてドアから手を離すのを見て、私はとりあえずの安全を察知した。
アケルと手を繋いで彼に駆け寄る。
「ケルビム! 大丈夫? 怪我は⁉」
「ご心配要りません。自慢のスーツをボロボロにされただけで、怪我はありませんよ」
ケルビムはあっけらかんとしていた。
「あぁ! よかった。少しかじられたのかと思ったわ」
心配して言うと、ケルビムは首を傾げながら「わたくしがそんなヘマをするはずありませんのに」と不満そうだ。
「アレはいったいなんなの?」
「とにかく一旦、三階の客室へ行きましょう。そこでご説明させて頂きます」
私たちは三階への階段を上がった。客室に入るとケルビムはクローゼットの中からまったく同じスーツを取り出し、鼻歌まじりに着替え始めた。
相変わらず二階からはドタンドタンとなにかが暴れ回る音がして怖かった。
着替えを済ませ、元通りの落ちつきを完全に取り戻したケルビムが説明を始めた。
「まず、二階にいた得体の知れないなにかの正体ですが……」
「あれはなに? 青白かったわ」
「えぇ、レテリーと言う名の獣でございます」
「レテリー? 聞いたことないわ、そんな動物。アケルは知ってる?」
アケルは首を振る。
ケルビムは笑いながら答えた。
「まぁ、あまり見かけないでしょうね、千里様の住んでおられるところには存在しませんし」
「でも、もう安心なんでしょ? だって二階に閉じ込めてあるんだし」
するとケルビムは腕を組んで声を潜めるように言った。
「実はそう簡単にいく話ではなさそうなのでございます」
「どうして?」恐る恐る訊ねる。
「実はあのレテリー、記憶の書物が大好物なのでございます」
「どういうこと?」
「つまり、千里様。二階にある書物――つまり千里様の過去の思い出や記憶が、今まさにレテリーに食い尽くされようとしているのです」
「そんなの、だめじゃない!」なぜそんなことが? 思考が混乱した。私の疑問や不安を察知したかのようにケルビムが説明を続けた。
「冷静になってください。レテリーは千里様ご自身が呼び出した怪物でございます。貴女様は、さきほどこのホテルエデンにとどまりたいと願われませんでしたか?」
「たしかに、そう考えたけれど、それがどうして呼び出したなんてことになるのよ」
「千里様の気持ちに反応してレテリーが現れたのでございます。過去を消すために」
「過去、の記憶を消す……?」
どうやら、あのレテリーと呼ばれる獣は、私自身の気持ちが呼び寄せた怪物らしい。私のこのホテルエデンに留まりたいと思う気持ちに反応したということだった。
でもなぜそれが記憶の書物を喰らう化け物と結びつくのか?
その問いにもケルビムは答えてくれた。
「千里様、これは大事でございますので、よく聞いてください。レテリーが千里様のこれまでの記憶そのものを喰らい尽くしてしまえば、ここから出なければならない理由も目的もすべてなくなってしまいます」
刹那、私の中でふたつの思考が衝突したことに私は気づいた。もちろん、そんなことになったらこれまでの生活すべてを捨てることになる。残してきた夫、楓と暮らした大切な家、そして想い出を失う。でも、それも悪くはないんじゃないか。そんな思いが湧き上がり、むくむくと私を侵食していった。
自分の半身のようにかわいがっていた愛猫を失い、その心の傷がいったいいつ癒えるのかも見通しの立たないまま、私は毎日泣き続け、抜け殻のように過ごしていた。
ふとしたきっかけで楓を思い出し続け、塞がらない傷口に次々とナイフを突き刺されたような激痛に息もできなかった。そんなつらい毎日が続くのなら、いっそ記憶なんてなくなってしまえばよいと思った。
私が何も言わずに黙り込んでいると、アケルが叫んだ。
「ねぇ! ケルビム! レテリーを追い出せないの⁉」
「残念ながらアケル様、今はあの化け物に太刀打ちできないでしょう」
「じゃあ、じゃあ三人で力を合わせれば追い出せる⁉」アケルは食い下がった。
「それは――」
ケルビムがなにかを言おうと右手の人差し指を立てる。私はそれを阻止して会話に割って入った。
「アケル、無茶言わないの。ケルビムでも勝てないって言ってるのに、私やアケルが一緒に行ったって足手まといになるだけよ」
「でも! でも! そしたらおねえちゃんが!」
アケルは目に涙を溜めて、悔しそうに言葉を吐いた。ケルビムは指を立てた姿勢のまま、なにも言わずに黙って私を見ていた。
仮面の向こうの視線に品定めされているようで居心地が悪い。
「おねえちゃんが! おねえちゃんが!」
アケルは泣きながらそればかりと口にした。
「ケルビムの役立たず‼」
アケルは泣き叫びながら、部屋を飛び出していった。
「アケル!」後を追おうとすると、ケルビムがそれを制した。
「わたくしにお任せください」
そう言うとケルビムは部屋を出ていった。
食堂のにぎやかな声は聞こえない。閑けさが訪れる。
こうして横たわり瞼を閉じれば、ひとりで泣き明かしていた自宅の寝室と、心地は何ら変わらない。
瞼の裏では、楓との想い出が蘇ってきていた。
…………。
楓は今、どこにいるんだろう。ひとりぼっちで寂しい思いをしてるんじゃないだろうか? 私たちはいつだって一緒に笑いあっていた。具合が悪くて蹲っていれば、楓もなんとなくぐったりと隣で寄り添ってくれていた。夫からのサプライズでプレゼントに大喜びしていれば、楓もご機嫌になり、カーペットでごろりと転がっていた。
……今、わたしがこんなにも大きな喪失感を抱えているんだから、楓だって平気でいられるはずがない。
楓……。脳裡でぐるぐると廻る様々な記憶を追いかけるうち、私の不注意で楓を迷子にしてしまったことを思い出した。
あれは、勤務先にほど近い賃貸ワンルームの一室だった。不動産屋さんには、女性の一人暮らしなら二階以上のが良いですよとアドバイスされたけれど、万が一にも楓がベランダから落下したときのことを考えると、高層階には怖くてとても住めないです!と希望して決めた一階の角部屋だった。
あの日は休日出勤だった。先方の都合で土曜日の午前中しかダメだといわれたが、上司が翌月曜日を代休にしてくれるというので喜んで出社した。打ち合わせは午前だけ。午後になれば帰れるから楓とゆっくりできる。そう思い、なんとなく浮ついていた。
じめじめしがちの6月だったが土曜日は晴れていた。猫ベッドでぐっすり寝ている楓を起こさないようそっとガラス窓を開けて、ベランダに布団を乾した。十分注意していたつもりだったけれど、そのほんのわずかの間に楓は外へ出てしまっていた。そのまま気づかず窓を閉め、私は出社してしまったんだ。
帰宅して、部屋に楓がいないことに気づいたが、どうしていないのか、どこに隠れているのかわからずしばらくは室内を探した。しだいに私はパニックになり大声で楓を呼び始めた。ふいに、朝、布団を干す際にガラス戸を開けたことを思いだし、さあっと血の気が引いた。外へ出てしまったかもしれない!と。
あのときは大騒ぎだったな……。片っ端からマンションの住人に訊ね回り、遅くなるまで付近を徘徊したけれど、それらしき猫の姿をみたという人は一人もあらわれなかった。もしかしたら自分で戻ってきてくれるかもしれないと部屋に戻り、灯りを煌々とつけ、ガラス窓を全開にして待っていたら、車通りもなくなって付近が静かになったころにひょいと帰ってきて、何事もなかったかのようにかわいい鳴き声をあげた。楓の体は葉屑や土で汚れていて、肉球をすこしケガしていた。近くにいたんだろう。でもきっと怖くて隠れていたに違いない。私が締めだしてしまったんだと悔やんだ。
ごめんね、ごめんね、と泣きながら、必死に抱きしめる私の腕の中で、楓はいつまででもごろごろと喉を鳴らしていた。
懐かしくも悔やまれる記憶が蘇り、胸が締めつけられる。
そのとき、ドタドタと廊下を走る音が聞こえた。次の瞬間、勢いよくドアが開き、アケルが飛び込んできた。
「おねえちゃん! 遊ぼう!」
アケルがベッドの上をびょんびょんと飛び回る。それに合わせて私の身体も揺れた。
「ケルビムは? 一緒にかくれんぼしてたんじゃなかったの?」
「だってケルビム見つからないんだもん! つまんないから、かくれんぼやめてきた!」
アケルは不満そうに口を尖らせる。
と言うことは、かくれんぼは一方的に終了してるにも関わらず、ケルビムはドキドキしながらどこかで潜んでいて、アケルが探しに来るのをまだ待ってるというわけなのね……。
「じゃあ私も一緒に行くから、もう一度ケルビムを探しましょ」
ベッドから降りて廊下へ出ようとすると、下の階から大きな物音がした。なにかが倒れたような音だ。
「今のはなに?」
驚いて思わず声をあげると、アケルは「ケルビムだ!」と言って走り出した。階段を降り、二階の踊り場から下を見ると、ケルビムが駆け上ってくる。なにか様子が変だ。
「ケルビム見っけ!」
アケルは喜んでいたが、私は、ケルビムの慌てぶりに違和感を覚えていた。
「さっきの音はケルビム?」
訊ねると、ケルビムは首を振った。
「と、言うことはおふたりになにかあったわけではないということですね⁉」
食堂にいたケルビムも、上階で何かあったのではと、確認のために飛び出したということだった。
「と、言うことは……」
ケルビムが、すうと後ろを振り返る。二階、奥の扉に目を向けたまま「お二方はそのまま、そこにいてください」と二階と三階の間の踊り場に、私たちを足止めした。
二階の廊下へ入り、まっすぐ奥へと進んでいく。
ギィィィ……。
軋む音が聞こえた。ケルビムが客室の扉を開けたのだろう。アケルが怯えて私の後ろに引っ込む。
続いてなにか大きな物が倒れる音とともに、振動が響いた。
「ケルビム⁉ 大丈夫?」階段の踊り場から声を上げる。後ろではアケルが私の足にしがみついていた。
二階の廊下は殆どの本棚が倒れ、壁が崩壊していた。ガタンガタンと音は激しさを増してこちらに近づいてくる。一瞬、稲光が廊下を真横に串刺したように感じた。驚いて目を凝らすと、青白いなにかが客室の床を跳ね回っている。
――化け物⁉
ケルビムが部屋から外へ出てきて扉を素早く閉めた。
ケルビムは扉を閉じたままの体勢で、肩で大きく息をしていた。自慢のスーツはあちこちが切り裂かれており、ボロボロになっていた。
扉の向こう――客室の中では、依然としてドタンバタンと音がしていたが、ケルビムが呼吸を整えてドアから手を離すのを見て、私はとりあえずの安全を察知した。
アケルと手を繋いで彼に駆け寄る。
「ケルビム! 大丈夫? 怪我は⁉」
「ご心配要りません。自慢のスーツをボロボロにされただけで、怪我はありませんよ」
ケルビムはあっけらかんとしていた。
「あぁ! よかった。少しかじられたのかと思ったわ」
心配して言うと、ケルビムは首を傾げながら「わたくしがそんなヘマをするはずありませんのに」と不満そうだ。
「アレはいったいなんなの?」
「とにかく一旦、三階の客室へ行きましょう。そこでご説明させて頂きます」
私たちは三階への階段を上がった。客室に入るとケルビムはクローゼットの中からまったく同じスーツを取り出し、鼻歌まじりに着替え始めた。
相変わらず二階からはドタンドタンとなにかが暴れ回る音がして怖かった。
着替えを済ませ、元通りの落ちつきを完全に取り戻したケルビムが説明を始めた。
「まず、二階にいた得体の知れないなにかの正体ですが……」
「あれはなに? 青白かったわ」
「えぇ、レテリーと言う名の獣でございます」
「レテリー? 聞いたことないわ、そんな動物。アケルは知ってる?」
アケルは首を振る。
ケルビムは笑いながら答えた。
「まぁ、あまり見かけないでしょうね、千里様の住んでおられるところには存在しませんし」
「でも、もう安心なんでしょ? だって二階に閉じ込めてあるんだし」
するとケルビムは腕を組んで声を潜めるように言った。
「実はそう簡単にいく話ではなさそうなのでございます」
「どうして?」恐る恐る訊ねる。
「実はあのレテリー、記憶の書物が大好物なのでございます」
「どういうこと?」
「つまり、千里様。二階にある書物――つまり千里様の過去の思い出や記憶が、今まさにレテリーに食い尽くされようとしているのです」
「そんなの、だめじゃない!」なぜそんなことが? 思考が混乱した。私の疑問や不安を察知したかのようにケルビムが説明を続けた。
「冷静になってください。レテリーは千里様ご自身が呼び出した怪物でございます。貴女様は、さきほどこのホテルエデンにとどまりたいと願われませんでしたか?」
「たしかに、そう考えたけれど、それがどうして呼び出したなんてことになるのよ」
「千里様の気持ちに反応してレテリーが現れたのでございます。過去を消すために」
「過去、の記憶を消す……?」
どうやら、あのレテリーと呼ばれる獣は、私自身の気持ちが呼び寄せた怪物らしい。私のこのホテルエデンに留まりたいと思う気持ちに反応したということだった。
でもなぜそれが記憶の書物を喰らう化け物と結びつくのか?
その問いにもケルビムは答えてくれた。
「千里様、これは大事でございますので、よく聞いてください。レテリーが千里様のこれまでの記憶そのものを喰らい尽くしてしまえば、ここから出なければならない理由も目的もすべてなくなってしまいます」
刹那、私の中でふたつの思考が衝突したことに私は気づいた。もちろん、そんなことになったらこれまでの生活すべてを捨てることになる。残してきた夫、楓と暮らした大切な家、そして想い出を失う。でも、それも悪くはないんじゃないか。そんな思いが湧き上がり、むくむくと私を侵食していった。
自分の半身のようにかわいがっていた愛猫を失い、その心の傷がいったいいつ癒えるのかも見通しの立たないまま、私は毎日泣き続け、抜け殻のように過ごしていた。
ふとしたきっかけで楓を思い出し続け、塞がらない傷口に次々とナイフを突き刺されたような激痛に息もできなかった。そんなつらい毎日が続くのなら、いっそ記憶なんてなくなってしまえばよいと思った。
私が何も言わずに黙り込んでいると、アケルが叫んだ。
「ねぇ! ケルビム! レテリーを追い出せないの⁉」
「残念ながらアケル様、今はあの化け物に太刀打ちできないでしょう」
「じゃあ、じゃあ三人で力を合わせれば追い出せる⁉」アケルは食い下がった。
「それは――」
ケルビムがなにかを言おうと右手の人差し指を立てる。私はそれを阻止して会話に割って入った。
「アケル、無茶言わないの。ケルビムでも勝てないって言ってるのに、私やアケルが一緒に行ったって足手まといになるだけよ」
「でも! でも! そしたらおねえちゃんが!」
アケルは目に涙を溜めて、悔しそうに言葉を吐いた。ケルビムは指を立てた姿勢のまま、なにも言わずに黙って私を見ていた。
仮面の向こうの視線に品定めされているようで居心地が悪い。
「おねえちゃんが! おねえちゃんが!」
アケルは泣きながらそればかりと口にした。
「ケルビムの役立たず‼」
アケルは泣き叫びながら、部屋を飛び出していった。
「アケル!」後を追おうとすると、ケルビムがそれを制した。
「わたくしにお任せください」
そう言うとケルビムは部屋を出ていった。